心理療法の”常識”も実は違っていたの?!

 

 心理療法に関わる人たちの間では、なんとなく常識となっていることがあります。

 

 それは、
  クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない、とか
  悩みも肯定的な意味、意図があって、解決のためにはそれを認める必要がある、
 
 といったもの。

 

 日常の生きづらい生活の中では、清涼感、潤いを感じるような考え方です。 
 競争的でギスギスしたり、コンプレックスを感じたりしているなかではなおさらです。
 ただ、自分が悪く言われて、欠点を直しましょうなんて考えはうんざりするでしょうから。
 

 

 例えば、認知行動療法など、のセラピーにおいては、
 私たちの悩みの原因は「非合理的な信念」にある、と捉えます。

 そして、「非合理的な信念」というのは、
 「いつも一生懸命でなければならない」だとか、「楽しむべきではない」「完全でなければならない」
 であるといったこと。

 

 

 認知行動療法などの説明では、

 人間は過去のある時点では、自分の身を守るために、そうした信念をインストールする。 
 その時はそれでいいけども、問題は、状況が変わっても、そうした信念を持ち続けてしまうことだ。それが悩みの原因だ、とします。そのことを「非合理的な信念」といいます。

 

 ただ、信念を変えようとしても抵抗が強い。 

 そのため、その信念を持つに至った意図(肯定的な意図)は尊重しながらも、信念を捨てるか、別の形に変化させることで悩みや問題行動がなくなる、というのが認知行動療法の基本的な考え方になります。

 

 認知行動療法は多くの実績があり、確かに悩みは軽くなります。エビデンスがあり認められた手法です。筆者も自分で試してみて悩みが軽くなった経験があります。

 

 ただ、生きづらさといった大きな問題の核は解決するかといえば、そうはならない。なかなかうまくいかない。問題はオールクリアにはならない。

 

 そこで、ビリーフにも深さがあって、コアビリーフを変えればいい、というアイデアで取り組む方法が登場します。
 深く、深く、より深く、というわけです。

 ただ、それもなぜかあまりうまくいかない。
 アイデアはいいけど結果は伴わない。

 仮説を信じれば、核となるビリーフを変えれば良くなるはずなのですが、そうではない。

 

 

 繰り返しになりますが、

 
 「問題とはもともとは悪ではないので、その意図を否定せずに受け入れれば解決する」

 という考えは、心理療法に関わる人からすると常識ともいうべき、ポピュラーな考えです。善悪を切り捨てずに、融和させるという、特に日本人が好むアイデアです。

 

 

 そして、人格は一つ、という前提があります。

 

 多重人格なんていうのは特殊な例だけで、普通の人は人格が一つだ、と漠然と考えています。その前提では割り切れない、様々な現象をなんとか解釈しなければならない。(例えば、「どうして自分ではしたくもないことをしたり、否定的な感情が止まらないのか?」といったこと。)
 そこででてきたのが、無意識や自己内自己に原因を求めたり、問題(悪)にも意識していないなんらかの意図があり、真っ向否定するのではなく、融和させるというアイデアです。 

 

 

 

 実はそれでは解決はもたらされない。

 その”問題(悪)”というものの正体をうまく見極めることなく、理想主義的に受け入れてしまうことで、実はクライアントさんの中にある”本来の自分”をないがしろにしてしまう。解決を妨げてしまっている、ということが見えてきました。
 (先日の記事でのドラマのNHK記者のように 参考)→「寄り添いすぎて目がくもる」)

 

 それは様々な事例から、

 ・人間の人格は一つではなく、誰もが複数の人格が束になっていて日常生活でも容易に解離する存在であること、

 ・ローカルルールに影響された人格が、本来の自分の邪魔をしたり、スイッチして前に出てきたりということが起きること、

 が、わかってきたためです。
 

 
 臨床から見えてきた人間の実態から考えたときに、
 「人格は一つ」との前提から無差別に問題症状の「肯定的な意図をくむ」とか、「クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない」というこれまでの心理療法の常識は、「本来の自分」をないがしろにしてローカルルールの延命を助けてしまうだけ。

 

