「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 「愛」などもそうですが、私たちにとってサイズに合わない言葉や概念は、私たちを機能不全に陥れます。

 
 人間にとってスペックオーバーである「愛」という概念を持ち出すと、愛が得られないことに絶望したり、応えてくれない相手に憎しみを感じたり、個として完成しようとするあまりに孤独に陥ったり、ということが起こります。

(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 「責任」も同様に私たちにはスペックオーバーの観念の一つ。

 

 一般に言われる意味での「責任が果たされていない状態」とは、責任がないのではなく、「責任」という身の丈に合わないものを当てはめた結果、逆説的に機能不全になってしまっていると考えられます。

 

 

 本来、私たちに必要なのは、それぞれ適切な「役割(位置)」です。

 
 以前、経営学者のドラッカーの言葉を紹介しましたが、
 「個人にとって、社会的な位置と役割がなければ、社会は存在しないも同然である。(中略)個人と社会との間には、機能上明確な関係が存在しなければならない。」と述べています。
 反対に、「役割」が失われると、社会の中で存在していないも同然となる。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 広く言えば、失業など「役割」を奪うハプニングは、社会に多くありますが、私たちの日常にも私たちの「役割」を奪ってしまうものは存在する。

 対人関係などで浴びる嫉妬や支配、それらが化けたローカルルールといったものはその代表格。

 

 ローカルルールとは、常識のフリをした私情が相手を支配しようとすること。

 いわゆる支配というのは、身の丈に合わない概念や言葉を持ってきて、私たちの「役割」を奪い去ってしまうことです。

 

 「責任」やそれにともない「罪悪感」というのは最もよく用いられる支配の道具の一つです。

 

 

 

 「責任」という言葉が過剰に用いられると、「役割」は失われて機能不全になってしまう。

 以前の記事で、「カウンセラーも免責が必要なようです。」と書きました。カウンセラーも責任から自由な状況のほうが、不思議なことに効果が出やすいことがわかってきている。
 統合失調症でさえ短期間で治る、という報告があるくらい。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 なぜ、効果が出やすいのか? については、よくわかっていませんでしたが、
「責任」ということを深めて考えていくと、その謎に迫ることができるかもしれない。
 
 
例えば、カウンセラーの「役割(機能)」というのは、本来は、

 ・そこに存在すること(それによって、クライアントは「安心安全」を得る)
 ・クライアントを苦しめているローカルルールからクライアントを切り離し、本来の社会とつなげる。(それによって「関係」を回復する)
 ・上の二つための入口、媒介となる。
  ※心理療法は、これらを助けるための単なる道具。
 
といったことが考えられる。

 しかし、

 ・(お金をいただいているからには)早く良くしなければならない
 ・難しいクライアントを怒らせてはならない

 ・クライアントに責められる
 ・首尾よく、改善しなかった場合にクレームになると困る
 ・医師やスーパーバイザーの評価が気になる

 といった「責任」がのしかかってくると
 「機能不全」を起こし始め、徐々に「役割」が果たせなくなってしまう。

 

 
 反対に、うまくいっているケースというのは、クライアントとの「関係」が良いことから、「役割(機能)」が発揮される。

 心理療法自体の効果というのは、あくまで「関係」とその先にある「役割」発揮を助けるきっかけでしかないのかもしれない。

 実際に、よく知られた研究では、
 治療効果に与える、心理療法の割合は、15%程度でしかないとされている。

 クライアントとの「関係」のほうがずっと大事とされる。
 

 

 それは「関係」によって、カウンセリングの「役割(機能)」が発揮されることを示している。

 

 

 境界性パーソナリティ障害など
 かんしゃくを起こしたりして治療者を責める他責的なクライアントが「難しい」のは、治療関係に「責任」の呪縛をかけてしまうから。

 治療者を非難したり、振り回したりして、「責任」のプレッシャーをかければかけるほど、反比例して効果は下がる。
 だから、なかなか良くならない。

 そのクライアントも、実は本心ではなく、養育環境での呪縛でそのようにさせられているだけ。
 「I’m OK」を得るために、「You’r NOT OK」として相手に自分にのしかかっている「責任」を渡そうとして他責的になっている。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 

 このように考えると、「無責任(免責された状態)」をいかに作り出すかは、とても大切。

 

