悩める人は、本当は器が大きい

 

 筆者が、休みの日にテニスをするのですが、素人のテニスは、大体ダブルスで試合を行います。
 参加者も、男性もいれば女性もいるし、年齢もバラバラですから、いろいろな人とペアになります。

 ダブルスだと、守備範囲をどう捉えるかは結構難しく、
 上手くない段階だと、本来自分の範囲を見逃したりすることもしばしばあります。

 

 筆者の場合でしたら、例えば後衛にいて、本来だったら前衛の人が拾うはずのボールまでカバーに行ったりして、
 よく考えると、人のボールまで拾いに行っているな、と気づいて、なんかちょっとおかしいかも?と思うことがあります。

 これって自分の責任ではないものまで拾っているのかも、と。
 

 そうこうしていると、本来の守備範囲が開いてしまって(ダウン・ザ・ラインを決められたりして)、本末転倒になってしまうことがあります。
 

 うまい人は、ポジションの取り方、守備範囲の見極めが上手で、
 任せるところはしっかり任せることができます。

 

 

 日常に置き換えると、似たようなことは起きています。

 寛容な気持ちになれなかったり、人に対してネガティブな感情にさいなまれたりするとき、私たちは、「自分は器が小さいな」と思うことがあります。

 普段いろいろなことに気をもんで、対処しようとしますが、うまくできない。

 

 反対に、自分のペースで物事に取り組み、他人に対してもネガティブな感情にさいなまれることが少ない人がいる。
 
 それと比べて、自分を責めてしまう。
 「ああ、自分はダメだなあ」と。

 

 
 思い直して頑張って、器を大きくしようとすればするほど、いっぱいいっぱいになってうまくいかなくなる。

 この繰り返しで、自信がなくなってくる。

 

 

 なぜこのような悪循環となってしまうのか。

 ここにも「ニセの責任」というものが絡んできます。

 悩める人の器には、「ニセの責任」がいっぱい乗っていて、どれも本来は自分の責任ではないものばかり。

 これまでの人生で、自分の守備範囲ではないところまで幅を広げて、ボールを取りに行って、あちこちの責任を自分のものとしてかき集めてきていた。
 
 そこでミスが起きたりして、自分を責めたりする。

 さらに、「代謝」がないので、終わりがなく、風化されずに残ってしまう。 
 

 

 

 トラウマを負った人は、実は能力がとても高い。
共感性が高く、責任感が強く、それらを自分で引き受ける度量(器)もある。
  

 でも、どんなに高性能のコンピュータでも容量が残っていないと、パフォーマンスが低下するように、容量に一杯に「ニセの責任」を抱えたままでいるので、力が出せない。

 そして、さらに頑張らなければ、また「ニセの責任」を引き受けようとしてしまう。

 

 余裕がない人のことを形容して、「いっぱいいっぱいになっている」といいますが、まさに言い得て妙です。

 

 パーソナリティ障害など難しいケースを見ると、その通り、みな「いっぱいいっぱい」です。

 

 反対に、健康な人、 
 自分よりも器が大きいように思える他者は、実際の器が大きいのではなく、自分の責任として考える範囲がとても小さく、器の上にニセの責任がほとんど乗っていないだけ。

 「いっぱいいっぱい」ではなく、空きが十分にある。

 

ある意味分をわきまえているので、パフォーマンスが良い。
 他人にかかわらないから、器が大きく見えている。

 非力なはずの電卓がサクサク動くのと同じ。

 

 本来、人間は自分がとらないといけない責任は限りなく小さいのです。

 他人の感情や考え、行動は、基本すべて対象外。

 例外とされがちな、家族やパートナーに対する関係も、機能によってなりたり、あくまで愛想が尽きるまでのこと。無限の情などは存在しない。

(参考)→「「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 自分のせいだとされているときは、因縁をつけられているだけ。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 本当は自分には能力もあるし、器も大きいと気づく必要があります。
 器の大きさは守備範囲の狭さ(適切さ)にこそある。
 

 そして、本来いるべきポジションにいないといけない。
 本来のポジションにいないと実際に外から見た自分の姿とが埋まらず、そのギャップが嫉妬や支配を招いたりするようになるのです。
(参考)→「私たちは相手から見ると、思っている以上によく見えている。」 

