100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 親友と思っていた友人から裏切られたり、
 「あれ?」と思うような意外な言葉をかけられて傷ついたり、久しぶりに会った知人からかけられる自分への評が、自分の思っていることと違って違和感を感じたり、 筆者にもそんな経験があります。 

 

 若いころはとても傷ついたり、人間関係のめんどくささばかりに目が行き、「人っていうのはとてもめんどくさいし、ややこしい」と億劫になっていました。

 人との関係を断ち、自分単体で高潔に生きていくすべはないかと模索してみたり・・
 でも、いろいろと経験を重ねると、よく考えたら人同士の理解なんてそんなものかもしれないな、と思うようにもなってきます。また、それでも人は人同士のかかわりをうまく回復しないと十全には生きれない、ことも見えてきます。

 

 

 人間は、ある程度成熟してくると本当に理解(する)される、ということはなかなか難しいということを知ります。血のつながった家族でさえ、完全には理解し合えない。必ずズレが生じる。

 相思相愛の恋人同士でも、実は完全に理解しあえているのではなくて、それぞれの頭の中にある幻想を見ているだけ。そのため、恋愛ホルモンが緩むにつれて、その幻覚が薄まってきて、理解しあえていない実態が明らかになってくる。

 親友同士でもそうです。最初は良くても、環境が変わると、ズレを感じて、「あれあれ?」と思うことは珍しくない。

 

 

 芥川賞作家の平野 啓一郎さんが書いた
 「私とは何か――「個人」から「分人」へ 」という本があります。

 

 人間というのは、固定された一つの人格ではなく、著者が「分人」と呼ぶような、いろいろな人格要素の束になっている、ということです。
  

 心理学的にもまさに的を得た内容で、人間というのは、そもそもが解離性人格のように、複数の人格的要素が集まってできていて、健康な時は、一つの人格として、統合できていると感じられて(錯覚されて)、生きています。 

 だから、場面や人によっても、性格は現れ方が異なる。 
 さらに、スケッチの際に、裏側は決して同時には描写できないのと同じで、その裏にある人格要素は見えなくなる。
 

 ある場面に、ある人格要素が現れるかどうかは、環境条件によります。

 そのため、時間が動き、環境が変わり、条件が変わると私たちに感じられる「人格」は変わります。

 友人、知人、恋人でもズレ、違和感となってくるのです。

 

 細かなズレを感知しては生きていけませんから、健康な状態にあるときの私たちはある程度、「安心安全」という健全な幻想によって、ズレを見ないこと、互いは理解しあえていることにして、人との「関係」は保たれます。
 その「安心安全」をパッケージで提供するものが、これまでもお伝えしている愛着というものです。
 

 

 一方、悩みにあるとき、トラウマを負っているときは、
 「安心安全」がないために、健全な幻想を持つことができません。
 

 健全な幻想がないとどうなるかといえば、100%の理解と0%の理解(無理解)との間で極端に振れてしまいます。
 「この人は私のことを分かってくれる」というかと思えば、ちょっとした会話のずれで「この人は私のことを全くわかってくれない」とこき下ろしてしまったりします。

 そうして、次々と人を変えていきますが、人間の原則として、100%理解し合えるものはどこにもいないことは変わりませんから、どこまでいっても理解しあえる人には出会えない。

 

 

 代わりに、理解されている幻想を比較的長く維持できるものは「依存」です。
 「依存」によって放出されるホルモンは、愛着の代替として幻想を見せてくれます。
 ただし、健康を害したり、経済的な損失をもたらします。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 もう一つ、本当の理解の代替になるものは「支配」です。
 カリスマめいた人にであったり、支配的な人に出会うと、「すべてをわかってくれそう」と思い、引き寄せられます。でも、それは、天性の人たらしのような性質を持つ人が「理解してもらえている」と感じさせるツボを心得ているだけで、本当の理解とは異なります。気が付いたら支配されていて、失礼なことも平気で言われるような状態でボロボロになって抜け出せなくなっていたりする。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 本来、健全な人間の理解の土台となるものがあります。
 その一つは、「仕事」です。

 「仕事」を介することで、人間同士は理解し合えることができます。
 医師やカウンセラーがクライアントさんを理解するのは、条件が限定された「仕事」を通じてです。
 
 臨床医学でも、理解するのは「悩み」「症状」という限定された領域です。
 もちろん、その背後にある養育環境や人柄も丹念に見ます。医師によっては、生まれた家の間取りを書かせたり、写真をもらったりといったこともして、理解を深めようとする。でも、それもあくまで「症状」を理解するため。
 無条件に100%その人を理解することなど世界一の名医でもできない。

 

 名医やカウンセラーは、うまく条件を絞って、「理解」を作り出している。良い治療関係(治療同盟)とは、限定された「仕事」と、身体からくる疑似的な愛着を土台にした健全な幻想を条件としているのかもしれません。

 

 仕事においても、「この人はわかってくれている」というのは、じつは条件が限定されているから。
 電化製品を買いに行って、店員さんが「わかってくれている」と思うのは、「仕事」のなかで「電化製品」というカテゴリでやり取りしているから。
 

 最近はやりですが、パーソナルトレーニングなどで、トレーナーが「自分のことを分かってくれている」と感じるのは、「トレーニング」という限られた領域でのやり取りだから。

 全然、別の環境で、店員やトレーナーと出会ったら「あれれ?」となってしまう。

 

「仕事」には、役割があり、場や要件の限定があり、そこで行われる技術があり、やり取りの必然があります。そのことが私たちの健全な理解を支える。案外、消費的な趣味の場所などでは友達を作るのは難しいことがある。

 