 “名人”と呼ばれるような名医は、治療に行き詰まると、
 「う~ん、なぜよくならないかわからないね~~。なぜだろう?」とクライアントにわざと正直に白状したりする。

 すると、治療の膠着状態が解かれて難しいケースが不思議なことに前進することがあるという。
 「責任」の呪縛、機能不全に陥るのをうまく回避して、「役割(機能)」が発揮されるようにしていると考えられる。

 

 「無責任」というのは、実はとても大切。

 

 
 以上のことは、治療者側を例にしていますが、
 「無責任(役割・機能を発揮する)」の効果は、私たちすべてに当てはまります。

 
 私たちがよりよく生きていくためには、
 「責任」は棄てて、「役割」を発揮させることが必要。

 生きづらさとは、「過責任」がもたらしたものであることは、社会学などでも指摘されている(関係性の個人化)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 「責任」といったビックワードはかくも、私たちを機能不全に陥らせてしまうもの。

 

 私たちは養育環境など、これまで生きてくる中で、「責任」を過剰に背負って生きている。それで生きづらくなり、力を発揮できない。

 例えば、

 「両親が不機嫌なのは自分がいい子ではなかったからだ(自分の責任)」

 「友達を怒らせたのは自分の存在がいけないからだ(自分の責任)」

 「上司が期限が悪いのは、自分がどんくさいからだ(自分の責任)」

これらは、すべて「責任」というニセモノ。

 

 ただ、「責任」(ニセの責任)が捨てれないのは、それを捨ててしまったら、自分が堕落してしまうかも、といった恐怖があるから。

 
 実はそれも「責任」がもたらす幻想。

 「責任」を捨てて「無責任」になってしまったら、いい加減で無秩序になるのではありません。むしろ、本来の「役割(機能)」が発揮されて、社会とつながることができる。

 

 
 例えば、すごくプレッシャーのかかる仕事で、追い詰められて追い詰められてうまくいかず、最後に開き直ったらうまくいった。
というのはよく聞く話です。

 スポーツ選手など、試合に勝つためにストイックに責任を感じて煮詰まっていると、あるときコーチなどから、「もっと楽しんだら?」といわれて、ハッとなって、本来のパフォーマンスが発揮される、
というのもよくあります。

 

 

 「責任」があるほうが良い、と思っていますが、「愛」とおなじくそれはまったくの幻想で、本当は、「責任」こそが力を奪っている。

 

 本来の意味で「責任を果たす」とか「責任を取る」というのは、「公的な役割」を意識して、没頭すること。「責任」なんていう概念を持ち出す必要はどこにもない。

 

 逆に、「責任」というのはプライベートな人格にまで侵食して責任を問おうとする性質から、「公的な役割」に集中することを阻み、公私をあいまいにする。
 仕事の失敗が、あたかも自分の存在をすべて消し去るかのような恐怖を与えてきます。
 公私があいまいな状況というのは私たちをおかしくする。本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 こう考えると、私たちが感じる「責任」とは、実はローカルルールの一種であることが見えてくる。あらゆる「責任」それ自体がニセモノ。

 

 

 事実、「責任」といったものを感じているときと、「役割」を感じているとき(例えば仕事に没頭しているときのすがすがしさ)とを身体感覚で比べてみるとその違いがわかります。
 

 「責任」の気持ち悪さ。居心地の悪さたるやない。

 
 反対に、「役割(機能)」の場合はとても心地が良い。

 よく、「あの人はなぜ、あのように状況で役割を果たせたのだろう?」と思うようなケースがありますが、(消防士とか、乗務員とかが、危険を顧みず人を助けたり) あれは、「役割」を果たす感覚なのかもしれない。

 

 反対に、「なぜ、あの人は責任逃れのような卑劣な行為をしたのか?」という場合は、「責任」にとらわれた結果の行為なのかもしれない。

 

 

 私たちの生きづらさの大きな原因の一つは「責任」という、一見大切だけど、まったくのニセモノの概念にありそう。

 
 日常で、もし「責任」を感じたら、「そんなもの要らない」と完全に捨ててみる。

「無責任になって、いい加減な人になるのでは?」と思ったら、それも捨ててみる。大丈夫、心配いりません。

「無責任」になることで、本来の「役割」が浮き上がって来ますから。

 「役割」の心地よさ、機能する状態のすがすがしさを体感してみる。

 

 呪縛が取れた身体の軽さ、本当の意味での社会とのつながりの回復、湧き上がってくる自尊心、信頼感といったものを感じることができます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

“責任”は不要~人間には「役割」があればいい。

 