 

 生きづらさを抱えている人は、本当は力がある。大きな器を持っている。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 ただ、能力の高さを利用されて、たくさんのニセの責任が乗ってしまっているし、さらに、嫉妬や支配で魔法をかけられて、ニセの責任が「終わらない魔法のリンゴ」となってしまっているだけ。

 

 これらを免責して、“空き”を作っていく必要があるのです。
 (免責する必要さえないかもしれない、なぜなら、自分の責任ではないのですから)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「終わりがない悩み」こそニセモノである証拠となる。

 

 私たちは、ニセの責任を背負っていて、その支配を強く影響を受けている。
 
そして、それを「免責」する方法を探している。

 ニセの責任の影響はものすごいものがある。
 容易には、免責できない。

 

 とりわけ、ニセモノだとわかれば、半分解決したようなもので、
 ニセモノだと気が付けないから、長く苦しめられる。

 

 治療者にリフレーミングのために助言や指摘をされても、
「いや、そうはいってもこれは本物なのです。本当に私はダメな人間なのです」となってしまう。

 

 免責するためには、本物の責任とニセモノの責任とを見分けることがまず必要になる。

 

 
 では、あらためて、ニセの責任とは何か?

 

 それはローカルルールの呪縛(の強化子)であると考えられる。
 ローカルルールというのは、私情に過ぎないものが常識を騙って他者を縛る、あるいは常識が更新されずに因習となっているもの。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 ニセの責任は、ローカルルールがばれないようにするために、「責任」という“装い”をすることで、呪縛を強固なものとしている。

 

 
 例えば、理不尽なことがあったとしても、それが、ただ理不尽なものだ、ということであれば、(それもとても嫌だけど)「理不尽だったね」ということですみます。
 しかし、その理不尽が「あなたに原因があった」「あなたの責任だ」となると、強烈な呪縛となって作用し始めます。
 (本人も問題があるから理不尽に巻き込まれる(当然だ)、というのがこの場合のローカルルール)

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 犯罪被害にあわれた方などを見るとまさにそうで、出来事そのもののダメージも激しいものですが、何よりも、「なぜ自分が?」「自分にも非があったのでは?」と自分で感じたり、他者からそのような眼差しが入ると、そこから抜け出すのは容易ではない。
 

 

 

 専門的には、「帰属エラー」というものですが、原因が自分に帰属したとなると、解決できない反省に突入し、ぐるぐると原因=責任の無限のループとなり、罪悪感が襲ってきます。
 

 

 人間は、本当に解決できる問題については行動することで解消できます。
あるいは少し時間が立てばチャラになるものです。

 しかし、ニセの責任というものは本来はその人には責任はありませんから、対策など立てようもありません。責任の内容も、存在そのものがおかしい、といったようなものであるので、もっともに見えて異様なものだからです。
 (いじめなんかは典型です)

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 また、ニセの責任は謝っても許してもらえない。

 生物である人間や自然の特徴は「代謝」です。時間がたてば排出される、チャラになるのが普通なのです。それでおしまいです。

 

 しかし、ニセの責任には代謝がない。終わりがないのです。

(参考)→「「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 

 ニセの責任はローカルルールがもたらすものでしかないので、属するグループとの関係が切れれば、本来は、解消されるはずです。
 いじめであれば、転校すれば、あるいは卒業すれば、そこで展開されていた“ノリ”はなくなり、関係は新たなものになるはずです。
 自分が属するグループは都度変わっていきます。学校は卒業するし、会社の部署も変わっていく、友人関係も変わる、

 ただし、ニセの責任というのは、上記の無限ループが自分の中で「内面化」されてしまうので、属するローカルグループが変わってもずっと脳内では引きずり続けてしまう。

 

 そうして、ずっと解消できないニセの責任をいくつも自分の中でしょい込んで、ぐるぐると解決に取り組み→敗れる、取り組み→敗れる、を繰り返すことになる。

 挫折感は蓄積されていく。背負っている責任の量は、さながら大企業の社長か総理大臣のような大きさ(この世の罪はすべて自分にあるような感じ)となる。
その結果、新しい責任、本当にとりくむべき本来の責任には取り組むことができなくなる。

