「関係」は、基礎から積み上げていくもの

 

 スポーツなどではよくありますが、素晴らしいファインプレーや、流れるような動き、を素人が雰囲気でマネしようとすると、雰囲気はマネできるけども、根本的に違う、ということがあります。
 すると、「やっぱり、自分とプロは違うんだ」と落ち込んでしまいます。

 

 でも、実は、ファインプレーのような応用技とは、正確な基礎の上に成り立っています。

 

 プロほど基礎が正確に反復ができて、その上に応用が成り立っている。

 

 私たちのような素人は、そのことがわからず、基礎が不安定なうえに応用に走ってしまって打ちのめされてしまいます。

 

 コミュニケーション(「関係」)においても同様です。
 人づきあいがとても上手な人は、シンプルな基礎があって、その上に応用がなされています。

 
 例えば、本当に仲の良い関係ができている、気さくに話ができている、気づかいが素晴らしい、という「応用」の裏には、これまで紹介しました、「関係」の基礎ができている。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 その構造を知らないまま、いきなり仲の良い関係になろう、気づかいをしよう、としてもうまくいきません。

 いきなり応用から入った場合にどうなるかといえば、

 

 ・最初は仲の良い雰囲気だったのに、次第に馬鹿にされるようになり、関係が壊れてしまう(※基礎②:公的環境が整えられていない)。

 ・へりくだりすぎたり、弱みを見せすぎたりして、公私があいまいな状態を生み出し、ハラスメントの標的となってしまう(※基礎②の欠如)。

 ・相手が理不尽な言動をしたときに、自分のせいだと思って振り回されてしまう(※基礎①:健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである、ことがわからなくなっている)。
 ・自分がかかわりたくない人を引き寄せてしまう(※基礎③:階層構造を十分に理解していない)。
 ・誰でも彼でも気を使ってへとへとになってしまう(※基礎③の欠如)。

 などなど、

 

 

 個人間の「関係」でのトラブルと似た事象として、ビジネスにおいても、トラブルになってしまう、ケンカ別れになってしまうことがあります。出会ったときは意気投合して始めたけども、うまく行き始めたら思惑がずれてケンカ別れしてしまう、といったようなことです。

 よくよく聞いてみると、最初にちゃんと目的や責任の範囲や取り決めをしていなかった、あるいは、契約書を交わしていなかった、ということはよくあります。

 「その場の雰囲気で気が合うと感じるなら大丈夫だろう」
 「取り決めとか、堅苦しいことを言うと関係を壊してしまうのではないか(だから取り決めなんかしなくても大丈夫だ)」
 「信頼するというのは相手を信じることで、取り決めは疑うことでそれに反する。」
 

 という甘い考えや幻想から起こることですが、ビジネスのプロトコル(手順)から外れているので、やっぱりトラブルになってしまうのです。

 仕事においても、本当に良きパートナー、気の置けない関係、というのはあります。でもそれは、基礎がちゃんとできているから。私たちが錯覚してしまうのは、完成形(応用技)だけを見て、それをまねようとして基礎を抜かしているからです。

 

 

 私たちが個人間での「関係」を結ぶ場合も同様です。

 友達と気の置けない関係を築いている人、人づきあいのうまい人が築き上げた関係の完成形だけをまねたり、あるいは、「私には無理だ。根本的に違う」といったように落ち込む必要はない。

 以前筆者も書きましたが、人づきあいのうまい人でも親友を作るのは困難だ、と感じていたり、仲良さそうに見えても、本人に聞いてみると「そんなに仲良くないよ」「自分は友達少ないよ」と言ったりするものです。

 

 人間関係ではみんなそこそこ苦労している。
 
 

 そうした実態は幻想で見えなくなっている。

 よい「関係」を再構築するためには、応用や完成形から入ろうとしない。幻想や表面的な事象を排して、その本質となる「基礎」から組み立てる。

 

 その基礎を、ワンパッケージでインストールしてくれて、「それでいいのだ!」と確信を持たしてくれるものが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 成人になってから、親からの愛着を取り戻す、というのはなかなか容易ではありませんが、「愛着」がインストールしてくれるはずの「関係」の基礎の要素を分解して、理解して身に着ければ挽回できます。知的な理解から入って、取り組むだけでもかなり楽になります。

 

 

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関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 私たちが海外旅行に行った際にしばしば経験することですが、飲食店の人が日本のように愛想がありません。

 笑顔がなく、ムスッとした表情で注文を訪ねてくる。飛行機の機内のフライトアテンダントでさえ、無表情だったり。

 よほど高級店で高額なお金を払うのでもなければ、笑顔で気の利いたサービスは得られないことも多い。

 