 “責任”にはニセモノが多い。
その蓄積が、私たちの苦の根源にあるものだ、としてきました。

 ニセモノがあるのであれば、ホンモノの責任があるのか?ということについて、ですが、便宜的に、ホンモノがあるということはできます。

 本物の責任だけを背負って、そうではないものは背負わないことがポイントといえます。

 

 ただ、いろいろと調べてみると、“責任”という概念は、とても曖昧で、納まりが悪い言葉であることが見えてきます。

 哲学とか、法学とかで責任ということについていくつか研究されているようですが、どうやらイマイチピンとくるものがない。

 

 『“責任”はだれにあるのか』という本を書いた国士舘大学客員教授の小浜逸郎氏は、「本書を書き終えた感想をひとことで率直に言うと、「やっぱり責任て、なんだかよくわからない概念だなあ」というところです。」
 と述べています。

 

 

 なぜ、よくわからないか、というと、
簡単に言えば、責任の主体と、問われる責任そのものとがどう理屈をつけても一致しない、ということ。 

 

 責任とは、自由意志を持つ主体が、その行為の結果について問われる、ということです。

 しかし、人間ってそもそも自由意志など持っていない。自由意志を持っている、といってもあくまでそれは理想の話。
 実際の人間は、外的、内的環境の影響を受ける存在で、否応なしに追い込まれるように反応しているだけ。

 

 哲学者のスピノザも述べていますが、人間には自由意志などなく、行為の原因をたどると環境に還元されてしまう。

 

 

 今日朝ごはんになぜパンを食べたか、といえば、前に見たTV番組のせいか、メーカーのマーケティングのせい、スーパーの価格決定のせい、親の教育のせい、意図しないホルモンバランスの乱れのせいか、政府の政策のせいか・・・
 など原因はきりがありません。
 何にも影響されず、自由意志で選んだ、とは言えない。
 

 「いやいや、そんなへ理屈を言って。パンは自分で選んだでしょ」と思うかもしれませんが、自分の行動を説明できないのは、私たちがよく知っている。
 買いたくない買い物をしたり、やりたくないことをしてしまったり、自分の行動で説明できることのほうが少ない。

 

 街頭でいきなりインタビューを受けて、「その服はなぜ買ったのですか?」と聞かれたら、スッキリ答えることはできない。
 「たまたま通りかかって」とか、「バーゲンをしてて安かったから」とか、
 「いや、デザインが気に入ったので」と、それはわかりやすい理由を探して言うだけ。本当の原因とは言えない。

 

 マーケティングなどの研究では、そうした答えは本当の答えではなく、真に受けると痛い目に合うことはよく知られている。
 本当の理由はもっと奥にあるけど、当人は気が付けない。第三者もそれを導くためには、正しく設計された調査と統計的な手法が必要になる。
 その際明らかにするのは、自由意志というものではなくて、環境の要因とか、無意識に潜む因子といったものです。

 

 こうしたことを考えると、人間には完全な自由意志などはないし、そこから導き出される“責任”という概念はまったく似合わない。

(パリ大学の小坂井敏晶教授も、『責任という虚構』という本の中で責任ということが人間にとってふさわしくないことをまとめています。)

 

 

 実際、“責任”という概念を持ち出して議論すると紛糾しています。
 納得できず、納まりが悪いので、いつまでたっても結論が収束しない。

 犯罪といったような明らかにその人が起こした問題であっても“責任”という言葉で語り始めると、居心地が悪くなってくる。

 例えば、ある国でマイノリティの人たちは犯罪率が高い、といったときに、では、犯罪はその人たちの責任か、といえば、そもそも構造的に貧しいから、教育水準が低いから、差別にさらされているか、となる。

 では、現場で起きた窃盗の責任はだれにあるの?と突き詰めていくと、訳が分からなくなってくるのです。

 『反省させると犯罪者になります』という本にもあるような理不尽さを人間は正しく感じるようになります。

 

 

 

 筆者は、“責任”という言葉は不要で、廃止してしまったほうが良いのではないか、と思っています。

 とっても扱いづらいし、納得性も低い。実用性も低い。なくても全然困らないからです。

 

 
 「責任っていう言葉がなくなったら、無責任な人が増えて困るのでは?」と思うかもしれません。 

 
 しかし、“責任”という言葉は、日本においては、実は明治になり外から入ってきた言葉です。

 それ以前は“責任”という言葉は現代でいう意味ではありませんでした。
 でも、困ることはなかった。  

 私たちが教科書なんかで習った「御恩と奉公」だとか、儒教の「仁」だとか、別の言葉が代わりにあったと考えられます。

 