 そして、周囲からも「あの人は、なんか仕事に腰が入らない」「逃げ腰だ」といわれてしまうようになります。

 本当に取り組みたいことにも取り組めなくなる。
 直感ではニセの責任であることに気づいているため、自分でも内心忸怩たる思いを抱えるようになります。

 

 

 ニセの責任とは、さながら魔女の魔法・呪いのようなもの、やっかいですが、実はその厄介さの中に見破るヒントが隠されている。

 
 ニセの責任には終わりがない。だから厄介。
 しかし、終わりが無いのは実態がないから。実態があるものはときとともに風化していくからです。それが本来の自然の摂理。諸行無常。
この世に変わらないものなどありえない。
 (自然と接すると癒される理由の一つは、この自然の摂理に触れるためかもしれません。)

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 自分の抱えている問題が本物の責任なのであるならば、普通に対処すれば風化するはず。

 「終わりがないように感じる」というのはニセの責任の特徴であり、終わりが無いこと自体がニセモノさを証明しているということ。
  (魔女のりんごは魔法でできているニセモノだから腐らない。腐らないということはニセモノだ!)
 

 

 つまり、ずっと苦しんでいる悩み(罪悪感、劣等感など)ほど、ニセモノだ、ということです。

 (だからそれに気づけば容易に壊せる)

 

 

 ニセの責任は、

 「①ローカルルール(もっともに見えておかしな常識、実は嫉妬や支配欲などの私情に過ぎないもの)」に基づき
 「②帰属エラー/過責任(自分の責任ではないものを自分のものとしている)」で、自分の責任が過剰に拡大し
 「③内面化(自分の頭の中で反復され続ける)」で苦しみ、
 「④過剰適応、過共感(相手の世界に入る、先取りする)」によってそれが現実だと思い込まされ、
 「⑤代謝がなく、終わりがない」
   など、という特徴がある。

 

 

 この点を参考に、まず自分が抱えているしつこい悩みについて総点検。それが「魔女のりんごではないか?」と眺めてみることです。あんなにくっきり、本物にしか思えなかった罪悪感や劣等感がとんだ幻でしかなかったことが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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「免責」の“条件”

 

 本当に自分らしく生きるためには、「ニセの責任」を降ろさないといけない。

 ただ、なかなか抜けない。
 特にローカルルール(私的領域)の世界にいるうちは本当に難しい。

 村の掟からすると、その責任は絶対で、どうやっても外れない、と思わされているから。

 強固なようでいて、それらはふとしたことではずれることもある。

 

 

 例えば、日常の多忙さの中で煮詰まっているとき、悩みの中にあるとき、街中で買い物をするために立ち寄った店で出会った気楽なおじさんとやり取りする中で、癒されるという経験が筆者にもあります。
 

 おそらく、そのおじさんの中に、自分が属するローカルルールの世界とは違う感覚を感じ取り、おじさんを通じて、公的な環境と一時的にでもつながることができたから。

 
 もう一つは、犬や猫などの動物と接したときの感覚。とても癒さる、という方も多いのではないでしょうか。

 

 なぜかといえば、彼らはこちらに関心はあっても、余計なことはしかけてこない。また、彼らが属する自然の世界にこちらが触れることで、ローカルルールの呪縛がはずれるから。

 イルカなどでセラピーを行いますが、なぜ効果が高いかといえば、同様のことがあるのではないかと思われます。

 別の例で言えば自然とのふれあい。
 キャンプをしたり、海を見たり、自然の中で過ごすことも癒しの効果があります。
 

 

 このように、 「公的な環境」には、ニセの責任を免責する強い力がある。

 ローカルな環境というには、私的な情動など個人的なものが「公的なもの」という化けの皮をかぶっている状態なので、多くの人は、「これが社会だ」「これが世の中だ」と思い込んでいるけれども、全然違う。

 本当の「公的な環境」とは、もっと奥が深いし、私たちをもっと自由にしてくれる力がある。「公的な環境」には、いわゆるニセの責任がない。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 