 シェークスピアの翻訳で知られる福田恒存の有名なテーゼ
 「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」というものは、こうしたことを差しています。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 親子の理解でさえ、それを支えるのも、おむつを替えたり、ご飯を用意したり、「仕事」があるから。

 「仕事」や「役割」といったモノを持たない真っ白な状態では、人間はかかわりを持てないし、理解し合えることもない。当事者は、コミュニケーション能力のなさ、性格のせいだと思っていますが、そうではなく、環境や構造的な問題によるもの。

 
 

 人間関係でも、気が合う、と思えるのは、実は、「学校」「職場」や過ごした時間などそれを支える共通の条件があるから、その条件がずれてくると、理解はし合えなくなってくるもの。
 友人関係が壊れるときの原因の一つは、どちらがわるいのではなく関係を支える「条件」が変わったため。

 人同士の理解を支えているのは実は「人柄」とかではないのかもしれません。

 かかわりを支えている「用事」や「仕事」「役割」がなくなると、徐々に疎遠になるものなのです。

 

 まったくの無条件に、完全な理解を、ということを求めると、あらゆる人間関係は破綻してしまいます。

 無条件で、完全な理解を、と求めるの典型を「境界性パーソナリティ障害」といいます。自他の区別がついておらず、それをささえる「仕事」「役割」を持てていない。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 トラウマを負う、自己愛が傷つく、とは、互いに理解(という健全な幻想)し合うための条件を維持できなくなってしまうこととも言えます。そして、細かな差は捨てて、代表的な要素をとらえて「理解しあえている」と感じる力が失われてしまっている状態。

 

 ものすごく他者や自分にも厳しくなり、「あれも合わない、これも合わない、どれも合わない」「世の中って俗でつまらない。自分の高いレベルに叶うものがない」となってしまいます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「反省」するととらわれ、支配される。人間に必要なのは「学習」である。

 

 人の意見を単なる意見として真に受けないなら、反対に、独りよがりになって、人間として間違ってしまうのではないか?曲がってしまうのではないか?と不安になるかもしれません。

 

 トラウマを負った人というのは、とても真面目で向上心がありします。厳しい意見も反省して自分を鍛えなければいけない、とおっしゃる方は多い。
 

 ただ、それは人間の本質や世間のプロトコル(関係の手順)とは異なって、生きづらさを生み出してもいます。
 

「反省」ということもその最たるものです。

 

 実は、人として間違うときというのは、人の意見を聞きすぎたり、それに対抗しようとしたときであることがほとんど。反省しないからではない。

 

 そもそも、人間には「反省」はできない。反省するとむしろ歪んでしまう。

 

 

 なぜかというと、人間の行動の要因というのは、とても多要因、多次元であって、その結果だけを見ると「人」が起こしているように見えますが、実際は違うことがほとんど。

 

 例えば、人が何かを盗んだ、明らかに証拠もある、というとき。法的にはその人の罪です。
 

しかし、その犯罪に至った原因は?ととらえると 

 経済状況
 養育環境
 教育
 体質、気質の問題
 社会、文化的な要因

 など、多岐にわたります。
 
貧しい国でしたら、やむにやまれず窃盗を起こすことがあります。
難しい養育環境で育った可能性があります。
教育が受けられずに、安定した職につけなかった可能性もあります。
摂食障害では、自分でもコントロール出来ないままに、食べ物を盗んでしまうことがあります。
窃盗癖という精神障害もあります。

 

 こうなってくると、原因をその「人」に単純に帰することができなくなってくる。

 

事実、無理に反省させても逆効果になることを描いたのが、元刑務官が書いた
岡本茂樹「反省させると犯罪者になります」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間は直感的に物事の本質を把握しています。
だから、「あなたのせいでしょ?反省しろ」と言われても、腑に落ちないのはなぜかといえば、人間の直感が物事は多要因、多次元であると知り、本当の要因を察知しているから。
単要因に回帰させていることがおかしい、割り切れないということがわかっているからです。

 

 

こうしたことは統計的にも裏付けられます。
大学などで統計に触れた方はご存知かもしれませんが、社会科学においては、明らかに「AはBの原因だ」とおもうような事象でも、統計解析にかけると、影響力は3割にも満たないことがしばしば(単純に言えば10割だと100%それが要因)。
※状況によっては3割でもなかなか高い割合とされます。しかも、物事は、「因果(原因→結果)」ではなく、「相関(要素←→要素)」の関係です。

 

 

 世の中は多要因ですが、人間はかなり単純化して捉えてしまっているわけです。

 特に、「人」は「人」に惹きつけられますので、多くの場合、自他ともに「人」に原因を帰することを安易にしてしまっています。

 

 さらに、世の中では嫉妬、支配、攻撃、ストレスの処理で相手にイライラをぶつけて因縁をつけるといったノイズも多い。99%はノイズといってもよいくらい。

 本当の問題を把握するためには、ノイズもクリアにしないといけない。多くの場合、ノイズが作り出したニセの問題であることがほとんど。本当に「反省」すべきことは限られてもいるのです。

 

 こうしたことを考えると、「反省」とはなにか?「反省する」ということは、とても難しいことがわかります。結論を言えば、人間には「反省」はできない、ということ。

無理に反省をすると、帰属エラーを起こしておかしくなってしまいます。

 

 実際、皆様もいかがでしょうか?例えば、筆者の経験でも、よく考えればこれまでの人生で「反省」して自分が向上したことは基本的には一度もありませんでした。むしろ、萎縮する、抑制される感じで、良くなったとしても、それは母屋を取られた破産者のような感覚でしかありませんでした。

 

 

一方で、人間は改善したり、成長したりしてきています。

それはどうやって実現しているのでしょうか?