 
 現代でいえば、「役割」という言葉がそれにあたるのかな、と思われます。

 

 使いにくい“責任”という言葉は廃止して、「役割」を用いたほうがよほどすっきりする。

 

 

 なぜかというと、これまで述べたように、“責任”というのはありえない自由意志と対になっていることから、そもそも範囲が広くなりすぎる性質があるため。

 
 “責任”はその範囲を制限していても、結局、「道義的な責任」といったようなものも含んで、当人の人格や存在そのものにまで浸透して、否定して消し去ろうとする傾向がある。

 
 “責任”が想定する自由意志とは環境も含んだ要素から成り立っているため、環境という自分ではコントロールできないものまで、自分のせいにされてしまうのです(社会学では、「関係性の個人化」といいます)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 だから、皆、“責任”という言葉には理不尽さを感じて、しり込みをしてしまうし、それが私たちを苦しめる。

 

 あるいは、本来、 責任のない人まで責任を感じて、「ニセの責任」引き受けてしまう、という不思議な現象も起きてしまう。

 
 例えば、子どもが、夫婦の不和の原因を、自分の責任だと思う、といったようなこと。そして、それがおかしいことだと気が付きにくい。

 

 

 しかし、「役割」だったらどうでしょうか? 
 

 親の不和を仲裁したり、気にかけることが子どもの「役割」とまでは、ふつうは思えない。もし、アダルトチルドレン状態でそのように錯覚していても、落ち着いて眺めれば、「それは自分の役割ではない」と気が付きやすい。

 

 「役割」にはあいまいさが少なく、範囲も限定されやすい。
 人格や道義的なことまで広がることもない。
 役割は、自由意志などといった過大な前提がないからです。

 

 職場でも、“責任”というと、道義的、人格的なことも含めてどこまでも広がっていくようなところがありますが、「役割」というとはっきりします。
 「それは私の役割ではありません」といえます。
 反対に、“責任”といわれると、「責任逃れ」という言葉の悪い印象から
 「私の仕事じゃないけど、道義的には申し訳なく思わなくては・・・」となってしまう。
 
 
 「自分のことじゃなくても、人としては責任を感じるのが正しいんじゃないのか!」なんて、怒る教師や上司もいたりする。悪用する人も出てくる。
  まさに、「関係性の個人化」を表すような言葉です。

 

  実は「罪悪感」という言葉には、“責任”が裏に潜んでいる。
 “責任”が潜んだ「罪悪感」には終わりがない。無限に広がって、終わりなく自分を責めてくる感じがあります。

 

 でも反対に「役割」であればどうか、といえば、そうしたことが少ない。限定的です。
  

 対人関係で、「罪悪感を植え付けてくる」ような人がいても、“責任”という観念を当たり前としていると、「私が悪いのかも」「道義的に責任を引き受けなければ・・」と考えてしまいますが、「役割」といえば、「相手を気分良くさせるのは私の“役割”ではない」とピンときます。立て直しやすくなる。
 

 

 また、“責任”は無限定であいまいなために、反対に具体的な機能が果たされていない場合にも、そのことが気づかれにくい。

 例えば、「親の責任」というと、ほとんどの親は「親の責任を果たしている」と漠然と答えたり、子どもを思っていれば、責任を果たしたことになる、と自己愛的にとらえる人も出てきます。
 しかし、具体的に「ちゃんと役割を果たしているか?」と問われると、怪しくなってくる。

 「役割」とは、機能不全家族でいう、「機能」という言葉に近いですが、具体的であるため、何が欠けていて、何が欠けていないかが確認しやすい。
 “責任”だと、ふわっとして、訳が分からなくなってくる。

(参考)→<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 「役割」というのは、物理的な量感、身体感覚を伴った言葉であるため、それが実際背負える量に対して、過大であることも感覚的にわかりやすい。具体的で、等身大で、個人が何をしなければいけないかが明確。場によって生じ、場を離れればなくなる。時間が経てば自然となくなります。

 

 “責任”というと、とても自己愛的で、空想的な言葉で、自我肥大するかのように、過大なものを背負っていても、違和感なく受け取ってしまう。またプライベートとパブリックとがあいまいにもなりがち。場が変わってもずっと呪いのようについてくるような概念。時間がたっても消えにくい。
 

 