 そんなことを経験すると、「ああ、日本はいいな」と思うわけです。日本でも、小さな店でも、笑顔で愛想よくしてくれますので。

 ただ、「関係」の基本を考えていくと、どうも外国のほうが普通なのかも?と思えてきます。

 日本は世間の延長でできているためか、ご近所に愛想をするような感覚で、サービス業でも笑顔で接客してくれますが、それは当たり前ではありません。

 

 

 本来の“当たり前”とは何かというと、実は「気づかい」とは信用を得たものにのみ与えられる特別サービスであり、無料で当たり前に提供しあうものではない、ということです。

 

 

 

 私たちのコミュニケーションというのは階層状になっています。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 世界は、混とんとしていますから、すべてを信用しては危ない。また、人間も動物ですから、支配欲、攻撃欲、嫉妬、様々な私的情動にまみれてもいます。

 

 1階部分では、そのネガティブな感情も入り混じる世界で、私的情動といったノイズをキャンセルする場所です。関係する相手を選別するところです。
 自分に合わない相手、関係するタイミングではない相手とは関係を持たずさよならします。
 関係を持つにふさわしい相手であれば、1階のチェックが終わり2階に上がることができます。

 

 

 2階部分とは、公的な環境が整えられた場でそこで初めて信頼のコミュニケーションを交わすことができます。
 安心してやり取りができます。
 
 通常のコミュニケーションとは、2階部分で行います。

 さらに、その上、3階部分があります。実は、「気づかい」というのは、その3階部分で提供されるものです。

 

 

 
 3階部分では、本当に気心が知れた者同士が相手の内面(私的領域)に立ち入ることが許され、互いに気づかいをしあう場所です。
 気づかいは誰もが得られるものではありません。本当に信頼できるもの同士でなければ得られません。

 

図にすると、

 1階部分    2階部分  3階部分
 公私混沌  →  公的  → 私的 という 構造になっています。

 

 

 3階部分で交わされる、本当に気心が知れた親友同士のような「関係」というのは、特別なものです。
 それは、2階部分の公的な環境に支えられています。

 関係が停滞(腐れ縁)すると、2階の公的な環境が失われて、3階部分の私的なやり取りが悪く作用し、「相手から失礼なことを言われた」「もたれられてしんどい」というようなことになってしまいます。

 

 長く続く良い関係というのは、相手へのリスペクト(2階部分の公的環境)が土台となっていて、うまく更新、循環をしているものです。

 

 関係作りがうまい人というのは、1階での選別がしっかりしていること、1階→2階→3階 へと駆け上がるのがスムーズであるということと、なにより、2階の公的な環境を維持することが上手であるということだと思います。

 

 

 会員制の、心地の良いラウンジや、高級店を想像すればわかりやすいかと思います。

 
1階部分 会員証のチェック(入会)

      ↓

2階部分 安定した心地よいサービスの提供

      ↓

3階部分  VIPのみの特別サービス
 
 といった感じでしょうか?

 

 「人を信頼して、裏切られた!もう人と付き合いは嫌だ」「気づかいばかりでヘトヘト」となっているのは、いきなり3階部分からスタートしたり、会員制度(階層構造)がうまく機能していないお店のようなもの。

 

 

 私たちが、大人になる、大人の付き合いができる、というのは、こうした1階-2階-3階 という階層(会員制)構造を築くことだといえます。

 

 

 「そんなことしたら、高飛車になって、堅苦しくてツンツンしそう」というかもしれません。

 そんなことはありません。ツンツンにはなりません。

なぜなら、1階部分では、社交辞令(儀礼)を大事にします。
 それは具体的には、「挨拶」です。

 

 昔、筆者が会社に入って、新人研修に来たベテラン社員が、挨拶の大切さを説いた際に印象に残っている話があります。
それは、

「ニュースで、犯人が捕まった際に、近所の人が『いつもちゃんと挨拶をしてくれていい人でしたけどねぇ・・』というでしょう?捕まるくらいだから本当にいい人かどうかはわからないわけだけども、犯罪を犯したとしても、挨拶しているだけで『いい人』といわれる。そのくらい挨拶には力があります。」

ということでした。

 

 

 筆者もそうなのですが、人が苦手、挨拶が苦手だ、という人は、挨拶に、3階部分で行うような「気遣い」「相手の内面に立ち入る」といったことを盛り込んでいるからではないかと思います。だから疲れて嫌になってくる。

