ローカルルールとは何か?

 最近、何年もかかってようやく自殺したお子さんの死の原因がいじめにあったことが認定された、というニュースを耳にしました。

 別のニュースでは、いじめの認定をされた後に学校側が不服を申し立てる、といったこともありました。

 一般の感覚からすると信じられない、と感じるような出来事ではないかと思います。

 

 

 ただ、実は、こうしたことは珍しくなく、実際にいじめがあっても教師、生徒、他の保護者たちが、いじめを強硬に認めない、ということはしばしば起こります。

 一般常識としては「いじめは絶対にいけない」と思っていながらも、教師や保護者たちもいじめられる側に問題があると疑いもなく思っていたりする。

 いじめ研究でしられる社会学者の内藤朝雄氏の著書にも、そうした教師の声が紹介されています。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 常識と、現場とのずれは、なぜ起こるのか?
 その秘密は、「ローカルルール」という存在にあります。

 

 

 ローカルルールとは、規模の小さな共同体のルール、ということを意味するのではありません。
 (かつては、ナチス、中国やカンボジアなどの共産党政権のように国や地域全体を覆うような規模の大きなものもありました。) 

 

 ローカルルールとは、「公的規範のフリをした私的情動」を差します。

 

 不全感を持った人たちが、自分の不全を埋めるために、自分たちのネガティブな私的情動を「これこそがルールだ」「常識だ」として、他人に強制することです。

 

 

 公的規範、常識のフリをしていますが、あくまで私的情動にすぎないので本当はもろく、穴だらけです。自らだけでは「I’m OK」を成立させることができない。  

 

 そのため、ローカルルールが「I’m OK」であるためには、生贄や敵が必要になります。それは他者を「You’r NOT OK」とすることで、「I’m OK」を成り立たようとするのことです。

 

 その”他者”とは、いじめの被害者であったり、被差別者であったり、資本家とか旧体制の社会層、といった人たちです。

 

 被害者とは被害者にされるに足る要素があるのだ(≒自業自得の部分がある)、というのはそれ自体がローカルルールの考え方で、被害者は誰でもなりえます。
 被害者と加害者が容易に反転する、というのはよく知られていることです。
 (例えば、藤子不二雄の「少年時代」という自伝的なマンガ(映画もあります)でも、いじめっ子が終盤では無視され、いじめられっ子になる、というものでした。)
  
 

 

 

 ローカルルールは、家庭や学校、会社など常識から隔絶されやすい閉鎖的なコミュニティや、歪な人間関係あるいは伝統が揺らいだ不安定な社会、時代では生じやすいとされます。

 いじめというのは伝染していきますが、いじめを行う子供には、やはり家庭などにストレスがある、という指摘があります。
 家庭へのストレスは父が会社から持ち込んだものであったり、夫婦の不和であったり、といったもので、そうしたストレスに晒され、不全感を持つことで、解消先として私情を学校で発散し、それを「常識だ」としてコーティングして、ローカルルールが生まれるのです。

 

 ローカルルールとは、加害者側が、自分の不全感を癒すための行為(未熟な自己治療)ともいえます。

 

 

 職場では、経営者や上司がある種の自己愛の不全を抱えていて、それを解消するために、私情をもっともらしい形に変えて従業員や同僚に対してぶつけ、おかしな文化が形成される。
 例えば、自身がコンプレックスを感じるような人物を「仕事ができない」として攻撃したり、人それぞれの仕事の仕方を価値がないとしたり。
 (愚痴を言わない、口応えしないことを美德して、休みなく働かせる、といったようなこと)

 

 家庭でも、夫が自分の不全感を解消するために、家事や育児にケチを付けたり、自分の価値観からおかしなルールを家庭内で敷いたり。
 妻が自身の不安を解消するために子どもを縛り「あなたのためよ」と過度に干渉したり。

 これらも、私情を「常識だ」とすり替えたローカルルールです。
 
 

 ローカルルールとは、ローカルなルールであることが問題なのではなく、私的情動を公的規範と偽ることが問題です。

 