 「法律に違反したという場合は?」というと、それは法令順守という市民の「役割」を果たさなかったということで、それに付随した罰則が来る、という理解になります。

 

 
 このように考えると、“責任”なんて言葉はまったくいらない(明治以前にはなくても困らなかったのですから)。
 「愛」と同じで、人間にはまったくサイズが合わない。おそらく、それは、神様しか使えない言葉です。

 (参考)→なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 私達の世の中には、人間の身の丈に合わないために、私達を苦しめる結果となる言葉、概念がいくつかあり、“責任”もその一つ。
 私たちはよりよく生きるためには、必ず等身大の身体感覚からスタートする必要があります。
 

 

 私たちが生きていく上では、“責任”という言葉は棄て、「役割」を採用することが大切。 

 

 “責任”という言葉が浮かんで来たら、「役割」という言葉に変換して、そして、「実際、今私の役割って何?」と確認すればいい。

 友達同士の付き合いなどの場面であれば、自分の「役割」などほとんどないことがわかる。
 「ゲシュタルトの祈り※」が、きれいごとじゃなくて、本当にそうだな、ということが実感できる。

 だから、「相手を不快にさせたかな?」なんて思いは全く浮かんで来ることがなくなります。

 

 「相手を気持ちよくさせるのは私の役割ではない」と。
 

 

 
 迷ったり罪悪感が湧きそうになったら、仕事でも、プライベートでも、自分の「役割」を確認する。
  
 
 そうすると、ニセの責任に振り回されることが少しずつなくなっていきます。

 

 

 ※ゲシュタルトの祈り  フリッツ・パールズがセッションの前に読み上げたとされる詩のこと

「われはわが事をなさん。汝は汝の事をなせ。わが生くるは汝の期待に沿わんがために非ず。汝もまた我の期待に沿わんとて生くるに非ず。
 汝は汝、われはわれなり。されど、われらの心、たまたま触れ合うことあらば、それにこしたことなし。もし心通わざればそれもせんかたなし」

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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循環する自然な有限へと還る

 

 「愛」やそれによって完成する「個人」とは、神様のみが達することができるレベルであるならば、人間にとって必要なのは、そういったものではない、ということになります。

 もともと人間に自然物、動物としてつながる能力はあるとすれば、「愛」や全体性など、無限の概念などは不要です。それは人生の旅が終わった後や共同体の神話としてあればいい。

 「でも、愛が必要ないってちょっと冷たいんじゃない?」と感じるかもしれませんが、
 先日も書いたように、特に日本では、「愛」は比較的最近広まった言葉で、それ以前は、「情」とか、「慈悲」とか、「恩」とか、「義理」とか、といったものであったわけです。
 私たちが生きる上では、“有限の”情や慈悲のやり取りで十分間に合う。

 

 有限のものは安全だし、楽しい。
 なぜなら、必要がなくなればなくなってくれるし、必要ならば自然に表れてくれるから。

 貸し借りの収支で計算してくれるから、非常に合理的。 
 

 反対に、無限のものは、非合理、理不尽。
 無限のものは病的で、おかしなものであることが多い。

 ギャンブル依存、アルコール依存症などに見られる、“無限の”欲求は、私たちを苦しめ、破滅に導きます。

 普通だったら、飲みすぎたら嫌になる。遊びすぎたら疲れて、飽きる。
 これが動物としては普通のことで、そうしてバランスをとっているし、飽きるから新しいことに興味がわいてくる。
 
 身体が健康であれば、また興味は自然とわいてくるもの。
 

 
 トラウマを負った人が感じる罪悪感も、“無限”
 どこまでも、自分を責めて、罪を償わないといけないような申し訳ない感覚に襲われ続ける。
 普通なら、嫌なことでも、寝たら薄れていって、だんだん飽きてくるもの。
 

 人との関係で苦しむのも、それが無限になってしまっているから
 どこまでも尽くさなければならない、どこまでも関わらなければならない、気を使わなければならない。
 一時の関係のはずが、更新されずにずっと続いていく。

 普通なら、関係は日々変わって(有限で)更新されていくものなのです。

 

 仏教でも「諸行無常」というように、
 人間をはじめこの世にあるものは、本来すべて有限です。

 そこに、無限の観念をかぶせようとしたり、無限だと思いたい、一つになってつながれる全体が欲しい、という心情が苦しみを生む、ということです。

 
 すでに、「情」とか「慈悲」とか、「義理」とか、自然で、便利なものがあるのに、そこに、「愛」という無限の観念や、スピリチュアルな「全体性」といったものをもってきてしまう行為は、実は、アルコールのように一時渇きをいやしてくれますけど、そのあと新しい苦がわっと襲ってくるだけ。

