世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 妻夫木聡さんが主演している「悪人」という映画があります。
 吉田修一さんの小説に基づいたものですが、その映画の中で、登場人物がむしゃくしゃしてラーメン屋を出る際に「ああ、まずかった!」と大きな声で行って出ていくシーンがあります。

 これは明らかにその登場人物が物事がうまくいかない不全感からラーメン屋の店主を傷つけようとして行ったものです。
 
 当然、発言の内容には意味はありません。

 もし、ラーメン屋の店主が真に受けてしまったら、ラーメン屋を廃業する、なんてことが起きるかもしれません。

 

 

 以前、TV番組で、藝妓さんが取り上げられていました。
 伝説的な藝妓さんということで芸も一流ですが、会話の仕方からすべて相手のことを気遣って接していらっしゃいました。
 

 そんな伝説の藝妓さんでも、仕事をしていて辛い体験はあったそうです。
 それはある宴会の席でお座席に呼ばれたときのこと。会話を磨いていた藝妓さんは、相手が盛り上がる話題を提供し、自分では自信を持って接客できた、と思っていたら、後日、「あいつはもう呼ぶな」とお客さんから言われそうなのです。とてもショックな出来事です。

 問題なかったはずだけども、どこか自分に慢心があり、お客さんの気に触ったのではないか、ということだそうです。

 それ以来、会話など接し方を見直して今に至る、というエピソードが紹介されていました。
 

 

 別の例では、ある店員さんが普通に接客していました。そのお客さんは問題なくお帰りになられたと思っていました。
 
 しかし、後日会社のカスタマーセンターに
 「笑顔が嘘くさかった」「親切さが押し付けがましかった」とか、
 「上から目線に感じて不快だったから、二度と利用しない」とのクレームが入った旨の連絡が来て驚いたそうです。

 

 対応している側としてはそれで他のお客さんからは文句もないし、普通に接している。ただ、なぜか1年に1~2回は必ずそうしたお客さんが現れたりする。

 気にしなくて良いとはわかりながらも、店員としてはやはりショックを受けて傷つく、徐々に萎縮する感覚を感じてしまう。 
 
 「自分に問題があるのでは」という気持ちが拭えなくなってしまったそうです。

 

 

 冒頭からの3つの例について、ここで起きていることは、実は全てローカルルール人格が引き起こした現象です。

 (参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 顧客が自己の不全感から何かの引き金でローカルルール人格にスイッチします。すると、普通にサービスを提供しているのにもかかわらず、クレームを寄せてきて、言い返せない相手を傷つけるだけ傷つけます。

 

 一流のホテルや旅館、レストランでもクレームのないところはありません。

 
 もちろんミスからクレームになることはありますし、それに対応して改善することは当然ですが、多くのものが、要は「自分を大事に扱っていない」という過剰な(ニセモノの)クレームだったりします。

 

 飛行機の中では豹変してローカルルール人格になる人はとても多い。いい大人が駄々っ子のようになって、CAさんを相手に文句を言っている場面をよく目にします。

 CAさんなどの仕事は「感情労働」と呼ばれていますが、そのストレスは大変なものです。

 

 人間はどれだけしっかりと接していても、仕事などでローカルルール人格に変身した方に遭遇します。サービス業であれば必ずある一定の割合と頻度で、ローカルルール人格に変身した人たちが訪れてきます。ローカルルールに相手を巻き込むためだけにサービスに申し込む人もいます。

 

 サービス業などを中心に生じるクレーム(ローカルルール)というものは、「お客様は神様です」「お客様の言うことはどんなことでも応えなければならない」「お客様の方が正しい」といった観念を悪用して成り立っています。
  

 最近は、それを「カスタマーハラスメント」というそうですが、もしかしたら日本では特に生じやすいのかもしれません。
 

 

 以前記事に書いたことがありますが、海外だと、お店に入ってもスマイルもないし、店員さんも無愛想にしています。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」
  
 良いサービスを受けるためには、その分のお金を払わないといけない。ただでサービスは求めることができない。

 対価と提供するものとがしっかりと対になっている。

 

 実はこれが本来の姿ではないかと思います。

 一方、日本だと、安くてもサービスは良かったりするので、ついつい当たり前に思っていますが、お金も出していないのに、良いサービスを当たり前としているのはどこかおかしい。
 

 