 挨拶というのは、「気づかい」などは盛り込まず(心もこめず)、形式的に、でもたくさん、しっかり行う。

 外交儀礼ですから、心を込めなくてもいい。形こそが大事。

 

 
 子どものころ、大人を見て、外面ばかりで嫌だな、と思っていましたが、でも悔しいけれども、儀礼は大事。

 
 トラウマを負った人の多くは、「心こそが大事」ととらえ、どちらかというと形を軽んじ、さらに、1階-2階-3階 という構造がなく、いきなり、3階部分の「気づかい」を1階部分に持ち込んで、人と接しようと思います。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 でも、人間世界はそのようにはできていないため、冷たくあしらわれて、心がへとへとになって、傷つくのです。

 例えていうなら、外国の税関や大使館に、形式を踏まないまま、「真心」だけで「入国させてください」とおしかけるようなもの。
「誠に申し訳ございませんが、正式な手続きを踏んでからお越しください。」といわれてしまいます。

 

 

 人間関係においてであれば、まずは挨拶からスタートして、信頼関係ができれば親しくやり取りをする。さらに、仲良くなったら、内面に立ち入る、ということです。これを実際は早いスピードで行っています。

 

 
 どうして、トラウマを負った人は、この階層構造が転倒してしまうか?といえば、一つには、養育環境(家族)において階層構造が機能不全を起こしていた、ということです。それによって本来の構造がわからなくなってしまっている、ということ。
 もうひとつ重要な点としては、社会においては、しばしばそれを「気づかいが足りない」という言い方で表現されるため、勘違いしてしまう、ということです。

 

 実は、ここでいう「気づかい」とは、3階部分の「気づかい」ではなく、1階部分の「形式(挨拶、儀礼)」を求められているということ。

 

 
 それを、「気づかいをしないといけない(心を込めないと)」と真に受けて、本当に親しい人だけの特別サービスであるはずの「気づかい(3階部分)」を1階部分に持ってきてしまうのです。

 

 

 その結果どうなるかといえば、過剰適応でへとへとになってしまう。
 「気づかいをしているのに、なぜか認めてもらえない」。
 それどころか1階部分の形式を欠いているために「気をつかえない奴」と否定されてしまう。
 
 訳が分からなくなってしまうのです。

 

 

 本来、1階部分で大事なのは、心を込めず、軽い気持ちで形式的に挨拶。形式こそが大事。

 

 先日の記事で紹介しました外国では、もしかしたら、そういう構造がしっかりできているのかもしれません。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 皆、1階部分だ、と割り切って気軽に儀礼を交わしている。だから、人々が気楽に付き合えている。電車の中で隣り合った人が雑談をしたりする。
 (日本は〝世間”や〝空気”の社会なので、3階部分がいきなり1階に来るような転倒を起こしやすい。階層構造の転倒の果てに、恐怖症を引き起こしていることが、「対人恐怖症」の本質といえるかもしれません。)

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 1階-2階-3階という「関係」の構造が再度整理されて、慣れてくれば、1階部分から2階部分までは、かなり早いスピードで駆け上がることができます。(3階部分については、特別な人だけ、ですが。)

 

 「関係」の再構築のためには、階層構造を理解することがとても大事です。理解するだけでも、人間関係はかなり楽になります。

 

 

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「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 昔、筆者が、ペーパードライバーの講習を受けて運転の練習をしていたときのことです。

ドライビングスクールの先生と少し雑談しながら、運転をしていました。

  筆者「そういえば、運転すると人が変わる人っていますよね?」

  先生「いますね。」

  筆者「なんででしょうね?あれは」

  先生「車内がプライベートな空間で、自分が解放されるみたいですよ」

  筆者「なるほどそうなんですね。確かに知り合いのおじさんも、車に乗ると、オラー!って人が変わっていました。」

 

 

 このように、
 どうやら、〝私的な空間”というのは(厳密にいえば公私の区別があいまいなところは)人をおかしくしてしまうようです。

 

 

 別の例では、DVを行う男性もこれに似ています。
  公的な空間にいると、紳士的なのですが、
  私的な空間になると、人が変わって、パートナーに暴力、暴言を浴びせてしまう。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 親が子供にイライラをぶつけたり、暴言を吐いたりするのも、実は同様です。
 
  特に核家族になって、他者からのまなざしがない閉じられた私的な空間の中で親が解離を起こして、人が変わってしまうことから、イライラ暴言は起きます。
 (自転車に乗っているときに後ろに乗っている子供に暴言を浴びせているお母さんがいたりするのも車に乗ったら人が変わる、ということと同じなのかもしれませんね。)