 無限が欲しくなるのは、自然物である自分自身を信じられないからです。

(参考)→「「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 孔子とか、ゴータマも、神秘的なことを聞かれても質問には答えなかったそうです。
 よくわからない、とか、敬して遠ざけよ、といってはぐらかした。
 それは賢者は、有限の人間にとって、サイズの合わない無限は害にしかならないと知っていたから。

 反対に、ニセモノは無限や絶対を謡い、神秘的なことに簡単に答えてくれます。無限の富、無限の安心、絶対の幸福、千年の繁栄とか、、
  

 有限なものというのは、良いものです。
 記憶も有限だから、嫌なことを忘れられるし、ストレスも消失する。

 
 トラウマなどの病は、代謝の循環がうまく働くなって、無限になってしまっている事から起きます。

 悩みを克服するためには、無限の概念に飛びついたりすることではありません。
 それではもっと苦しくなってしまうのです。

 悩みを克服するというのは、循環する自然な有限へと還っていくことです。

 

 

私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

トラウマを負っていて、愛着が不安定だと、安心安全がないために、「愛」を強く求める傾向があります。

 

家族に「愛」を求めます。
でも、家族からは「愛」は得られません。

 

なぜなら、前回描きましたように、愛とは、神にしか提供できなものだからです。人間には愛は提供できない。求めれば求めるほど、孤独や嫉妬、絶望を感じるようになる。

 

愛が得られないことで、怒りがたまります。
その結果、怒りが脳に帯電して、ショートしやすくなり、解離を起こしたりするようになります。

あるいは愛の代わりに「幻想」を求めるようになります。

本来の自分らしくは生きられなくなります。

その結果、また、自分を責めて、解離を起こして、を繰り返すようになります。

 

解決したいと考えて、医師やカウンセラーに「愛」を求めます。でも、治療者からも愛は得られません。

なぜなら、繰り返しになりますが、「愛」は神のものだから。

人間からは得られない。サポートするはずに医師やカウンセラーからも得られない。最初は得られる気になるのですが、結局は得られない。

その結果、「最低な奴ら!!役に立たない!なんで私に無条件の愛をくれないんだ!」といって、治療者に怒りをぶつけるようになります。
(「愛」が得られるというぬか喜びと失望(スプリッティング)、この状態をさして、境界性パーソナリティ障害と呼ばれます。)

世界最高の医師やカウンセラーからも、「愛」は得られない。

スピリチュアルのグルからも「幻想(ファンタジー)」は得られるけど、「愛」は得られない。

 

「愛」を求めてさまようことになります。

愛を求める一方で、あまりの生きづらさから誰ともかかわりを持たず、自分は自分として生きたい、という願望も持ちます。これもかなえることができない。

しかし、愛は求めれば求めるほど、孤独、絶望がやってくる。それは、神のみが可能なもので、人間にはスペックオーバーだから。
人類愛というように自分と同じ“人類”であることを前提として期待しますが、相手は自分と同じように考え、感じ、行動してくれません。すると、やがて、相手を「人間ではないもの」として排除しようとしたり、人間以下のものとして支配しようとすることになります。結局、孤独に陥ってしまいます。

 

こうした状況を越える方法として、何か人間を越える全体とつながろうとするアイデアが出てきます。それがスピリチュアルなどが唱える「全体性」の概念です。

 

残念ながらこれも、実現することはかないません。それらも結局、人間がこしらえた、作り物の概念でしかないものだからです。人間が作り上げたものなので、多様性をそぎ落として単純化したものを至上の概念としているだけ。

 

「愛」が別の概念にすり替わっただけです。スペックオーバーのものを戴いてしまうと、結局孤独や排除、支配、そしてそれを癒しごまかすための「幻想(ファンタジー)」という循環に陥って問題は解決しないのです。

「全体性」は、個で生きることを求めて行き詰まった先に登場してくる、全体主義と似た精神構造からくる願望でしかなく、結局、待っているのはニセ神様で、そこで支配されることになります。幻想を提供されて、解決からは遠ざかってしまいます。結局、幻想が覚めたら孤独であることに気づくことになります。
(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 