それは、「学習」というメカニズムによってです。

 

ハラスメント研究で知られる安冨歩教授は、
「人間社会は学習を基礎としており、学習は情動と感情を基礎としている」「学習とは、新たなコンテキストを獲得していくこと」としています

もっと簡単に言えば、
学習とは、情動、感情というような無意識的、生体的なレベルから世界との関係を更新していく作業、ということです。

 

 例えば、同じような景色を見ていても、人間の認知能力では全部を捉えきれることはできませんから、省略、削除して捉えています。
 情動に素直になってありのままにみていると、見え方、感じ方は自然と更新されていきます。

 そこに、不適切なラベルやレッテルが入ると、その「学習」は閉ざされていってしまいます。
(例えば、「そんないつもと同じ景色じゃん」とか、「あなたが感じることができるわけがない」といったようなこと)

 私達の日常の体験もそうです。
本来、失敗も成功もなく、ただ、多要因、多次元の出来事が流れていっているだけです。

 多要因のままを身体、無意識で感じ取れば、自然と身体と無意識は修正していってくれます。
フォーカシングや暴露(エクスポージャー)といった方法はまさにそれを利用しています。

 

 

スポーツ選手などは顕著ですが、一流の選手であればあるほど、私達が思うような「反省」などはしません。失敗しても自分を責めてわびたりなどしません。

野球のピッチャーなどは相手にぶつけても、負けても平然としている方がよし、とされる。

 

それで、人間としてだめになっていくか、といえばそうではなく、意識、無意識に「学習」している。
自分の身体と対話したり、あとで総合的に分析していたり。

 

本来の人間のあり方とはそういうものではないか?

 

タモリさんの有名な言葉に、「反省しない」という言葉があります。

なぜ「笑っていいともが長寿番組になったか?」と聞かれた際に、「反省しなかったから」と答えています。
直感的にそのほうが正しいと知っていたからかもしれません。

 

日常では、社会的な約束事として便宜的に、「誰かの責任」とすることはありますが、いたずらに反省しても意味はない。むしろもっと悪くなる。

 

「反省」というのはそれ自体がハラスメント的であって、人間的ではない。
 強いて言えば、すべてを知った「神」であればできるかもしれないけども、人間には扱えない行為。
 「反省は」それを悪用して、相手への攻撃、支配の道具として用いられてきた。

 

 多次元、多要因である世界を捉え、循環する自然に生きる人間に適した行為は「学習」。

 さらに上記でも書きましたが、世の中では嫉妬、支配、攻撃、ストレスの処理で相手に因縁をつけといったノイズも多い。99%はノイズ。

 だから、文句を言われたり、失礼なことを言われたりしても、真摯に承っても、そのまま真に受けない。いきなり反省したりしない。無意識に任せて、構造を捉える。

 

 実際に、明らかに自分が悪いと思わされる場面でも、「心(無意識)に聞く」と「ちがうよ。悪くないよ」という答えが帰ってくることがほとんど。それは、心(無意識)が多要因を捉えているからだと思われます。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 

支配、ハラスメントから身を守るためにも、

「反省」ではなく、「学習」を意識する。

 

このことはとても大切なことです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

トラウマを負っていて、愛着が不安定だと、安心安全がないために、「愛」を強く求める傾向があります。

 

家族に「愛」を求めます。
でも、家族からは「愛」は得られません。

 

なぜなら、前回描きましたように、愛とは、神にしか提供できなものだからです。人間には愛は提供できない。求めれば求めるほど、孤独や嫉妬、絶望を感じるようになる。

 

愛が得られないことで、怒りがたまります。
その結果、怒りが脳に帯電して、ショートしやすくなり、解離を起こしたりするようになります。

あるいは愛の代わりに「幻想」を求めるようになります。

本来の自分らしくは生きられなくなります。

その結果、また、自分を責めて、解離を起こして、を繰り返すようになります。

 

解決したいと考えて、医師やカウンセラーに「愛」を求めます。でも、治療者からも愛は得られません。

なぜなら、繰り返しになりますが、「愛」は神のものだから。

人間からは得られない。サポートするはずに医師やカウンセラーからも得られない。最初は得られる気になるのですが、結局は得られない。

その結果、「最低な奴ら!!役に立たない!なんで私に無条件の愛をくれないんだ!」といって、治療者に怒りをぶつけるようになります。
(「愛」が得られるというぬか喜びと失望(スプリッティング)、この状態をさして、境界性パーソナリティ障害と呼ばれます。)

世界最高の医師やカウンセラーからも、「愛」は得られない。

スピリチュアルのグルからも「幻想(ファンタジー)」は得られるけど、「愛」は得られない。

 

「愛」を求めてさまようことになります。

愛を求める一方で、あまりの生きづらさから誰ともかかわりを持たず、自分は自分として生きたい、という願望も持ちます。これもかなえることができない。

しかし、愛は求めれば求めるほど、孤独、絶望がやってくる。それは、神のみが可能なもので、人間にはスペックオーバーだから。
人類愛というように自分と同じ“人類”であることを前提として期待しますが、相手は自分と同じように考え、感じ、行動してくれません。すると、やがて、相手を「人間ではないもの」として排除しようとしたり、人間以下のものとして支配しようとすることになります。結局、孤独に陥ってしまいます。

 

こうした状況を越える方法として、何か人間を越える全体とつながろうとするアイデアが出てきます。それがスピリチュアルなどが唱える「全体性」の概念です。

 

残念ながらこれも、実現することはかないません。それらも結局、人間がこしらえた、作り物の概念でしかないものだからです。人間が作り上げたものなので、多様性をそぎ落として単純化したものを至上の概念としているだけ。

 