 以前、あるカウンセリングの勉強会で、ナラティブセラピーについて、実習を経験することがありました。

 

 3人一組で、1人はクライアント役、2人は治療者 ということです。

 クライアント役の方は題材として悩みを示します。
 それについて2人の治療者は、どうするかといえば、クライアント役の目の前で「あ~だ、こ~だ」と相談します。クライアント役はそれをずっと聞いているのです。

 

 途中疑問があったらクライアント役に確認、質問することもできます。

 

 最初は真面目に相談していますが、あまりうまくいきません。
 だんだんとほぐれてきて自由にアイデアが出せるようになってくると、うまくいくようになってきます。
 

 途中、ある意味、失礼なこと、適当な意見もあるかもしれませんが、どんどんとアイデアを出していきます。そして適宜、クライアント役の方にも確認をしていきます。
 

 一通り終わった後に、クライアント役に「今悩みはどうですか?」と聞くと、
 「すっきりしています」と、不思議なことに、悩みが解消しているのです。

 

 もっと感想を聞いていると、
 「自分の悩みが扱われて、向こう側で考えられていることが心地よい」といったような感想。

 適当にアイデアが出されることに腹が立つ、なんてことはない。
 違和感を持つことがあっても、ちょっとおかしな方向に行っても、途中確認を取って修正される。そうすることで、だんだんとすっきりしてくる。

 中には、長年解消しなかった悩みが取れた、というような方もいました。
 

 

 実際に、これを活用して、「オープンダイアローグ」という北欧で開発された手法があり、日本でも紹介されていますが、それによると、統合失調症でも平均2週間程度で解決する、とされている。オープンダイアローグでは、医師や心理士が患者を交えて相談して方針を決める。
 何事も患者の意向に反しては決められない。
 方針そのものもありますが、患者もときに参加して議論されることが劇的な効果があるようです。

 統合失調症とは、どうやら脳の器質的な疾患というよりも、社会的なつながりが関係する病であることが見えてくる。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 

 なぜこのようなことが起きるのでしょうか?

 

 

 まず一つは、意識が背後に下がり、無意識の世界に入るという側面。

 
 もう一つのメカニズムは、治療者が複数人(2人)いて、相談することで、そこに「公的な環境」が生まれる、ということ。公的な環境が生まれて、そこで自分の悩みが扱われることで、社会とのつながりが回復する、ということ。

 

 最後に、これが一番のポイントですが、

 そうしたつながりを通じて、「ニセの責任」が免責されて、ローカルルールの呪縛が解けてくる、ということ。 
 
 それによって、統合失調症のような難しい問題でも、短い時間で悩みが解決されていく。
 
 

 ここで疑問に思うのは、
 一対一ではダメなのか?クライアントが一人、治療者が一人で、治療者がアイデアをポンポン出すのでもよいのではないか?
 うまくやればいいんじゃないか、とおもいますが、それだとうまくいかない。
 

 

 なぜなのか?といえば、それは、治療者側にかかる「責任(ニセの責任?)」が邪魔をするから。
 
 相談されたからには結果を出さないといけない、とか。
 治療者が治療者然としていないといけない、とか。
 失敗できない、とか。
 
 治療者が、そういう意識から自由になることは難しい。

 

 

 一対一だと、どうしても、その関係に呪縛されてしまう。「責任」から自由になれない。

 一対複数でも、治療者サイドが、結果への責任などにとらわれていると、うまく機能しなくなる。

 驚くことですが、実は、治療者も適当な方がいい。

 大嶋先生の書籍の中で吉本先生が「アホセラピー」といっていたというエピソードが紹介されていますが、まさにそんな感じのほうがうまくいく。
 

 

 どうやら、クライアントが「ニセの責任」から免責されるためには、治療者側も免責されないといけないようです。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、「ニセの責任」が免責されると、ありのままの現実がみえてくる。

 

 私たちは、「ニセの責任」を背負わされすぎて、「過責任」状態になっている。それによって、自分を守ることに労力を注がざるを得なくなって、本当に大切なことに責任が取れなくなる。主体的になれなくなる。

 「ニセの責任」からいかに自由になるかが、生きづらさから抜け出すポイントになる。

 