 例えば、コンビニやファーストフードの店員に笑顔がなかった、といってクレームをつける人がいたとしたら、どこか勘違いをしています。
 わずか数百円しかお金を払っていなければ、それだけのサービスしか受けれません。

 

 「いつでもどこでも、一流のホテルマンみたいな対応をしろ!それが常識だ。ただし、追加のサービス費用は払わないから、タダでお願いね」
 
 と言っているということですから。

 

 もし、本来いただいている費用によって提供を約束しているものを厳密に定義したとすれば、正当なクレームというのは半分にも満たないかもしれません。

 

 多くのクレームは、「お客様は神様です」という慣習にタダノリして、自分の不全感を発散しているだけ。

 一般の店員さんに対して、チップを渡しているわけでもないのに、一流の接客を求めるなんて冷静に考えれば変なことです。

 海外でチップが必要なのは、日本人から見たらドライですが、とてもフェアなことではあります。

 

 そう考えると、
 例えば、
 タクシーの運転手が道がわからないとすぐに腹を立てる人もいますが、(もちろん、道を知っていてほしいのはやまやまですが)特別料金を払っているわけではなく流しのタクシーを安く利用しているのであれば、稀にそうした事があるのはやむなしとしてある程度は許容しないといけないのでしょう。 

 

 

 以前、習い事のグループレッスンで先生が自分にアドバイスをくれなかった、と怒っている方がいらっしゃいましたが、それも、もちろん丁寧に対応してくれるに越したことはないのですけれども、グループレッスンであるために割安で利用できているのであればぼちぼちで許容しないといけない。
 手厚く対応してほしいのであれば、本来はマンツーマンのレッスンを申し込まなければいけないということなのでしょう。

 

 

 本来提供を約束しているものと期待のミスマッチ。その間を「お客様は神様です」という気合・慣習を背景に「自分だけは特別に優遇してもらえるはず」という幻想が生まれ、「自分は大事にされていない」という失望がきっかけでそこにローカルルールが付け入って炎上(クレーム)を引き起こす、という構図と言えます。

 

 

 その点、日本は異常かもしれない。

 同様に、個人同士でもさながら日本人全員が伝統芸能の弟子さんにでもなったかのように、過剰な礼儀や気遣いを求められることもおかしなことです。日本はあまりにも細かなことにうるさすぎて、それが自分にも返ってきて、互いに拘束しあっている。もはやローカルルール化している。

 そのために、「対人恐怖症」というのは、日本独自の悩み(文化依存症候群)とされるまでになっています。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 
 ローカルルールは、社会で一見正論のようでいておかしな慣習を悪用して、生き永らえようとします。

 例えば、いじめは、「学校の中は自治が行われる聖域で、外の社会とは違い特別だ」といった観念、慣習を悪用をして、社会の常識や法といった外部の介入がなされないまま、被害者が命を断ったり、消えがたいトラウマを負ってしまうということが起きてきました。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 
 DVやパワハラもそうで、「家庭や職場の中は特別(私的領域)」「私がおかしいと判断した相手を指導して良い」という意識がハラスメントの温床となります。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 外で人と殴ったり暴言を吐いたら警察に捕まります。しかし、「家や職場の中では良いのだ」といっているのですからおかしなことです。
 外でダメなことは家や職場の中でも当然ダメなのですが、ローカルルールは、内密な関係から外れたら生きていけないような気にさせて、常識がわからなくさせてしまいます。

 本来それぞれ独立した人間ですから、正当な権限でもなければ、相手を指導することなどできません。
 会社でも指導できるのはあくまで業務の改善だけです。人格に触れることはできません。

 

 ローカルルールがはびこりやすいのは、権限の範囲などが曖昧にされていて、曖昧さから生まれる不具合が個人の人格の問題とされたり、擬似的な私的領域が生まれやすい状況といえます。
 
 日本の職場は、仕事の権限や責任が明確ではありません。
 そのために、「これは私の仕事ではありません」「人格に関わることについて言われる筋合いはありません。」とは言えず、曖昧さの隙間にハラスメントが生じます。 

 

 会社と顧客の間にも同様に曖昧さは生じます。

 
 サービス業の方が身につけているのは、当たり障りなく、そうした曖昧な隙間を埋めて、ローカルルール人格にスイッチする確率を減らすための所作やあるいはそれを鎮めるための方略や身を護る術、と言えるかもしれません。

 