「愛」が別の概念にすり替わっただけです。スペックオーバーのものを戴いてしまうと、結局孤独や排除、支配、そしてそれを癒しごまかすための「幻想(ファンタジー)」という循環に陥って問題は解決しないのです。

「全体性」は、個で生きることを求めて行き詰まった先に登場してくる、全体主義と似た精神構造からくる願望でしかなく、結局、待っているのはニセ神様で、そこで支配されることになります。幻想を提供されて、解決からは遠ざかってしまいます。結局、幻想が覚めたら孤独であることに気づくことになります。
(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 

実は、この人間の本質にかかわる問題では、カウンセリングの始祖ロジャーズも手痛い“敗北”を喫しています。

来談者中心療法で注目を浴びていた気鋭のロジャーズが、哲学者マルティン・ブーバーと対談したときのことです。
ロジャーズは、個としての人間には無限の成長可能性があると熱弁しますが、ブーバーには全く響きません。

それどころか、ブーバーは「人間が個として発展していくことは、ますます人間らしさを失っていく」とします。
ブーバーは、「私は個人(indibidual)ではなく、人間(persons)の見方だ」といいます。
ブーバーにとって人間とは、個ではなく、世界とともにある存在、出会いや関係によって存在するものだと考えていたためです。

 

 前回の記事でもメカニズムを書きましたように、近代の仕組みの根底にはキリスト教がありますが、キリストが理想としたことは神との直接のつながりを通じて個として完成することです。しかし、それはあまりにも理想が高すぎて、凡人には届きません。すると、私たち人間は「愛」を求め、個として完成しようとすればするほど、人とつながることができず、孤独へと陥ってしまう。これはD・H・ロレンスなどが提起した問題ですが、同様の洞察をブーバーも感じていたと考えられます。結局、人間は関係の中にあるものだと。

 個人主義が成熟したように見える欧米でも純粋に個人で生きれているわけではないようです。
(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 

 

社会的ひきこもりで知られる心理学者の斎藤環氏も、ロジャーズの理想はまさに、全宇宙と自己との調和を目指すニューエイジ的なビジョンそのものとし、「真空の中でも生きられる「個人」という存在の価値を至上のものとして、その個人の空間を侵害する外敵を徹底して排除しようとする。言い換えるなら、個人の無限の可能性は、世界とのかかわりなくしても成立するという信仰」であるとしています。 さらに、「「ひきこもり擁護派」の人たちがあれほど頑迷なのかがわかってきた。」「彼らは自覚なきロジャリアンなのだ。」と人間を理想的に捉えて柔軟性を欠く援助者を批判しています。

 

 自身がロジャーズ派であると自覚がなくても、現代のカウンセリングや自己啓発などの基礎はロジャーズの思想が土台にあります。そのロジャーズ自体、存命中に寄せられた様々な疑問(なぜ、受容するだけでクライアントは成長できるといえるのか?など)に対して結局、有効な説明、証拠を提供できないまま亡くなっていきました。日本ではあまり自覚されていませんが、カウンセリングはその基礎自体が危うい前提の上に展開されている部分があって、そのことも理解したうえで用いる必要があるのです。

 自己啓発とか、ポップ心理学、スピリチュアルなどが唱える、煩わしい人間関係をすべて断って、「個」として本当の自分を見つけて成長し、無限の可能性が開花する、といった理想はどうやら実現が難しいようです。それどころか、孤独に陥ったり、かえって支配され生きづらさが増す反動があるということです。

 半世紀近く前から、識者からはすでに指摘されて、そして、ある程度決着がついていたことですが、一般の私たちのところにはなかなか届いていない知識です。届かないまま、右往左往させられて、ということが起きてきました。

 

 実は、愛、全体性といった、壮大な概念や理想などなくても実は私たちは人とつながり自分らしく生きていくことができるのです。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

上手に退却(引きこもったり)し、上手に社会とつながる

 筆者が会社員をしているときに、大きな案件(プロジェクト)が途切れて、1,2週間暇な空白の期間ができることがありました。

 やることもなく、メールチェック(といってもメールもそんなに飛んでこない)したり、ぶらぶらしていると、罪悪感がわいてきたり、なんか自分がもういらない、価値がない人間になったような気になります。

 先輩に相談すると、「そういう時期もあるから今は休んだら?」といわれますが、もっと頑張らないといけないような気がします。

 客観的に見れば、ちょっと暇ができただけで自分がいらない人間だなんてそんな大げさな、と思うかもしれませんが、どうやら会社員で同じように感じる方は少なくないみたいで、知人と話をしていると、プロジェクトの隙間で同様の精神状態に陥ったことがある、と語る方がいました。仕事が暇になると自分がいらない人間だと思う、というのは会社員にとってはあるある、といえるのかもしれません。
 

 別のケースでよくあるのは就職活動の際に、何社か面接で断られただけで、結構落ち込んでしまって、寂しさがわいてきたり、自分が社会から否定されている気になったりすることです。

 これも、就活とはそういうものだから寂しくならず淡々と受けたらいいじゃん、ということなんですけど、本人はそうは思えなかったりします。

  
 このように、私たち人間は、他者からの承認を得る機会が途切れると、簡単に不安や寂しさを感じてしまいます。

 

 承認がないと自分は成り立たない、ということから、
 例えば、結婚していてパートナーとの関係がうまくいっていない状況は想像以上のダメージになります。
 あるいは、ずっと主婦で頑張っているけど、その働きが当たり前として認めてもらえない、ということもかなりつらいこと。本来であれば承認を与え合うパートナーから認められない。離婚しない限りは何十年もずーっとその関係が続く。
 