 ローカルルールが起きるコミュニティでは、必ず機能不全が生じています。
 

 「機能」とは、公的な役割を代表することを言います。
 さまざまな役職には、本来期待されている役割というものがあります。

 校長なら校長の、社長なら社長の、父親・母親なら親としての。
 コミュニティによってその内容はさまざまであっても、要素は共通するものがあります。

(参考)→「夫婦、恋愛の悩みも「機能」として捉えれば、役に立つ

 

 

 本来は「機能」を通じて「公的な環境」が現場でも実現することになります。
 各役割とは公的な環境の「代表」であり、「窓」とでもいうべきものです。

 しかし、本来行うべき機能が果たされずにいたり、おかしな理屈で機能が曲げられていたりすると、機能不全となり、公的な環境の光が届かず、ローカルルールを牽制することができなくなります。

 湿気が多いところにカビがはえるように、ローカルルールもはびこりやすくなります。

 
 
 ローカルルールと、常識や社会通念と呼ばれるものとの違いは何か?

 それは、

 ・常識が多元的であるのに対して、ローカルルールは一元的であること
  (善悪が変にはっきりしている、“人それぞれ”ということが受け入れられない)。

 ・常識は諧謔(ユーモアが)があるのに対して、ローカルルールにはそうした余裕がない。ユーモアとは、謙虚と敬意のブレンド。
  (妙にまじめで、堅苦しい)

 ・常識は有限であり、学習、更新されるのにたいして、ローカルルールは代謝がなく無限のもの。
  (「あなたみたいな人はどこにいっても通用しない。いじめられ続けるのよ」といったセリフに代表される)

 ・常識が身体感覚的であるのに対して、ローカルルールは頭が中心。
 
 といったところにあります。

 

 

 ローカルルールと常識との区別はさほど難しくありません。
 普通であれば、感覚としてわかります。

 

 ただし、ローカルルールは、感染力があり、それを内面化してしまうと、
 そのコミュニティ内では、そのおかしさを感じることが難しくなります。

 

 

 実際に、いじめが起きている現場では、冒頭で紹介しましたように、教師や、他の生徒や保護者までが頑なにいじめを否定したり、学校を守ろうとして署名活動までしたりする、といったようなおかしな現象がしばしば起きます。

 

 

 人間というのは、一般的にヒューリスティック(いくつかの情報に代表させて)に判断を行う。例えば、おかしいと身体感覚で感じても、「あの人が賛成しているなら、大丈夫だろう」とか、「これだけたくさんの人が賛成しているなら、私のほうがおかしいのかも」といったように、権威や量で判断する性質がある。

 ローカルルールとは、こうしたヒューリスティックな判断という習性に悪く乗りかかり広まっていきます。

 

 詐欺やねずみ講なども、そうした性質があって、実は信頼できる人(知人、名士など)からもたらされることが多い、といわれます。
 (直感的にはおかしいような気がしても、それを打ち消すような信頼感、“実績”や雰囲気があるので騙される)

 

 学校や職場や家庭などは、価値観が一元的になりやすいために、ローカルルールが生じると感染しやすく、判断も混乱させられやすい。

 

 

 一方で、警察が介入したり、法律的に処断されると(公的な環境が入ると)、ローカルルールは沈静化していきます。
 (自尊心も絡んで判断基準を何重にも狂わされたりしている場合、影響力は強く残り続けますが)
 

 

 

 また、心身のコンディションが低下していると感染しやすい。
 心身のコンディションとは、安心安全の確保のことで、睡眠、食事(栄養)、運動を指します。
 マインドコントロールや取り調べなどにおいて、眠らせない、食事や運動を制限する、のはなぜかといえば、そのためです。
 

 

 

 

 通常の人間関係、1対1でもローカルルールというものは生じることがあります。心身のコンディションが良ければ、影響されることは少なく、常識的な直感によって避けることができます。ある種の「ユーモア、ツッコミ」でキャンセルすることができます。

 
 しかし、ローカルルールによって支配される側に、
  「この関係を壊したくない」
  「見捨てられたくない」
  あるいは、
  「自分はおかしいと思われたくない」
  「認められたい」
  といった感情があると、関係を壊したくない、離れたくないことが優先され、ローカルルールが維持・強化されてしまうことになります。
 
 そうした心情をうまく利用されてはびこることになります。
 

 

 では、ローカルルールの影響から逃れたり、ローカルルールが活性化させないためにはどうすればよいのでしょうか?