実は、この人間の本質にかかわる問題では、カウンセリングの始祖ロジャーズも手痛い“敗北”を喫しています。

来談者中心療法で注目を浴びていた気鋭のロジャーズが、哲学者マルティン・ブーバーと対談したときのことです。
ロジャーズは、個としての人間には無限の成長可能性があると熱弁しますが、ブーバーには全く響きません。

それどころか、ブーバーは「人間が個として発展していくことは、ますます人間らしさを失っていく」とします。
ブーバーは、「私は個人(indibidual)ではなく、人間(persons)の見方だ」といいます。
ブーバーにとって人間とは、個ではなく、世界とともにある存在、出会いや関係によって存在するものだと考えていたためです。

 

 前回の記事でもメカニズムを書きましたように、近代の仕組みの根底にはキリスト教がありますが、キリストが理想としたことは神との直接のつながりを通じて個として完成することです。しかし、それはあまりにも理想が高すぎて、凡人には届きません。すると、私たち人間は「愛」を求め、個として完成しようとすればするほど、人とつながることができず、孤独へと陥ってしまう。これはD・H・ロレンスなどが提起した問題ですが、同様の洞察をブーバーも感じていたと考えられます。結局、人間は関係の中にあるものだと。

 個人主義が成熟したように見える欧米でも純粋に個人で生きれているわけではないようです。
(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 

 

社会的ひきこもりで知られる心理学者の斎藤環氏も、ロジャーズの理想はまさに、全宇宙と自己との調和を目指すニューエイジ的なビジョンそのものとし、「真空の中でも生きられる「個人」という存在の価値を至上のものとして、その個人の空間を侵害する外敵を徹底して排除しようとする。言い換えるなら、個人の無限の可能性は、世界とのかかわりなくしても成立するという信仰」であるとしています。 さらに、「「ひきこもり擁護派」の人たちがあれほど頑迷なのかがわかってきた。」「彼らは自覚なきロジャリアンなのだ。」と人間を理想的に捉えて柔軟性を欠く援助者を批判しています。

 

 自身がロジャーズ派であると自覚がなくても、現代のカウンセリングや自己啓発などの基礎はロジャーズの思想が土台にあります。そのロジャーズ自体、存命中に寄せられた様々な疑問(なぜ、受容するだけでクライアントは成長できるといえるのか?など)に対して結局、有効な説明、証拠を提供できないまま亡くなっていきました。日本ではあまり自覚されていませんが、カウンセリングはその基礎自体が危うい前提の上に展開されている部分があって、そのことも理解したうえで用いる必要があるのです。

 自己啓発とか、ポップ心理学、スピリチュアルなどが唱える、煩わしい人間関係をすべて断って、「個」として本当の自分を見つけて成長し、無限の可能性が開花する、といった理想はどうやら実現が難しいようです。それどころか、孤独に陥ったり、かえって支配され生きづらさが増す反動があるということです。

 半世紀近く前から、識者からはすでに指摘されて、そして、ある程度決着がついていたことですが、一般の私たちのところにはなかなか届いていない知識です。届かないまま、右往左往させられて、ということが起きてきました。

 

 実は、愛、全体性といった、壮大な概念や理想などなくても実は私たちは人とつながり自分らしく生きていくことができるのです。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

虐待とまではいかなくても、なぜ、親が子に、理不尽なことをするのでしょうか?

 

最近分かってきている仮説としては
どうやら、動物でも、育児放棄や子殺しといったことが見られるように、人間も含めて動物には、養育のために親子密着するベクトルと、自立やさらなる繁殖のために離れるベクトルとを両方持っているようです。なので、子どもを遠ざけたくなるような気持ちも自然とわいてしまう。

通常は、そのベクトルとの葛藤を、親という公的役割が統合して、子育て~自立までが成立していると考えられます。

 

さらに、人間に特徴的なこととして、複雑に発達した脳はショートしやすく、すぐに解離を起こしまうことがあります。感情が発散できないことで側頭葉が充血してイライラしたりもする。自分がイライラしている原因を目の前の人に帰属して”因縁もつける”。
(自身が不安定な養育環境に置かれてきた場合はなおさらのことで、発達障害などは生まれる前の環境が不安定で、そのためこうした現象をより強く起こしやすくなります。)
自分が神化したような錯覚を起こして、他者を罰したり、排除したりすることを当然と思うようになる。閉鎖的な空間ではそれが起こりやすくなります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