 結果、まさに彷徨するように承認を求めてPTA活動、ボランティア、セミナーといったものにのめりこんだりということが起きます。不倫など別の異性に承認を求めるということも起きます。

 特に主婦の方が抱える悩みは子育ての苦労や、現代の日本では主婦や女性の地位も低いこともあってよりつらいものがあります。男性のように仕事に精を出していればとりあえずは忘れられるという逃げ場もありません。

 勤めに出たくても経験もなく、条件が悪くて出られない。
 友達付き合いが苦手であれば、承認のネットワークはさらに狭くなり、悩みは深くなります。
 追い打ちをかけるのは実家との関係で、親に会うと余計なことを言われてイライラする。

 にっちもさっちもいきません。

 こうしたケースについて、その方の「認知」「信念」をポジティブに変えればうまくいく、だなんていうのは見当違いになります。その当人の心の問題、とかそうしたことにとどまらないことが分かります。
(前回の記事にも書きましたが、ネットにつながらないスマホが壊れていると勘違いして修理しようとするような)

 前回の記事にも書きましたが、おそらく「社会の承認」とは、多元的なネットワークとつながるということです。特定のものに呪縛されずに力を発揮することができます。一方、社会から切り離されると、頼るところが極端に少なくなり、親など近親者のネットワークのみとなって支配される、ということなのだと思います。だから、関与が薄くなると「自分がいらない人間だ」なんて感じさせられてしまうのです。

 

 専業主婦などは社会との関わりがどうしても限られてしまいますから、常に工夫がいるようです。
 

 

 先日、NHKスペシャルで「ミッシングワーカー」という特集がありました。家族の介護などをきっかけに、仕事から遠ざかり、年をとり自身も生活困窮者から抜け出せなくなってくる実態が報告されていました。

 その問題も、当人たちの問題にとどまらず、グローバル化や新自由主義の波や、非正規労働の問題、急速に進む超高齢化社会など環境の問題がまずあり、その流れのひずみに弱者が落ち込む状況があります。
  

 解決の事例で興味深かったのは、ある男性のケース。自身の体調悪化から30代で退職して、その後家族の介護で労働から離れ、孤独となり、困窮する中で家がゴミ屋敷となっていました。
 解決のために、公的支援も介入しましたが、その際にポイントは、選任職員だけではなく、地域の人ができるだけ多く参加して声をかける、ということだったそうです。

 その結果、ゴミ屋敷はきれいになり、就職できるまでに回復していったそうです。 

 社会からの承認、関与の大切さを示しているように思います。

 
 別の事例で周囲からの関与が少ないケースでは、本人も「働く自信が持てない」など、苦しんでいらっしゃいました。(もちろん自信だけではなく、雇用条件、スキルだとかいろんな問題が絡みますが)

 実は、個人の問題と考えられがちな「自信」も、関わる多くの人のネットワークから与えられるものだ、ということです。
 ネットワークが切れてしまうと、私たちは容易に自信を喪失してしまい、自分一人では回復することができません。

 「いや、私は自助努力で何とかしてきた」という人は、自分を取り巻く社会的なネットワークの働きに気づいていないだけ。
 呪縛となるから周囲との関係はすべて立ち孤高の存在で生きていく、ということはどうも難しいようで、クラウド的な存在である私たち人間は、関わりがないと十分に生きていくことはできません。
 

 

 例えば、現時点で、勤めに出ているケースでも、よほどモラハラ環境であったり、さらに自分に合うより良い環境を求めて退職、転職を考えることは良いのですが、ただ、働くのがおっくう、といった程度であれば、働き続けたほうが良いように思います。
 それは、社会の関与、接点が失われるダメージも大きいからです。

 

 冒頭で挙げた例のように、仕事が暇になるだけで、面接に落ちただけで、自分は価値がないのでは、などと思うのが人間です。関与の喪失は想像以上のダメージ。仕事をやめると一瞬、解放感が得られますが、すぐさま、社会の承認がないことが津波のように襲って来ることになります。
 うつ病でも、休みすぎないほうが良いとされます。身体が回復したら、少しずつでいいので仕事に復帰していくほうがよい。統合失調症でも、社会で役割があったほうが回復は早い。

 

 家というのは、「安全基地」であり、ダメージを回復させる一時の退却先です。
 (一方で、家族からの呪縛も入りやすいデメリットもある場所ですし、ずっと退却していることのマイナスも知っておかなければなりません。)

 最近は、人生100年時代と言われています。紆余曲折は誰でも必ずあります。上手に退却(引きこもったり)し、上手に関与する。退却しているときは、傷をいやし、力をつけ、ひそかに次を企む。

 

 クラウド的な存在である人間の特性からすると、傷をいやし回復したら、ブランクを置きすぎずに早めに社会への関与をつなげなおす必要があるようです。その際は、常に接続先は緩やかなものを複数確保する。すると多元性が担保され、特定のものに呪縛されにくくなります。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

親などから入れられた呪縛を解くためには何が必要なのか?

 

筆者が、カウンセリングを提供していて、よく同じ職場のカウンセラーの先生等に冗談っぽくいうのは

「下手にカウンセリングを受けるくらいなら、運動するか、お祓いでも受けた方がよほどいいですけどね」

ということです。

(同じ職場のカウンセラーさんは冗談だと思って笑って聞いていますけど)

 

「お祓い」というのは、実際にそんな力があるかどうかは信じていませんが、ただ、親、家族などの環境から入れられた呪縛を解く手段としては、そんな方がいいかも?って本当に思います。「外部化」「簡便さ」といったブリーフセラピーの要素が入っています。

 

実際に、発展途上国では、統合失調症の治療でシャーマンなどが投薬に匹敵する効果を発揮したり、という報告があるようです。これも暗示の力ですね。

 

 

ブリーフセラピーでも、家族療法の東豊先生が、有名な”虫退治”という方法で、不登校など、家族の問題を解決したりしますが、まさにお祓いのような方法です。

 

ですから、お祓いに擬した方法(暗示)にはバカにならない効果があるとかんがえられます。
(もちろん、だから、いわゆるお祓いを推奨しているわけではありません。お祓いが持つ要素をセラピーに生かせば、というヒントという意味ですけれども。)

 

では、その要素とは何か?