 人間は公的な環境では本来の状態でいることができます。
 「礼儀」というのは公的環境を作り出すには最適なものであるためです。

(参考)→「親しき仲にも礼儀あり

 

 しかし、ローカルルール人格の言っていることを真に受けてしまうのであれば、それは全くの間違いです。ふりまわされているだけになります。

 結果、世の中のビジネスはクレームを恐れて過剰に設計されていて余計なコストを負担している。野菜などの食品がわかりやすい。クレームが来そうなものは食べれるものでも廃棄されている。過剰防衛になっていると言えます。 
 

 本来、おかしいのはローカルルール人格の側なのですから。

 

 かつては、ローカルルール人格の言うようなことも意味があるとして受け止める風潮はありました。

 理不尽な部活の先輩や監督の要求に耐える。

 弟子は師匠の気まぐれに応える。

 会社上司の言うことはすべて受け止める。

 などなど

 「理不尽を受け止めたり、耐えることで成長することができました!」というスポ根的な美談は数多くありました。
 (特にトラウマを負った人にとっては、理不尽なことは全て自分の責任であり、応えて当然、と思いがちです。)

 

 
 でも、それらは全く意味がなかったのかもしれない。その事に気がついた人たちが、最近は、モラルハラスメントだとして告発するようになりました。

 告発された側が地位を失うような自体になっています。

 「ハゲ~!」と絶叫していた国会議員は、まさにローカルルール人格に変身した姿を記録されて、失職してしまいました。

 

 冒頭の藝妓さんも、クレームを受けてそれに応えたということで美談となっていますが、現代の基準で言えば、それに応えなくても良かったのかもしれません。
 もちろんクレームに応えて成長できた部分もあることは否定しませんが、受け止めた結果、萎縮して抑えてしまった本来の自分の良さもあるでしょうから。

 

 例えば、好きな芸能人のランキングに上る人が、同時に嫌いな芸能人のランキングにも登場することがしばしばあります。

 その芸能人は、嫌いと言っている人のクレームを聞いて、改善しなければいけないのでしょうか?
 この世には万人に好かれる人はいないのですから、改善したら確実に良さが失われてしまいます。

 

 

 プロ野球の投手は打たれても反省することはありません。

 反省するような性格であれば、投手としてはやっていけない。
 では、独りよがりになるか、といえばそんなことはなく、自分の感覚を信頼して改善していきます。
 
 

 世の中にあるクレームのおそらく9割はローカルルール人格がからむニセクレームで、真のクレームというのは1割といってもよいのでしょう。 

 あおり運転などを見ればわかります。
 並走している車へのクレーム行為ですが、いかに異常であるかがよくわかります。

 

 あおり運転の加害者は異常だとはっきりわかりますが、日常のクレームについてはなぜか真に受けてしまいがちです。
 それは「お客様は神様です」といった慣習が邪魔をしているから。

 世の中には、ローカルルール人格というものが存在するということ、そして世の中はニセのクレームだらけだということを知る必要があります。

 

 ニセのクレームがあるということについてわかりやすいのは、モラルハラスメントを行う会社の上司、DVを行うパートナー、いじめっ子、虐待する親などの発言です。
 私的感情を隠すために彼らは理屈をこねますが、言っている内容が耳を傾けるに値しないことは明らかなことです。

 

 

 虐待死事件で、死に追いやられた子供が痛ましい反省文を書かされていましたが、あれも、親のニセのクレームにさらされ、本来改善する必要のないものを改善するように強いられていたわけです。

 もし、親にインタビューしたら、もっともらしい理屈を語るでしょうけどもたわごとであることは自明です。

 同様のことが、じつは私たちの身近な仕事の現場でも起きています。

 

 ニセのクレームを真に受けて心に傷を負ってしまう人や、場合によっては仕事を辞めてしまう人もいるでしょう。(以前ご紹介したカウンセラーの例もその一つです)

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 ニセのクレームだということと、そのことが世間でも浸透し、会社全体でも真に受けなくなれば、過剰防衛によるムダも減るかもしれないですし、トラウマを負ってしまう人も少なくなるかもしれません。
 「カスタマーハラスメント」という言葉が出てきたのは良いことです。

 

 

 こうした前提から考えると、

 仕事において、普通にサービスを提供して、普通に応対していて、それでもクレームが来るなら、それはすべて相手がおかしい、と捉えて間違いではない。
 いじめられっ子が、いじめっ子の理屈を真に受けないでいいのと同様。ローカルルール人格が絡んでいるということ。  