 

 

 

  機能不全家族、というのは、家庭の中に「公的な環境」が失われているために父親、母親といった公的な役割が果たされていない(公私の区別があいまいな)状態を指します。

  「公的な環境」の代わりに、父親、母親の個人的な価値観(ローカルルール)を絶対化して多様性が失われ、過度に厳格になったり、逆に一貫性がなかったり、無秩序になったりしてしまいます。

  ローカルルールというのは、公的な仮面をかぶった私的な価値観の強制です。

 

 
 いじめ、ハラスメント、というのも、まさに公私の区別があいまいな環境で起こる現象です。
 学校や会社などは、「うちはうち、外の常識は関係ない」として、おかしなルールがまかり通りがちです。

 そこでは、私的な情動がむき出しになって、まともな人たちもおかしくなってしまいます。
(先生も、いじめっ子の味方をして、いじめられた側が悪い、と平気で主張したりするようになります。)

 

 こうした環境には、よほど愛着が安定していなければ抵抗することはできません。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと
 

 

 

 
 前回も書きましたが、「愛着」とは、子どもの中の私的な情動を、親のかかわりの中で公的な表現へと昇華させる作業です。

 おなかがすいたら、「おなかがすいたの?」

 悲しい時には、「悲しいの?」

 と関わることで、子どもの一貫し、情動は安定していきます。

 

 反対に

  楽しい時に、怒られる。
 
  悲しい時に無視される。何もないのに、

  気をつかわなければならない。

 こうした一貫しないコミュニケーションのことをダブルバインドといい、人類学者のベイトソンなどは精神疾患の原因としてきました。

 

 統合失調症などの原因としては否定されていますが、ベイトソンの視点は慧眼で、一貫しないコミュニケーションは人をおかしくしてしまいます。

 一貫したコミュニケーションとは、予測可能性を与え、それが「安心安全」を生みます。反対に、一貫しない応対というのは、不安の温床となります。

 境界性パーソナリティ障害の背景にも、養育環境での一貫性のなさの影響、あるいは自身や養育者の発達障害傾向等の身体的失調による情動の不安定さがあるのはそのためです。

 

 

 

 「私的な情動」というのは、私たちにとってはエネルギーの元となるもので大切なものです。ただ、加工されていない生の資源はそのまま用いることはできないように加工される必要があります。不純物も混じっています。
 加工され、磨かれて「公的な表現」となって初めて、社会で通用するものになるのです。

 プライベートとは、私たちの内面のことです。特に大人の場合、同居者がいれば、家庭の中でも本当の意味でのプライベートはありません。公的な機能を果たすことが求められます。
 (もちろん、家ではくつろいだり、休養したり、気楽に過ごしたりすることは大いにしなければなりませんが、そこにもマナーが必要になります。)
 そこを勘違いしてしまって、親の機能を果たさずに生の私的情動を発散させ、自分の価値観を押し付け、ハラスメントや虐待となってしまいます。
 

 

 

 私たち人間は一貫し、安定した、公的な環境に照らされることで成長し、社会の中で位置と役割を得て、「社会人(市民)」として成熟することができます。
 自分の内面でさえ、内省を経て磨かれて初めて意味のあるものになります。瞑想や禅などはそうした役割があります。

 

 

 社会が混乱したり、あるいは当人の内的環境(健康状態)が不安定なるなどして、公私の区別があいまいになってしまうと、私的情動が適切に昇華されず、自己や他者に対する攻撃や支配となって向けられられるようになります。
 カルト集団内部とか、ナチズムが生まれた社会環境はまさにそうです。

 

 

 私たちは、公私の区別があいまいな環境ではおかしくなってしまう。

 

 ここに、私たちが「関係」を再構築するための大きなヒントがあります。

 

 

 「親しき中にも礼儀あり」とはよく言ったもので、私たちが、心地よい「関係」を築くためには、「公的な環境」をどう作るか?維持するか? 公私の区別をあいまいにしない、ということがとても大事だ、ということです。

 

 ハラスメントを受けやすい方、バカにされやすい方、というのは、対人関係において公私の区別があいまいになってしまっていると考えられます。

 それは、もともとの養育環境が公私の区別があいまいでローカルルールがはびこる中で、混乱した状況を生きてきたために起きます。
 親がそうだったために、対人関係であいまいな対応、私的な対応をしてしまうことが当たり前となっているのです。

 

 例えば、人間関係で大切とされるような「気をつかう」「へりくだる」「相手の内面に立ち入る」といったことは、公私の区別をあいまいにしてしまうもので、実は本来は安易に使ってはいけないものなのです。