 

 

「呪い」という言葉は、カウンセリングでは使いませんが、そういった方が適切なくらい、私たちに入っている暗示の力はものすごいものがあります。

それは、心理主義のポップ心理学や自己啓発のように、「コアビリーフが取れれば解決します」というように簡単ではありません。

 

暗示というのは、身体に刻まれるように食い込みます。身体とは、ホルモンや、遺伝子やそういったところまでです。

映画、アニメや漫画など、様々なストーリーでも主人公が苦しむ呪いは身体にも刻まれていて、腕とか体に黒い悪魔のような影があるような演出があったりして、考え方を変える、といった程度ではなかなかいうことをきいてくれません。

 

身体に刻まれている、という意味は、もちろん外科的なことではありません。

 

身体とは、一つは「発達」という視点。

人間は、親に育てられ、いっぱい暗示を入れられます。
ただ、反抗期で、その暗示を捨て「このクソババア、クソジジイ」と言って、神からの託宣だとおもっていたことが、単なる一意見に過ぎなかったことを知り、親の価値観を相対化して、成人へと成長していきます。

発達の中には、様々なイニシエーションをへて、成長のために必要な暗示を相対化していく機能があります。

 

しかし、トラウマなどで時間が止まり、「発達」が失調すると、暗示を脱ぎ捨てていく機能が損なわれてしまい、一時的でしかなく、偏った暗示がずーっと残り続けることになります。

 

反抗期がない、あってもただ不満をぶつけるだけで、本当の反抗期の機能ではなかった、ということはよくあります。

 

呪いを解く旅に出る神話などのストーリーは、人生の“発達”を示しているというようなことがよく言われます。

故郷から旅立って、様々な人との出会い、試練を経て、自立し、目的を達成する、大団円かと思ったら、そこに落とし穴があって、
本当の成熟を経ると、落ち着いた日常に戻ることができて・・・

途中には、裏切りとか、別れとかもあり、親(特に父)の影との格闘、

といったようなこともあります。

 

ユングといった人たちが、神話に着目したのも、暗示を解くためには慧眼だったかもしれません。

 

もう一つの視点は、「代謝」「ストレス応答」という視点。

外部からのストレスが来た場合に、それに対処して、自分を守る、ということを私たち人間は行っていますが、暗示が入ることで、それがうまくいかなくなります。

特にストレスは、社会、特に人間からもたらされます。
それへの対処は、身体も含めて、社会的な能力で行うものですが、「あなたは変だ」というような暗示が入っていては、しっかりと跳ね返すことができなくなります。足場がぐらついているところで重いものを持つような感じです。踏ん張れないのです。

さらに、長くストレスにさらされることで、オートマチックに動いて、助けてくれるはずのストレス応答のシステムが起動してくれず、頭ではわかっていても対処できず、さらに自分を責める悪循環に陥ってしまいます。

また、外から栄養を得て、老廃物を吐き出し、成長していく、といったこともうまくいかなくなる。

 

こうしたことも含めて解決することが必要で、単にビリーフとか考え方だけを変えても、根本的な変化は起こりません。

 

私たちも、暗示から抜け出るためには、座してセラピーを受けるだけではなく、社会に出て働き、人との出会いも経て、自分の原家族の価値観を相対化できる力を持つ必要もあるのだろうと思います。

(じゃあ、カウンセリング、セラピーは何をするの?というと、社会での旅が無事に終えられるようにサポートを行ったり、時には避難所となったりする。ファンタジーで回避させて旅を邪魔してしまうことはしない)

人によっては、がむしゃらに頑張って、社会で成果を上げて称賛されて、その実績をもって呪いを相対化させる、という人はたくさんいます。極端なのは、企業の創業者とか、芸能人などですね。
(ある程度成功したら、自分のBeingを癒すことをしないと、いつまでも成功を追い求めて破滅してしまうことになりますけれども。)

 

パーソナリティ障害、というのも、悪いことばかりではなく、それはそれで呪いをとくための未熟な一つの戦略ともいえます。自己愛性パーソナリティ障害などは、社会で成功するための爆発的なエネルギーを提供してくれますから。
ただ、上にも書きましたように、成功とともに並行して自分を癒して、成熟し、普通の社会に着陸しないといけませんけども。

 

トラウマを持つ方にとって、働くというのは、「怖い」といったイメージを持つ方も多いのですが、一方で、”仕事”というのは、呪いに立ち向かうための抵抗の拠点を提示してくれるものでもあります。

 

 

セラピーで間違った方向があるとしたら、愛着だとか、家族との和解とか、生き直しといって、家族に執着させるような方向性を持つようなケースです。

本当は、旅立たないといけないのに、それをかえって邪魔をして、主人公を“故郷”に縛り付けるような方向になってしまいます。

とくに現代は、核家族で、家族が閉鎖的で密着しすぎていて、親子関係の影響が濃すぎるのです。

親が支配的であるなら、親に執着して、態度を改めさせよう、というのは思うつぼです。本当なら、サッと切って、家を出ないといけない。
でも、まちがった家族道徳(ローカルルール)に縛られて罪悪感でうしろめたくなってしまったり、自分には自立などは経済的にはとても無理だと思わされて動けなくなってしまう。