 さながら、「いじめっ子にも理由があるに違いないから、叱らずに耳を傾けなければ」といって、いじめを見逃す教師のようなものです。
 毅然としていじめっ子を叱って教室内の全体主義的な状況を正常に戻してもらわなければ、いじめられっ子はたまったものではありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 ローカルルール人格というのがさまざまな問題を引き起こしていますから、肯定的な意図を汲もう、なんていうことをしている場合ではありません。本当に耳を傾けなければならないのは、「本来の自分」の声なのです。

 

 「ローカルルール人格」が前に出てきて悪さをしたり、あるいは、本来の自分に影響を及ぼして苦しめている状態であれば、それを解き明かして、あるときは「ローカルルール人格」をバッサリを切り捨てないといけない。

 

 

 事実、クライアントさんは、本来は自分の考えではないことを本心だと思い込まされたり、本来の自分が起こした感情、行動ではないことに責任を感じて、ずっと悩み続けたりしているのです。
 そこを切り分けて「ローカルルール人格」が起こしていたんだと明確にしていく必要があります。

 

 

 「人間は解離する(人格は一つではない)」そして、「人格はローカルルールに感染して、本来の自分に悪い影響を及ぼしている」ということが見えてきたことで、これまで言われてきた心理療法の”常識”が、どうやらそうではないということが浮かび上がってきました。
 

 

 悩みがなかなかよくならないのは、実はクライアントさんや治療者も巻き込まれて、悩みの要因を延命させされているからではないか? さながらイネーブリング(世話焼き行動)や、共依存のように。

 

 実際に、セッションの中で、
 「ローカルルールを真に受けている自分に意識を向けてください」
 とお願いすると、

 クライアントさんが、
 「あっ!自分にハラスメントを仕掛けてきた家族のことがかわいそうだと思っていることに気づきました」
 と気が付きます。
 
 
 「家族が可愛そうだから、私がその家族の考え(ローカルルール)を聞いてあげないといけないのだと思っていました」

 とおっしゃるのです。

 

 まさに私達の中には「人格は一つ」であるとの素朴な前提から、自分の中にあるおかしなローカルルールを自分の本当の感覚だとして真に受けさせられて、さながら、共依存のように世話焼きしている自分がいるということがわかります。

 本来であれば、ローカルルールはバッサリと切り捨てなければならない。
 

 

 

 

 クライアントさんの内面を例にしてあげていますが、対人関係の場面でも同様です。私たちが日常で接する理不尽な行為に対して、「相手にもなにか理由があるのでは?」といった、盗人にも五分の理を探す必要はないということです。
 相手の理を考えさせられることから支配が始まります。

 そんなことをする必要はなかった。

 

 「悪(問題)も懐柔したり、包摂しなければならない」という考え自体がローカルルールだ、ということ。

 

 

 スピリチュアルや、自己啓発の世界はローカルルールだらけですから、その親戚格である心理療法もローカルルールの影響が及んでいるのも無理はありません。
 (実は、スピリチュアルな考えを真に受けていればいるほどローカルルールに影響されて悩みは解決しにくくなります)

 

 

 落ち着いて、感情を込めずに、自分の中にあるローカルルール人格に対しては、NO と言う必要があります。

 

 「肯定的な意図?!そんなこと私には関係ありません。とにかく私に迷惑なことはやめてください」
 「非合理的な信念?!それも私のものではありません。邪魔しないでください」

 というだけ。

 

 そうすると、これまでは巻き込まれていた”本来の自分”が巻き込まれなくなるために、ちょっかいを出せなくなり、だんだんと力が削がれてしまい、ローカルルール人格は、前に出てこれなくなります。

 

 不思議なことですが、長年何をしても解決しなかった問題が氷解してくるようになります。

 

 実際、筆者も長年苦しんできた問題が取れたり、人や物に対する感覚が変わってくるのを感じます。不思議とこれまでとは別の捉え方になってきます。自分を責める必要って本当にないんだ、とわかります。
 あの人がおかしくなったのも、あの言動もローカルルールだったんだ、自分とは全く関係ない、とわかります。

 

 自分にとって嫌な感覚はすべて自分の中にある「ローカルルール人格」の影響なのだ、と捉えて大丈夫です。

 そして、「本来の自分」は何も問題がないのだ、と捉えてさらに大丈夫です。

 
 心に聞く、の「心」も実は”本来の自分”のことです。
 (心に聞く、の邪魔をしているのは「ローカルルール人格」だということもわかってきました。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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