 

 

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「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

 

 人との「関係」を再度組み上げていくためには、コミュニケーションとは何か、付き合いとは何か、というものを整理して知る必要があります。

 トラウマを負った方、生きづらさの中にある方は、その指針が混乱し、失われてしまっているからです。指針ができれば、かなり楽になります。
 

 

 まず、人間の心理、感情は複雑である、という刷り込みが私たちの中にあります。

 表の表情と裏の表情が違う。矛盾する感情を抱え込む、政治の世界での駆け引きに見るような難しいやりとり、といったようなこと。これが人間である、と考えています。

 しかし、実は、そうした難しい感情というのは、私的な情動が適切に表現できなくなっている病的な状態であることがほとんどです。

 例えば、回避、防衛、投影、といったような複雑な反応というのは、困難な状態に対して自分を守るために行っています。
 政治の世界の駆け引きというのは、かなりの応用問題(これも病的といってもよいかもしれませんが)。

 

 

 本来、人間は健康であればあるほどそうしたことは問題にはならないのです。

 つまり、まず、最初に知らなければならないのは、基本的に健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである、ということです。

 例えば、

  うれしい時には、うれしい表情や態度をとる

  悲しい時には、悲しい表情や態度をとる

  何もない時は、何もない表情や態度をとる

 これが健康的な状態です。
 裏を読む必要もありません。

 

 

 反対に、病的になってくると、出来事と反応とが一致、一貫しなくなります。
 

  うれしい時に、悲しい表情や態度をとる

  悲しい時に、うれしい表情や態度をとる

  何もない時に、実は怒りを感じている。

 これは、異常な状態です。

 

 アッと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、後者はトラウマを負った方の育った家庭(機能不全家族)で見られるものです。
 

  うれしい時に、例えば誕生日の時に、家族で楽しいお出かけの時に、お父さんとお母さんが機嫌が悪くなり、ケンカをする。
 
  自分が悲しい時に、家族が共感してくれない。

  何もない日常なのに、急に母親がイライラ、怒り出す。
 
 

 

 こうした状態を経験しているために、トラウマを負った人にとっての人間とは「複雑な存在」と感じられます。その複雑さに対応しなければならないとして、過剰適応、過緊張となりへとへとになります。そのような複雑なやり取りを経験しているため、自分や他人の感情を適切に感じることができなくなってしまうのです。

 そのため、人との付き合い方がわからない、教えてほしい、とカウンセラーに相談するようになります。

 

 

 しかし、本来の健康な人間はシンプルです。

  うれしい時には、うれしい表情や態度をとる

  悲しい時には、悲しい表情や態度をとる

  何もない時は、何もない表情や態度をとる

 人とのコミュニケーションは、この原則が基本です。

 

 

 

 ただ、世の中で暮らしていると、この原則から離れた対応をしてくる人、場面があります。

 その際は、どうするのか?どう考えるのか?といえば、

 「相手のコンディション(あるいは環境)がおかしい」

 そして、「自分とは関係ない」ととらえます。

 その上で、相手と距離をとる、巻き込まれないようにする、という対応になります。
 ※愛着が安定している方は、これが比較的できています。

 

 
 例えば、会社で同僚がイライラしている、という場合。
 トラウマを負った人であれば、「自分が怒らせたのかな?」と考え、

「大丈夫?」と気を使って近づいて、

「あなたのその態度、仕事ぶりがイラつかせるのよ」といったような因縁をつけられて、

「ああ、やっぱり、自分のせいだ」となってしまいます。

 

 

 一方、愛着が安定しているの方であれば
 「ああ、あの人なぜかいらいらしているなあ。家で嫌なことでもあったのかなあ」とぼんやり考えて、自分の仕事に集中します。

 自分にイライラを向けられても
 「なんか、イラついているね。なんか嫌なことでもあった」といったように、自分とは関係ないことだ、というニュアンスで、適切な距離が取った対応ができて、とばっちりを受けることがありません。

 

 

 人間の感情というのは、最初からあるものではなく、実は、〝私的な”情動が適切な表現と結びついてはじめて、〝公の”「感情」「表現」ということになります。この〝私的な”「情動」を、〝公の”「感情」「表現」へと適切に結び付けることが、いわゆる「愛着」というものの機能です。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 たとえば、小さい子供にとっては自分の感情は自分でもよくわからないことがあります。
 親とのやり取りの中で、「おなかすいたの?」「眠いの?」「これほしいの?」「うれしい?」というかかわりの中で、
 「ああ、この感覚はおなかがすいたということなんだ」「これは眠い、ということなんだ」「うれしいってこういうことなんだ」と知ることで
 私的な情動にすぎなかったものが、公的な「感情」「表現」へと一致、昇華され、私たちは社会化(成熟・適応)されていくわけです。