 本当を言えば、「機能している家族」「愛着」、というのは、免罪の装置として働きます。親が「安全基地」として存在し、「あなたは大丈夫よ」という態度、言葉で接してくれることで、免罪(代謝)が機能します。
 そして、成長する中で愛着が内面化し、自分の中でニセの責任を免責することができる。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 ただ、多くの場合、愛着に不安があり、免責が機能しなくなる。 
 親が親の機能を果たせず、親自身が「ニセの責任」発生装置になってしまい、子供を苦しめることになる。

 「ニセの責任」を免責する機能が内面化されていないため、「ニセの責任」がどんどん蓄積していってしまい、大変な苦労をすることになる。

 
 これが生きづらさや、トラウマ、であると考えられる。

 ※生きづらさとのメカニズムとは、社会学者によれば、「関係性の個人化」とされます。「関係性の個人化」とは、環境の影響などをすべて自分のせいだとしてしまうこと、です。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 

 依存症の世界でも指摘されていますが、「底をつかない」と治療が機能しない、ということがある。つまり、依存症とはそれまでに背負ったさまざまな生きづらさを癒すための自己治療である、ということ。

 元プロ野球選手の清原さんなど、依存症に陥った人を見てもわかるように、とても繊細で強いストレスや生きづらさを抱えていたことがわかる。
 それを癒すために依存が必要であった。

 

 それを、周りが本人の責任のようにお世話をすると(イネーブリング)、周囲から「ニセの責任」が流れ込んできて、本人は余計に問題行動を起こすようになる。

 自助会など様々な場を通じて「ああ、自分には何もないんだな、もう神様、仏様にでも任せるしかない。」「結局、自分は自分だ」と底をついたときに、本当の回復が始まる。

 つまり、「底をつく」とは、「ニセの責任に気づき、免責される」ということだと考えられます。 

(参考)→依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 

 トラウマも同様です。

 トラウマの主要症状にフラッシュバックというものがありますが、まさに、自分にとってつらい体験が繰り返される。
ふつうは睡眠をとることで、徐々に薄れていって「免責」されていきます。

 しかし、トラウマの場合は、自分にとって過去のつらい経験、嫌な経験が、ずっと反復される。

 「自分は何も悪くないけども、嫌ない経験だったんです」という風にはならず、
 ほぼすべてのケースで、「自分が悪かった。迂闊だった」という恥や罪悪感が伴っている。

 もちろん、トラウマとは、外からやってきたイベントにすぎないのですから、「自分は何も悪くない」でいいわけですけども、自分の中に免責機能が十分に機能していない場合、あるいは周囲がおかしな理屈で、「あなたにも問題がある」といったように責めてきた場合などは、処理できずトラウマになってしまう。

 

 苦の原因というのは、「ニセの責任」にある。
 人間が持つ過剰な意味づけなどが誤った原因帰属がさらに「ニセの責任」を重くしてしまう。

 

 

 こうした側面について、「ニセの責任」から抜け出す方法を提示したもう一人の巨人は、ブッダです。

 ブッダの悟りというのは、要は、世界の仕組みをありのままに真に客観的に捉えることができれば、苦から逃れられるということ。  

 私たちは、嫉妬や支配など、様々なローカルルールに縛られて「ニセの責任」でがんじがらめになっている。ローカルルールの中で、それを解決しようとあくせくしているけども、新たな苦を生み出すだけ。

 

 さらに、過剰な意味づけが働いて、何気ないことにも「自分だけに」とか、「何か良いこと(悪いこと)が起こるに違いない」と思ってしまっている。

(参考)→「過剰な合理性や意味づけ

 

 でも、客観的に見たら、自分だけに、ということはない。

 自分の子供が死んだ婦人が、ブッダに相談した際に、「一度も死者が出たことがない家からカラシダネをもらってきなさい」といわれて、家々を訪問してみたら、「実は、私の家でも・・・」とか、「数年前に、子供が・・」となって、婦人が客観的な事実に目覚め、「ニセの責任(私の落ち度で子供が死んだ。私だけがおかしい)」が免責され、苦から解放されていった。 

 