 (会社の中での上司の叱責や、学校や家庭の中での心のない言葉もです。)

 

 

 冒頭のラーメン屋の例であれば、もちろん受け止める必要もなく、店主がその失礼さを叱りつけて、「二度とのれんをくぐるな~」と、水をまいても良いくらいかもしれません。
 叱責によって公的環境にいると目が醒め、人間はローカルルール人格への変身から目が覚めやすくなります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 万が一、提供すべきサービスが提供できていなければ、それは謝罪し、改めたものを提供し直すということは当然のことですが、

 私たちは、自分の立ち位置は、常に日の当たる側、常識の側においておく。
 そして、しっかり普通に仕事をする、予定されたサービスを提供する。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 それでもクレームが来たとしたら、それはニセのクレームだと知る。
 

 

 本当のクレームというのは、意識を向けていれば身体で自然とわかるものです。 

 

 お客さんと会話していく中で、改善のヒントにハッと気がついたり、仕事をする中で不意にアイデアが降りてきたり、といったことがおきます。それが本来のカタチ。 

(参考)→「真の客観とは何か?

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 「本来の自分」同士のやりとりというのは、安心安全で創造的なものです。

 私たちはもっと、常識を背景とした自分の感覚を信頼しても良いのかもしれません。そうすると、何を受け止めるべきことかは自然が教えてくれます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

心理療法の”常識”も実は違っていたの?!

 

 心理療法に関わる人たちの間では、なんとなく常識となっていることがあります。

 

 それは、
  クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない、とか
  悩みも肯定的な意味、意図があって、解決のためにはそれを認める必要がある、
 
 といったもの。

 

 日常の生きづらい生活の中では、清涼感、潤いを感じるような考え方です。 
 競争的でギスギスしたり、コンプレックスを感じたりしているなかではなおさらです。
 ただ、自分が悪く言われて、欠点を直しましょうなんて考えはうんざりするでしょうから。
 

 

 例えば、認知行動療法など、のセラピーにおいては、
 私たちの悩みの原因は「非合理的な信念」にある、と捉えます。

 そして、「非合理的な信念」というのは、
 「いつも一生懸命でなければならない」だとか、「楽しむべきではない」「完全でなければならない」
 であるといったこと。

 

 

 認知行動療法などの説明では、

 人間は過去のある時点では、自分の身を守るために、そうした信念をインストールする。 
 その時はそれでいいけども、問題は、状況が変わっても、そうした信念を持ち続けてしまうことだ。それが悩みの原因だ、とします。そのことを「非合理的な信念」といいます。

 

 ただ、信念を変えようとしても抵抗が強い。 

 そのため、その信念を持つに至った意図(肯定的な意図)は尊重しながらも、信念を捨てるか、別の形に変化させることで悩みや問題行動がなくなる、というのが認知行動療法の基本的な考え方になります。

 

 認知行動療法は多くの実績があり、確かに悩みは軽くなります。エビデンスがあり認められた手法です。筆者も自分で試してみて悩みが軽くなった経験があります。

 

 ただ、生きづらさといった大きな問題の核は解決するかといえば、そうはならない。なかなかうまくいかない。問題はオールクリアにはならない。

 

 そこで、ビリーフにも深さがあって、コアビリーフを変えればいい、というアイデアで取り組む方法が登場します。
 深く、深く、より深く、というわけです。

 ただ、それもなぜかあまりうまくいかない。
 アイデアはいいけど結果は伴わない。

 仮説を信じれば、核となるビリーフを変えれば良くなるはずなのですが、そうではない。

 

 

 繰り返しになりますが、

 
 「問題とはもともとは悪ではないので、その意図を否定せずに受け入れれば解決する」

 という考えは、心理療法に関わる人からすると常識ともいうべき、ポピュラーな考えです。善悪を切り捨てずに、融和させるという、特に日本人が好むアイデアです。

 

 

 そして、人格は一つ、という前提があります。

 

 多重人格なんていうのは特殊な例だけで、普通の人は人格が一つだ、と漠然と考えています。その前提では割り切れない、様々な現象をなんとか解釈しなければならない。(例えば、「どうして自分ではしたくもないことをしたり、否定的な感情が止まらないのか?」といったこと。)
 そこででてきたのが、無意識や自己内自己に原因を求めたり、問題(悪)にも意識していないなんらかの意図があり、真っ向否定するのではなく、融和させるというアイデアです。 