 

 親の養育が不適切であったり、上で見たように混乱した環境であったり、
 あるいは、本人が発達障害等で、もともと「情動」を定型発達の世界で当たり前の「感情」へとつなげることが難しい場合は、感情の表出が一貫せず混乱したり、平板となったり、情動が不安定になったりするようになります。
 

 いわゆる、パーソナリティ障害と呼ばれる状態です。
 境界性パーソナリティ障害などは、感情がとても混乱して不安定なのはこうしたことのためです。

 

 

 混乱した状態の人ほど、人間とそのコミュニケーションを複雑なものととらえて、土台がないうえに応用問題を解こうとして、さらに混乱してしまいます。
 しかし、健康な状態の人間のコミュニケーションを知れば、それを土台として、それ以外の一貫しないコミュニケーションとは、実は「相手(環境)のコンディションが悪いのだ」と知り、ノイズとしてキャンセルすることができるようになります。

 

 健康な感情、表現を知り、それに該当しない理不尽な相手の反応は、自分とは関係ないもの(キャンセル)とする。これは人づきあいの中の1階部分ですが、まずはこのことを知る(体感する)ことが「関係」の再構築のためにとても重要です。

 

 

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社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 

 筆者は、誰とでもうまく話せないし、知らない人と話すのは億劫に感じるし、そんな自分を責めていました。自分は人見知りなんだ、と思っていました。
 しかし、〝心”に聞くと、「人見知りではないよ」と答えてくれます。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 でも、症状としてはどう考えても人見知りだし、〝心”の答えは気休めなのかな?と思っていました。

 

 そんなあるとき、海外旅行に行ったときのことでした。

 現地に着くと「なんか日本で感じる感覚とは違うなあ」と感じます。
 
 あれこれと人を気遣うような電波のようなものを感じない。
 

 そんななか、一泊二日のミニツアーのようなもので、砂漠に行くことになりました。周りはほとんどが外国人。

 すると、最初少しは緊張しますが、でも、相手と気楽に話せたりするのです。

 「あれれ? 人見知りのはずだけど、できちゃうな。」
 人見知りとは思えないようにふるまえるのです。

 

 変に気を遣わず、本当の意味で人と関わる必要がわいてきたら関わる。
 そうでないときは、周りには関心を持たない。
 もちろん、だからといって冷たいわけではない。
 さっぱりと乾いた空気のような感じ。

 

 「〝心”が言っていたのは本当だったんだ!」と気がつきます。

 日本に帰ってくると、じっとりした人づきあいの億劫さが戻ってきてしまいましたが、ああ、人と付き合うのはこういう感覚なんだ、と面白い発見でした。

 

 

 「日本人は・・・、西洋では・・・」というようなことは古くからある安っぽい文化論であまり好ましくありませんが、しかし、事実としてあるのは、例えば「対人恐怖症」というのは、日本にしかない症状である、ということです。(特定の国にしかない症状を「文化依存性症候群」といいます。)

 

 対人恐怖には、ちょうどいい外国語訳がないのです。
 「社交不安症」がそれに該当しますが、ピッタリはハマらない。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック
 

 

 
 日本社会の特徴は、ご近所に気を遣う「世間の延長」ということもあり、過剰に人に気を使い、周囲に合わせるという傾向があります。

 

 生きづらさを抱える人ほど、そうした社会の特徴を内面化して翻弄されてしまう。

 

 社会学者の貴戸理恵氏は、不登校や引きこもりなど生きづらさを抱える人は、「「社会性」がないのではなく、むしろ社会性が過剰なのです」と指摘します。
さらに、「関係性への志向は、持っていなければならないけれども、持ちすぎてもダメなのであり、」「(「関係的な生きづらさは」)それについて深く考えてはいけないようなものを、ふと意識してのぞき込んでしまうときに、出現するのかもしれません」
と述べています。

 貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに、海外に行くと感じることですが、人に気を遣わない(関係性への志向が低い)国民性を持つ人たちのほうが、人との関係は活発に行っている。

 

 筆者がモロッコに行ったとき。“親切な”気楽なモロッコ人たちが声をかけてきて、最初はうっとおしく戸惑いましたが、慣れてくると、これは居心地がいいな、と思うようになります。
 多分、精神的な症状を抱えている人も、この国にしばらくいたら、悩みがなくなってしまうのではないか、と感じるほど。