 通常の人間というの、見栄など、軽い幻想を持って生きている。
 また、嫉妬や支配、あとは、精神障害などさまざまなノイズが飛び交っている。その処理をするために、因縁(ニセの責任)を他人にふっかけて何とか自尊心を保っている人たちもいる。それが社会ですが、裏ルールがわからない状態だと、真に受けてしまって「ニセの責任」を強化する材料とされてしまう。

 

 実際は、「自分だけが・・」とか、「自分が悪い・・」なんてことはない。

 

 そのありのままを捉える方法を「悟り」としてブッダは発見した。「因縁(ニセの責任)」から逃れるのが「解脱」ということなのかもしれません。
   

 実は、客観的に見れば見るほど、迷妄は取れてきて、本来の自分になってくる。

 

 「事実、現実」というと恐ろしいように見えていますが、

実際は、
 「(ニセの現実を回避するための)幻想」-「ニセの現実」-「ありのままの現実」と3層になっている。

 

 私たちが恐れる「現実」とは、「ニセの現実」。
「幻想」と「ニセの現実」の間にも、ニセの責任からもたらされるものすごい恐怖があるので、見れなくなりますし、「ニセの現実」とありのままの現実との間にもさらにものすごい恐怖があります。

 ですから、容易にそこをクリアすることができない。

 

 でも、「ニセの現実」は「ニセの責任」による罪まみれで、みじめで苦しいもの。「ニセの責任」が免責されてくると、ありのままの現実がちゃんとみえてくる。

 

 ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、
 「ニセの責任」が免責されてさらにありのままに客観的に現実が見える。

 そうするなかで生きづらさは徐々に無くなっていきます。
 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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原罪と免責

 

 私たちは、ニセの責任をたくさん背負わされて、本当に自分の人生に責任が持てなくなる。不調をきたしてしまう。
 

 本当に立ち向かわなくてはいけないときでも回避しようとしてしまったり、問題行動を起こさざるを得なくなる。

 それは、責任を回避するいい加減な性格だから、ではなく、責任を背負わされすぎてしまっていて、それ以上背負うことができないから。

 認知のプロセスがゆがめられてしまっていますから、日常の何気ないことまで、「罪悪感(自分が悪い)」との気持ちを持たされてしまうようになります。
 そのストレスは過大なものです。 
 

 過大なストレスに対してうまく代謝が機能しにくくなりますから、心身に不調をきたすようになります。

 

 日常生活でも、仕事など様々な場面で不都合が生じてきます。

 悩みの中にあって苦しい、生きづらいというとき、
 「誰か、自分が大丈夫だよ、おかしくないよ、って言ってよ!認めてよ」と心から思います。

 ただ、なかなかそれが実現することはありません。一見そうしてくれそうな人が現れても、共依存の関係にしかならなかったり、期待して裏切られたり、といったことも起きます。特に、身近な人間同士ではなかなか難しいのです。
 

 

 

 人間は「外来要素の沈殿物」(パリ大学小坂井敏正教授)ですから、本来、責任はありません。
 人間とは、環境の影響に押されて、最後にババを引かされているだけで、責任の主体性というものはかなり怪しいものだからです。

 ただし、社会は、秩序を維持する関係上、目の前の人間に責任を問わざるを得ないことがあります。(例えば、自分のものを盗られても「その人の責任じゃないからいいですよ」とは言えない。)
 現代は個人主義ですから、特にその傾向が強い。 どうしても、やむにやまれぬ問題行動も、自分の責任とされてしまいます。

 

 ニセの責任で苦しい状況(I’m NOT OK)を、他者に因縁をつけてこき下ろして(You’r NOT OK)、かりそめの免責(I’m OK)を手にしようとする人もたくさんいます。

(参考)→「人は、自己愛が傷つくと、相手を「負かして」、自分が「勝つ」ことで存在を保とうとする

 

 すると、ニセの責任が連鎖していってしまい、互いに首を絞め合う構造になりどうしようもなくなります。息苦しい社会の誕生です。

 ニセの責任を自分で処理できる人や、他人に投げることができる人は健康に生きることができますが、できない人は、だんだんと苦しくなります。
 人間社会にも「2:6:2」という構造がある、といわれますが、ニセの責任という観点からもそれが言えるかもしれません。
 