(参考)→「親、家族についての悩みは厄介だが、「機能」としてとらえ、本質を知れば、役に立つ~家族との悩みを解決するポイント

 

呪い(トラウマ)というのは、時間を止めてしまいます。
子どものような状態のままで止まってしまいます。

健全であれば起こるはずの人生のイニシエーションが起こらなくなってしまう。そうして、発達が不良になるので、呪いを負った人が抱える症状と、生まれつき発達障害の人との症状は相似形のように似るのです。
(発達性トラウマ症候群(いわゆるトラウマ)は、“第四の発達障害”と呼ばれます。)

 

セラピーのアイデアとしては、発達の過程をワークのように体験できる、といったことはありえます。催眠(ヒプノセラピー)でスクリプトを聴かせて、それで呪いを解く、というのは、まさに、短時間で“旅”を経験させる手法の一つです。うまくすれば、大きな効果がある。
(ただ、世にある催眠療法を受けたクライアントさんの感想を聞くと、なぜか効果はそれほど芳しくありません。何も変わらなかったという人は少なくない。催眠を受ければいいというものではなく、効果を出すためにはポイントがあるようです。)

 

 

あと、今ここに注目して、止まっている身体の時間を動かすような働きかけをする。トラウマケア(ストレス応答系へのアプローチ)というのはそのための手法です。

(参考)→「新たな療法の治療ポイントは「呼吸」(代謝):新しいトラウマケアのアウトライン

暗示に縛られた状態というのは、自律神経や免疫、内分泌系などがが乱れている状態ですから、それを動かして、健全な代謝が起こるようにする。

運動、睡眠、食事ということがなぜ大事かといえば、止まっている身体の時間を動かす力があるから。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

セラピーとして着目するのは、やはり“呼吸”の力。呼吸をうまく活用して働きかけて、暗示によって縛られた身体を回復させていくことです。

 

 

お祓い、の持つ要素ということを考えると、人生のおけるイニシエーションを代行してくれる、また、無意識に働きかけて、うまく働かなくなった代謝を回復させるトリガーとなる、ということかもしれません。

 

カウンセリングは、あくまで科学的であることを志向しますから、
こうした要素をセラピーの内部に盛り込んで、難しいケースに挑んでいきます。

 

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

「ハウルの動く城」にみる、呪いの呪縛と自由のプロセス

 

宮崎駿監督の映画で「ハウルの動く城」という作品があります。

ソフィーという女性が、魔法使いハウルに出会い、その中で、魔女に呪いをかけられておばあさんになってしまうお話です。

 

ハウルという魔法使いは、魔法で自分の城(動く城)を作って動かしています。

 

ハウル自体の評判は芳しいものではなく、
人の心臓(心)を奪って食べるとか、国に仕える偉い魔法使い(母親?)からも危険視されています。

 

ハウル自体も呪いを背負って生きていて、
そこから脱しようともがいて、戦っています。

 

大きく見える城もハリボデで実は中身はぐちゃぐちゃだったり、
本当は魔法が怖くて、まじないで何とか防いでいたり、
また、ハウルはいくつもの名前を持っていたり、
(「ハウルって一体いくつ名前があるの?」と尋ねられるシーンでハウルは、「自由に生きるのにいるなだけ」と答えます。)
とっても子供っぽかったり、

トラウマを負った人の姿をよく表している、と思います。

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

トラウマを負っていると、
ハリボテのように虚勢を張っていても内面はぐちゃぐちゃ、
自分も他人を傷つけるような言動をしてしまったり(心を奪ったり)、
いくつもの名前を持っているのは、自分というものがよくわからない状態
実年齢に比べて子供っぽく、周りの人たちは大人だと見ています。

 

魔法使い、というのはセラピストの姿とも重なります。
魔法で呪いを解けそうなものですが、実際はなかなか解けませんし、魔法使い自体も呪いに翻弄されていたりします。
(最後は魔法ではなく、愛の力で呪いは解けていくのですが・・)

 

ハラスメントの研究をされている大阪大学の深尾葉子准教授は『魂の脱植民地化とは何か?』という本の中で
「「魂の脱植民地化過程」の描画として本作品を観ると、透徹した一貫性、徹底した描写、完璧なまでのストーリー展開と人物配置で構成されている。」

「「城」は人間の内面世界をそのまま具像化したものであり」「物語全体は、心と魂の乖離を乗り越え、呪縛の快方に向かうプロセスとして展開する」

「ここには、さまざまな精神疾患、たとえば、自閉症や分裂症といった心の病を生きている人々の内面ばかりではなく、「正常」だとされている人々が日ごろ気づかないようにしている心の内奥や魂との断裂、魂との乖離しつつ外面的に構成されているいくつもの人格、そういったものが、見事に視覚化され、映像化されている」としています。

 

 

親子関係、発達、様々な心の悩み、そしてトラウマが解消されていくプロセスと重ねてみると、とても面白い。様々な示唆に富む作品です。

 

原作はこちら↓

 

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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トラウマを負うと一元的価値観になる

 

 トラウマを負った人(不安定型愛着)の特徴の一つとして、一元的な価値観になる、ということがあります。

 

一元的価値観とは何か?というと、簡単に言えば、善悪(正誤)の基準がこの世で一つだけ、ということです。

 

トラウマを負うと、この世が危険な場所であると感じられ、常に漠然とした不安になります。不安から逃れる方策として、どこかに絶対の価値観があるという観念を持ったり、自分がその価値観から外れた罰としてトラウマを負ったのだ、という感覚を持つようになるのです。

 