 

 

 台湾に旅行に行った際にも驚いたのが、電車で乗り合わせた知らないおばさん同士が世間話をしている姿。
 互いに知り合いなのかと思ったら、目的地が来たら、互いにサッといなくなる。

 

 別の場面では、案内してくれた現地の知人が、マッサージ店の店主と古くからの友人と話すかのようにずっと話をしている。
 あとで、知人に「知り合いの店だったの?」と聞くと、「いいえ、はじめての店だよ」という。それを聞いてびっくり。「あの親密さは、どう見ても知り合いやん!?」と。

 日本だと余程コミュニケーションに長けた人が行うであろうことを普通の人たちが簡単に行っている。
 (その台湾人の知人も日本ではシャイになったりするのですが。対人恐怖症もそう、結局悩みはほとんどが環境に依存している。外からやってくるもの)

 

 ほかの国でも、旅行などで訪れてみると、日本人からすると、「何だこりゃ!?」ということばかり。

 

 おとなり韓国も、日本人のように過剰に気を遣うことはない。

 筆者も、学生時代にトラウマや人間不信の後遺症に苦しんでいるときに、留学した先であった韓国人たちが気楽に声をかけて、仲間に誘ってくれたことには大変助けられました。
 韓国で暮らす人の話を聞くと、日本よりも人間関係ははるかに気楽だ、とおっしゃいます。

 

 

 上記でも書きましたが、人間関係で悩む人が、それぞれに国に行ったらそれで解決してしまうのではないか?と本当に感じます。

 台湾などは、普通の人々が、生きづらさを抱える日本人が理想とする気楽なコミュニケーションを交わしてしますから。

 

 

 サッカーのワールドカップで、日本人サポーターが競技後に会場を掃除して称賛されていますが、こうしたことからみれば喜べない。

 その気遣いこそが自分の首を絞める。
 

 「別にそのままでいいじゃないか」
 「誰かが掃除してくれるよ」

 という感覚が大事ではないか。

 

 実際、“生きづらさ”といった言葉が生まれる以前の日本では、電車の床にごみを放ったりしていました。痰をホームにはいたりもしていました。※池上彰さんの番組でよく紹介される事例です。
 (日本が発展したのは日本人の気遣いのおかげではありません。当時の国際環境(資源安、冷戦、旺盛な需要など)のおかげがとても大きい。もし、気遣いが発展の原動力なら、気遣いMAXの美徳の国、現在の日本はもっと成長率が高くないとおかしい)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服
 

 

 過剰な気遣いが、今度私たちがありのままに行動することを妨げる。

 

 「対人恐怖症」が日本にしかない、ということを考えても、どうも、私たち日本人が当たり前と思っている「人間関係」観というのは、人間の標準から見て、かなり歪でおかしい「幻想」なのかもしれません。

 

 私たちは、「社会性過多」であえいでいる。そんな日本で書かれた「コミュニケーションの上達のコツ」「気づかいの極意」みたいな本などを読んだらもう大変。社会性過多の上に、もっと過剰になれ、というのですから。幻想の上に幻想を重ねるだけ。 コミュニケーションのヒントは、コミュニケーションの〝カリスマ”にではなく、海外の普通のおじさん、おばさんたちに教わったほうがいいかもしれない。

 

 

 私たちは、良い「関係」を作るためには「社会性」をもっと削がないといけない。必要なのは、「社会性」を削ぐ方法です。

 

 私たちが当たり前と思う「人間関係」観。それは本気で一度解体して、社会性の水準をぐっと下げて壊して、それから社会性を組み上げていく必要があるようです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人間は「関係」でできている。教科書が存在せず、「関係」は幻想だらけ

 人間というのは、クラウド的な存在ですから、「関係」がないと機能しません。

スマホを思い出したらわかりますが、ネットワークを切ってしまったらカメラか計算機程度にしか役に立たなくなります。

 

 人間も同様で、「自分が何者か?」ということも、置かれる状況、関係によって規定される。

 「関係」を切り離して、純粋な「本来の自分」なるものは存在しない。

 

 キリストも、家族の「関係」を断って旅に出ましたが、弟子や支持者(信者)との「関係」は大きく、それらがあるからキリストでいられた。故郷に帰ると奇跡は起こせなくなった。天才でも、個性的な人でも、「関係」がなければその人はその人ではいられないのです。
 

 
 私たちも、「関係」をもとに、公的人格をはぐくむことで、社会の中で“自分”でいられる。「関係」を離れた純粋な個はどこにも存在しない。

 