 世の中には、「ニセの責任」が生み出されて、流通している、というのも“裏ルール”といえそうです。

 この「ニセの責任」の存在に気づき、それをいかに免責するのか、は私たちが本来の自分で生きていくためには最重要ポイントといえます。

 

 

 

 「ニセの責任」やそれのよる「罪悪感」ということがわかった時に、気が付いたことがあります。

 そういえば、キリストって似たようなことをしていたな、と。

 キリスト教の物語を見ていると、イエスが悩める人の問題を解決する際に、「罪は許された!さあ、立ちなさい」といったようなシーンが出てきます。

 祝福を与えて「免罪」すると、病が治ったりしていきます。

 

 キリストは、現在で言えば、民間の治療者やカウンセラーのようなことをしていたようです。
 

 キリストがユニーク、画期的であったことの一つに、人間が背負わされた「罪(ニセの責任)」に注目したことではないか、と思います。

 キリストは、ユダヤ教の改革者だったのですが、もともとユダヤ教には「原罪」といった観念はなかったそうです。
 旧約聖書にあるアダムとイブの話も、そもそもは「原罪」とは関係がない。「原罪」というのは、キリスト教になってから示されるようになったものです。

 

 人間を作ったのは神ですし、人間の行動もすべては予定されている。
 病や犯罪、様々な問題行動の責任も、本来は神様の責任のはず(全知全能ですから)。
 でも、現場の人間に帰せられる理不尽さ。大きな矛盾です。「原罪」とはまさに「ニセの責任」といってよいかもしれません。
 

 

 私たちは、自分たちがまさにあらがえないものに流されるように生きづらさに悩んでいます。

 例えば、愛着障害(トラウマ)を背負って人生がうまくいかなくなっても、親は選べないし、人生をやり直すこともできない、そのくせ責任だけは取らされる。誰もその構造を理解してくれない。表面的なことだけで非難されてしまう。そのことにものすごく怒りを感じていたりする。
 

 

 『反省させると犯罪者になります』という本にもありましたように、人間というのは、その理不尽さを直感していますから、服役者でさえいくら反省しろ、といっても、効果が上がらないのです。
 かえって腑に落ちず、理解されない孤独に陥ったりして、また再犯につながったりする。そこから抜け出ないといけない。

(参考)→「「反省」するととらわれ、支配される。人間に必要なのは「学習」である。

 キリストは、私たちが感じているその矛盾に直感的に気がついた。キレイごとだけではなくその矛盾から救われないと意味がない。

 

 

 興味深いのは、
 病にある人を治療したり、癒しを与えたりするときには、
  「エネルギーを注入します」でもいいし、
  「光を注ぎます」でもいいし、
  「神様が治してくださいます」みたいなことでもいいわけです。

 罪とか面倒なことを経由しなくてもよいはず。

 しかし、キリストは、
 「罪は赦された!」と宣言して、「免罪(免責)」によって、治療や奇跡を起こします。

 

 キリストは、人間は「罪(ニセの責任)」を背負わされていて「過責任」状態になっていること。それがストレスになって、心身の不調をきたしている、と見抜き、それを「免罪(免責)」することが人々が自由になるポイントであることを知っていたのかもしれません。
 
 
 最後は、自分が「ニセの責任(罪)」を一身に背負って、磔にされてしまいます。(それによって人類を救った、というのが後に作られた解釈です。)
 

 

 

 人間にとって大切なポイントが明らかなのでしたら、キリストのように、「あなたの罪は赦された」と互いに行えばよい。

 トラウマを負っていると、訳の分からない「罪責感」「自信のなさ」にさいなまれています。過去の自分の行動がどうしようもない恥ずかしい、おかしなことのように記憶しています。それを「免責」してほしい。

 
 ただ、なかなかそれは難しい。日常生活では、かえって「ニセの責任」がトランプのババのように回ってきたりする。
 
 いかにして自分が背負った「ニセの責任」を免責していくのか?

 「ニセの責任」に着目して奇跡を起こしたキリストの行動は、私たちが悩みから抜け出すためにもとても大きなヒントが含まれていそうです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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