 

 

 

 実はそれでは解決はもたらされない。

 その”問題(悪)”というものの正体をうまく見極めることなく、理想主義的に受け入れてしまうことで、実はクライアントさんの中にある”本来の自分”をないがしろにしてしまう。解決を妨げてしまっている、ということが見えてきました。
 (先日の記事でのドラマのNHK記者のように 参考)→「寄り添いすぎて目がくもる」)

 

 それは様々な事例から、

 ・人間の人格は一つではなく、誰もが複数の人格が束になっていて日常生活でも容易に解離する存在であること、

 ・ローカルルールに影響された人格が、本来の自分の邪魔をしたり、スイッチして前に出てきたりということが起きること、

 が、わかってきたためです。
 

 
 臨床から見えてきた人間の実態から考えたときに、
 「人格は一つ」との前提から無差別に問題症状の「肯定的な意図をくむ」とか、「クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない」というこれまでの心理療法の常識は、「本来の自分」をないがしろにしてローカルルールの延命を助けてしまうだけ。

 

 さながら、「いじめっ子にも理由があるに違いないから、叱らずに耳を傾けなければ」といって、いじめを見逃す教師のようなものです。
 毅然としていじめっ子を叱って教室内の全体主義的な状況を正常に戻してもらわなければ、いじめられっ子はたまったものではありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 ローカルルール人格というのがさまざまな問題を引き起こしていますから、肯定的な意図を汲もう、なんていうことをしている場合ではありません。本当に耳を傾けなければならないのは、「本来の自分」の声なのです。

 

 「ローカルルール人格」が前に出てきて悪さをしたり、あるいは、本来の自分に影響を及ぼして苦しめている状態であれば、それを解き明かして、あるときは「ローカルルール人格」をバッサリを切り捨てないといけない。

 

 

 事実、クライアントさんは、本来は自分の考えではないことを本心だと思い込まされたり、本来の自分が起こした感情、行動ではないことに責任を感じて、ずっと悩み続けたりしているのです。
 そこを切り分けて「ローカルルール人格」が起こしていたんだと明確にしていく必要があります。

 

 

 「人間は解離する(人格は一つではない)」そして、「人格はローカルルールに感染して、本来の自分に悪い影響を及ぼしている」ということが見えてきたことで、これまで言われてきた心理療法の”常識”が、どうやらそうではないということが浮かび上がってきました。
 

 

 悩みがなかなかよくならないのは、実はクライアントさんや治療者も巻き込まれて、悩みの要因を延命させされているからではないか? さながらイネーブリング(世話焼き行動)や、共依存のように。

 

 実際に、セッションの中で、
 「ローカルルールを真に受けている自分に意識を向けてください」
 とお願いすると、

 クライアントさんが、
 「あっ!自分にハラスメントを仕掛けてきた家族のことがかわいそうだと思っていることに気づきました」
 と気が付きます。
 
 
 「家族が可愛そうだから、私がその家族の考え(ローカルルール)を聞いてあげないといけないのだと思っていました」

 とおっしゃるのです。

 

 まさに私達の中には「人格は一つ」であるとの素朴な前提から、自分の中にあるおかしなローカルルールを自分の本当の感覚だとして真に受けさせられて、さながら、共依存のように世話焼きしている自分がいるということがわかります。

 本来であれば、ローカルルールはバッサリと切り捨てなければならない。
 

 

 

 

 クライアントさんの内面を例にしてあげていますが、対人関係の場面でも同様です。私たちが日常で接する理不尽な行為に対して、「相手にもなにか理由があるのでは?」といった、盗人にも五分の理を探す必要はないということです。
 相手の理を考えさせられることから支配が始まります。

 そんなことをする必要はなかった。

 

 「悪(問題)も懐柔したり、包摂しなければならない」という考え自体がローカルルールだ、ということ。

 

 

 スピリチュアルや、自己啓発の世界はローカルルールだらけですから、その親戚格である心理療法もローカルルールの影響が及んでいるのも無理はありません。
 (実は、スピリチュアルな考えを真に受けていればいるほどローカルルールに影響されて悩みは解決しにくくなります)

 

 