 

 このことについてはセラピーでもちゃんと言ってくれないし、ここを隠したままセラピーが行われたりします。

 例えばセラピーなどで、無意識にアクセスしたりして、”本当の自分”を見つける手法はあります。実際にそれで答えが出たとしても、その時は感動するかもしれませんが、その答えによって完全に自己一致して納得した、という風にはならない。いくつもある自分の“要素”は答えてくれますが、どれが本当?といったことになってしまいます。占いのように次々知りたいとなってしまう。

 

 

 結局は、自分とは、現実の関係の中にあって、「位置と役割」を得て、そこで影絵のように浮かび上がる、というもののようです。

 

 もし、「自分が何者かわからない」とか、「本当の自分が何かを知りたい」と感じるのであれば、「関係」の大切さを知り、「関係」を回復することが必要になる。

 

 

 「関係」を結びなおせば良いわけですが、「関係」をどう結ぶか?については、注意が必要です。

 世の中には、「関係」やコミュニケーションについては、前提が省略されたある意味間違った情報も多いからです。

 

 

 例えば、誰とでも気さくに接して、仲良くなれて、どんな難しい人とも向き合って、関係を結ぶことができて、というようなことは、明らかな「幻想」です。

 子どものころに聞いた、「友だち100人できるかな~♪」 というのはありえない。

この「ともだち100人幻想」ともいえるような思いは、私たちを苦しめています。

 

 

 友達付き合いが得意そうな人でも、本当に仲の良い人を作るのは難しい。

 以前も書きましたが、
 筆者が、留学した際に、何かのワークをしていて、紙に何かを記入しなければいけないのですが、友達付き合いが得意そうな人が、「親友を作るのは難しい」と書いてあったのは印象的でした。

 

 

 少し前に、NHK教育放送の番組「SWITCHインタビュー」で、糸井重里さんと中井貴一さんが対談していましたが、その際に、中井貴一さんが、最近、しみじみ気づいたこととして「人はそんなに好かれない」と話をしていました。

 いろいろ気を使って、心配りをしていても、それほどには人には好かれないものだ、だから最近はほどほどにしている、というのです。

 それを聞いて、糸井重里さんも笑いながら、「それに気づけたは、百科事典5,6冊分くらいの価値があるかもしれませんね」と同意していました。

 

 そんなものです。
 (でも、クライアントさんにいくら言っても、「いやあ、そんなことない。私は・・」となって、コミュニケーションのスーパーマンを目指そうとしてしまうんですけどね。どうにも気遣いをやめられない。人間関係にまつわる幻想というのはとかく強固なものです。)

 

 

 
 別の幻想に、

 相手の感情、態度は、すべて自分の責任(投影)だ、という考えもあります。

自己啓発などから広まった考えでしょうけども、これも間違い。

 

 人間というのは、ある意味自分の内部の都合で解離して、脳がショートして、感情にまみれる。そして、その収めどころとして相手に因縁をつける、生き物なのです。こちらが刺激して、ということもありますけど、理不尽なことは、ほとんど無意識の作用で起こっていて、それらはこちらの責任だ、なんてどう考えても言えない。

 本当に人間関係が上手な人は薄々そのことがわかっていて、相手の感情は自分とは関係ない、と割り切っていたりする。

 

 

 

 コミュニケーションについて、世に出ている本のほとんどは大きな前提を省略して書かれています。それは、世の中は2階建てになっているということです。その1階部分を無視している。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 コミュニケーションの本は、1階部分が完璧に整備されている前提で、その上で2階に上がった条件の良い者同士のコミュニケーションについて書いている。
そのため、コミュニケーションがうまくいって当たり前という書き方になっている。
 現実は、1階部分から環境を整えないとコミュニケーションは成立しない。場合によっては、1階部分のやり取りで、コミュニケーションをあきらめないといけないことも多い(ほとんど)。
 

 

 人間とは、基本的には、うまく付き合えない(付き合えたら幸運だ。できなくても幸運だ)というところからスタートするものです。
 

 そのことが全く書かれていない。
だから、コミュニケーションの本を読めば読むほど、自分は苦しくなっていく。
 
 
 私たちが関係を回復するためには、「人間」をありのままにとらえる必要がありますが、まだ、その教科書といえるものはこの世には存在しないようです。

教科書が存在しないため、誤った幻想とチキンレースが続いていしまう。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 「関係」は、他人に聞いてもはっきりとは教えてくれない、言語化しづらい裏ルールも含めて構成されています。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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