他の犯罪と同様に、残念ながら、虐待自体はなくならない。人間の特性を理解したうえで、悲惨なことが怒らない環境を作る、ということが対策となるようです。

 

 

もう一つ、とくに現代人にとって厄介なのは、「愛」という概念の存在です。
現代の私たちが「愛」としているものの根拠はキリスト教にあるとされます。日本人にとっては、「愛」は外来の思想なのです。

昔の日本人には、「愛」は今のような意味ではなく仏教用語で執着を指すような言葉だったようです。戦国時代にキリスト教が入ってきたときには、「御大切」といった訳が当てられたそうです。人が人に施すものは、日本だと「慈悲」「情」とかそういう言葉が相当するものだと考えられます。

 

キリスト教の愛というのは、公式にはアガペー(神からの愛)ということなのですが、神の愛というくらいですから、人間にとってはかなりハードルが高い。スペックが違いすぎる。

 

人間が実行しようとするのは、素人がプロ野球選手のユニフォームを着てその気になるといったようなもので、能力は伴わず、幻想の中でその気になって酔う、といった状態に陥ってしまいます。

神の愛だから人間には無理だ、とわきまえればなおよいのですが、人間なら愛があるべきだ、と考えられるようになったため、愛のあるふりをして、さらにそれを建前に相手を裁いたり、支配したり、ということが横行するようになりました。

親も子供に嫉妬したり、兄弟間でえこひいきしたり、感情のままに理不尽にふるまうことは当たり前にあります。
それらを「愛」で糊塗するため、親本人も自身の行為の理不尽さや横暴さに気がつきません。

さらに、それを受け入れない相手を「(愛を受け入れないから)人間ではない」として責め立てるようになります。
これが、ストーカーもそうですが、現代のいじめや虐待、ハラスメントの背景にある心性と考えられます。

実際、宗教戦争や人種差別など、自分の考えを受け入れない相手を「人間ではないもの」として排除していった歴史とも重なります。人種差別などは虐待の究極のものですね。

 

なんといっても、ヤハウェとは「熱情の神」「嫉妬の神」(英訳では、Jealous God)という意味ですから、自分のいうことを聞かない相手にはとても苛烈です。
もともと神は嫉妬の塊であったのですが、キリストの唱えた「隣人愛(人類愛)」のおかげで、民族宗教から普遍宗教へと成長することができました。
ただ、「愛(人類愛)」でくるまれていても土台は嫉妬、不完全な人間が扱う場合、地金が現れて格段に残酷な性質を帯びてしまいます。その愛が通じなければ、「人間じゃない」ということになってしまうのですから。

 

親子の例に戻ると、理不尽さ(ハラスメント)を受けた子にとっても、「愛」という概念の影響を振り払うことは難しく、自身も「本当は親は自分を愛してくれているはず」という幻想に入ってダメージを癒さざるを得なくなります。
そして、自身も「愛」を盾に解離して、人を裁く側に回ってしまうことにもなります(ハラスメントは連鎖する)。

 

 

「愛」という概念がなければ、もっとシンプルです。

子どもに対して不適切な対応の親がいれば、「親としてなっていない(役割を果たしていない)」と捉えればよいですし、子どもにとっても「お父さんお母さんは、自分を大切にしてくれない」という認識で済むわけです。

自然と、親を「機能」としてとらえ、変な幻想は入りにくい。

 

親子の関係以外の問題でも、あてはまります。

私たちは、人とのつながりを求めます。
そこに、そもそも人間にはスペック過多の「愛」を持ち出すと、他者と自分との違いに絶望して、孤独に陥ってしまいます。合わない人は徹底排除、そして自分も支配、過干渉される恐れがぬぐえません。
(愛を持ち出せば持ち出すほど人同士はつながれず孤独になるパラドックスは、イギリスの作家D.H.ロレンスなどが指摘しています)

反対に、「愛」という概念を持たなければ、そもそも異なる人間をありのままにとらえやすくなるし、解離して幻想に入りづらくなります。

親子だって、情の水準が下がることもあるし、愛想が尽きることもある、それらは健全なことです。
血のつながっていても気が合わず、理解できないことは多い。そういうもの。

ただ、公的人格として親の役目は果たす。

「愛」とは言わず、情けや慈悲でお付き合いをしていれば、親子はもちろん、人同士はつながることができ、人間らしくいられそうです。

私たちにとっては疑うこともない言葉ですが、「愛」とは、実は外来の概念で、もたらす反動も大きいことを知ることもとても重要です。