さらに、トラウマは人から、特に親から、負わされることがあります。本来であれば、親に対しては、反抗期を経て、自らの価値観を確立して、多元的になるものです。
しかし、トラウマの影響で、親には反発しながらも、依存させられる、ということが起きるために、本当の意味での反抗期を経ることができません。結果、世界が絶対的な一つの基準でできている、といった価値観を自然と持ってしまいます。
一元的価値観があると、その価値観の中で力の強いものが上位に来て、そうではないものが下位に来て、支配されてしまう、ということが起きます。

 

そのため、トラウマを負った人は、常に、どこか自分はダメなおかしな人間だとして、自信がありません。また、社会に出ると、その場で力の強い人にいいようにされたり、支配されやすい傾向があります。

 

逆に、躁的防衛として、妙に尊大になって、相手を見下したり、自信満々になりますが、周囲に反発されると脆い性質があります。
とってもピュアで理想主義的ですから、自分の価値観を他者に押し付けてトラブルになりがちだったり、他人が高い理想を求めないことについて落胆することがあります。

 

よくあるのは、感情的になったり、他者の悪口などの意識の低い発言をする身近な人を見て、「なんで、この人はもっと高い精神性を持つように努力できないんだろう? 気が付けないんだろう?」と感じてイライラする、といったことです。

 

 

一元的価値観ですから、他人も自分と同じように考えるはずだ、として、相手に期待しますが、当然ながら相手は同じようには考えてくれずに、失望してしまいます。

 

 

さながら、テロリストのような心性をもっています。
(理想主義的で、モチベーションが高く、正義感も強く、他人に期待して失望する、ということです。)

 
 自他の区別がつかないために、相手の言葉を真に受けやすいです。
なぜなら、一元的価値観ですから、相手の言葉≒事実 として受け取ってしまうからです。
「相手は相手。自分は自分」とは思えないのです。

 
トラウマを負った人は、一元的価値観を持つという性質を利用されて、親や上司の言うことは自分よりも正しい、としてハラスメントに遭いやすく職場や家庭でいいようにされてしまいがちです。

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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”適切な反抗”とは何か?

反抗、というと文句を言ったり、暴言を吐いたりするようなことをイメージされるかもしれませんが、そのようなことではありません。

適切な反抗とは

 ・これまでの養育環境から受けた影響を相対化(自他の区別をつける)すること

であり、
さらに細かく言えば、

 1.ダブルバインド(支配)に気づくこと
 2.トラウマを解消すること
 3.一元的な価値観の世界から、多元的な価値観の世界に移ること
   (私は私、あなたはあなた)

です。

 

 ダブルバインド(支配)とは、まさに正論(常識)をもとに相手を支配することです。
→「モラハラへの対策、治療のために知っておきたい6つのこと
ご自身が罪悪感や自信の無さ、惨めさや苦しさを感じていたら、ダブルバインドやトラウマの影響が考えられます。

例えば、「自分が悪い」「自分はダメな人間だ」という根拠はどこから来るのでしょうか?

結局、ゴールポストを自在に動かす人(親、上司など)がいて、シュートが外させられて、「ダメな人間」という烙印を押されているだけなのです。

ダブルバインド(支配)とは、簡単に言えばゴールポストを勝手に動かされてしまって罪や罰を作らされてしまう行為を言います。

 トラウマは、ダブルバインドから抜けられなくしている過去に追った傷、スティグマ(烙印)です。

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

ダブルバインド(支配)の理屈を聞いても、
「そうはいいますけど、私は“現実に”ダメな人間です。なぜかというとこんなことがあった、あんなことがあった・・・」
と当事者は思ってしまっています。

「こんなこと」「あんなこと」がまさにトラウマです。

普通であれば、記憶とともに流れていくものですが、それが流れず頭に残ってしまっていて「お前はダメな人間だ!」とささやき続けているのです。

さらに、一元的な価値観から多元的な価値観へ、というのはもうすこし簡単に言えば、「私は私」と思えることです。反抗期とはまさにこれを達成するためにあります。

例えば、仕事にしても人生にしても、正しい方法や価値観(反抗期の前は親の価値観)が一つだけあって、自分はそれが身についていない、知らない、と思ってしまうのが、一元的な価値観です。

一方、仕事も人生も人ぞれぞれ、価値観も取り組み方も違う、違ってていい、と思えるのが多元的価値観の世界です。
相手が総理大臣であれ、社長であれ、あなたはあなた、私は私、と思えることです。

支配やトラウマを負っていると、一元的な価値観に染まってしまってそこから抜けられなくなってしまいます。
社会に出ても、支配的な人が寄ってきて「私はあなた以上のものを知っている」と誘惑してきます。

でも、世界は多元的だと知ると、見え方がガラッと変わります。

親も親で、あれはあれでいい、でも私は私、と思えるようになります。動じなくなるし、罪や罰もなくなります。

 “適切な反抗”とは、本来生きる世界への入り口となります。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

 

これは私のものではない

例えば、
ブログの記事を書こうとすると、
妙に頭が重く、もやがかかったようになります。

「支配者」という概念から説明すれば、
支配者の邪魔が入っているといえますし、

「遺伝子」から説明すれば、何かマイナスに働く遺伝子が影響しているということになります。

ためしに、いくつかの言葉を唱えてみます。

すると、最初は、上手く反応しないのですが、
しばらくすると、頭が重いのがなくなってくるのがわかります。
皆さんも、上手くやる気が起きないことってないでしょうか?
その時は、ご自分のせいではなく、外からの邪魔でそうなっていることが多いのです。
ご自分を責めたり、やる気を高めるような努力をすると、余計にその罠にはまってしまうことになります。

もしそうなったら、
「これは私のものではない」
と何度か唱えます。
すると、ササッと、重さが取れていきます。

 

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