 落ち着いて、感情を込めずに、自分の中にあるローカルルール人格に対しては、NO と言う必要があります。

 

 「肯定的な意図?!そんなこと私には関係ありません。とにかく私に迷惑なことはやめてください」
 「非合理的な信念?!それも私のものではありません。邪魔しないでください」

 というだけ。

 

 そうすると、これまでは巻き込まれていた”本来の自分”が巻き込まれなくなるために、ちょっかいを出せなくなり、だんだんと力が削がれてしまい、ローカルルール人格は、前に出てこれなくなります。

 

 不思議なことですが、長年何をしても解決しなかった問題が氷解してくるようになります。

 

 実際、筆者も長年苦しんできた問題が取れたり、人や物に対する感覚が変わってくるのを感じます。不思議とこれまでとは別の捉え方になってきます。自分を責める必要って本当にないんだ、とわかります。
 あの人がおかしくなったのも、あの言動もローカルルールだったんだ、自分とは全く関係ない、とわかります。

 

 自分にとって嫌な感覚はすべて自分の中にある「ローカルルール人格」の影響なのだ、と捉えて大丈夫です。

 そして、「本来の自分」は何も問題がないのだ、と捉えてさらに大丈夫です。

 
 心に聞く、の「心」も実は”本来の自分”のことです。
 (心に聞く、の邪魔をしているのは「ローカルルール人格」だということもわかってきました。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

理不尽な家族(他者)の都合の良い“カウンセラー”役をさせられていた。

 

 社会心理学では、「ソーシャルリアリティ」といい、現実は社会的に作り出されている、と捉えます。

 特に人間関係では、それは顕著で、他者からの承認がなければ成立することがありません。

 例えば、ジャイアンがジャイアンとして成立するためには、スネ夫とかのび太がいないといけないでしょうし、その反対もそうです。
 人間関係では、無意識に配役が当てられて、それを演じさせられるということは起こります。

 

 ローカルルールで作られる関係においては、特に顕著です。なぜなら、ローカルルールは私的な情動で作られたニセルールですから、現実にしっかりとした足場がありません。

 ローカルルールが維持されるためには、それに巻き込まれる人たちが必要になるのです。

 

 その巻き込まれる人たちとは例えば家庭であれば「子ども」、学校であれば「いじめられっ子」や「傍観者」「教師」、会社であればそこで働く「従業員」であったりします。

 
 不安定な人が発する理不尽な言いがかりを、受け止めることを強要されます。

 

 

 もちろん、その言いがかりは、私的な情動から発しているのですが、まさか「これは個人的な感情です」とはいえませんから、「これが常識だ」「これがノリということだ」「仕事のルールだ」と騙ります。
 それで、その騙ったことをハラスメントを受ける側の人が真に受けます。
 こうしてローカルルールが出来上がります。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールを真に受ける側は様々なスタイルの役目を押し付けられます。

 「(自分が思うように弄んでいい)被支配者」
 「(気の利かない、仕事ができない)教育すべき人間」
 
 といったようなこともそうですが、

 
 結構多いのは、
 「いい人」役、や「世話人」役、
 「カウンセラー」役をさせられるケースです。

 これは、家庭、特に親子関係で多く見られます。

 

 

 理不尽で、気分の上限の激しい親を、子どもがあくせく共感したり、気を回したり、あたかもカウンセラーのような役割を押し付けられてしまうということです。
 (カウンセラーは一般に立場が弱く、共感しなければ、受け止めなければ、といった縛りも多いので、支配には特に都合が良い役目です。傷つけたいときには簡単に傷つけることもできます。)

 

 

 「共感したり、受け止められなければ冷たい、人として十分ではない」という罪悪感を刷り込まれて、そして、振り回される。

 

 一生懸命対応していても、
 「冷たい」だとか、「自分のことを理解していない」だとか言われて、ヘトヘトにさせられてしまう。

 

 本当に正しい対応は、「もうこれ以上、付き合っていられません。勝手にしてください」と静かに伝えることであり、完全に距離をおいて離れることなのです。

 ローカルルールを維持することに協力させられ、そして、そのローカルルールによって、自分が支配されたり、傷つけられたりする。

 

 ローカルルールに影響されていることに気が付かなければ、成長して、別の場所に行っても、同じようにローカルルール人格にスイッチした人に振り回されて、カウンセラー役をさせられる羽目になってしまうのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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