 ここでのポイントは2点
 1.「安心安全の確保」

 2.「関係(常識、公的環境とつながる)」ということです。

 

 

 1.「安心安全の確保」とは、まずは睡眠、食事、運動をしっかり確保ことです。 これらを欠くと、対応がとても難しくなります。

 相手をはねのける力が身体のどこからくるかといえば、一つは副腎から分泌されるストレスホルモンです。
 その力が弱っていてはローカルルールをはねのけることは難しくなります。
 睡眠、食事、運動が制限されると途端に身体がストレスをはねのける力は下がり、解離しやすくなったり、判断力が低下したり、
 極端な場合は過労死といったような自体にも至ります。

 そして、あまりにストレスフルな環境からは距離を置く。

(参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 

 次に、2.「関係(常識、公的環境とつながる)」とは、問題となるコミュニティ以外の人たちとたくさん、薄くつながることです。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである」

 「間違った選択を同調圧力によって正しいと信じ込ませようとする」心理学の実験においてもローカルルールに対抗できた人は、頭の中で、友人・知人を思い浮かべていたと言います。つまり、外の関係とつながることができていたわけです。

 いじめにおいても、学校以外の趣味の世界がある子は抵抗しやすかったりします。
 

 

 職場のストレスで苦しんでいても、外の空気に触れて、気楽な人との何気ない会話に救われたり、といったことは私たちも経験することがあります。
 
 そうした外の関係とつながることで、「公的な環境」の光、空気が差し込んできて、それがローカルルールによって人格を全否定された自分の気持ちを“我に返してくれる”効果があるのです。

 
 本当の意味での常識というのは、私たちに抵抗する拠点を与えてくれるものです。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 

 その際に注意しないといけないのは、「家族や親」に相談したりすることです。機能している家族は抵抗のための基地になりますが、機能していない「家族や親」は、常識の参照元にはなりえない。

 もし、ご自身がローカルルールに影響されやすい場合は、ストレス障害(≒トラウマ)を抱えているケースがあります。
 そのトラウマの原因というのが、家族であったりすることがあるのです。

 

 家族は味方のフリをしているだけで、実は暴言、悪口というストレスを浴びせられていたり、過干渉によって「あなたは何もできない」というメッセージを投げ続けられていたり、といったことはよくあります。
 なぜか妙に自信がない、自分がない、という状態にさせられてしまいます。

 外での悩みを家族や親に相談しても、「あなたにも問題がある」といったような余計なアドバイスで苦しめられます。
 これも結局は、親の私情を常識のように騙って“アドバイス”としているローカルルールでしかない。

 

 

 このように、家族(場合によっては友人なども)が真に味方ではないことはとても多い。彼らも、不安定な自己愛、恨み、嫉妬、支配欲といった不全感を抱えていたりするからです。

 家族など身近な人がもたらすストレスによって内的、外的な「安心安全」を奪われてきたために、外で遭遇するローカルルールに抵抗する力が低下ししてしまっているのです。

 

 

 もう一つ注意が必要なのは、ローカルルールに、ローカルルールで対抗しないこと。
 具体的には、例えば、自己啓発やスピリチュアルなものに気を付けることです。それは、(もちろん、本当に良いものもあるかもしれませんが)、それ自身も単なるローカルルールでしかないことも多く、ローカルルールから抜け出すために、別のローカルルールに移る、といったことにしかなりません。
 そこには、やさしそうだけど実は支配欲のあるグルが待ち構えているといったケースや、メンバー同士が競争的な場所だった、なんてことは珍しくないことです。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 

 別のローカルルールに頼ってしまうケースで多いのは、ローカルルールと常識との違いに気が付いていない場合や対人恐怖や社会恐怖を植え付けられてしまっている場合。

 
 ローカルルール=社会と捉えてしまっているので、社会というものへの恨みを持ってしまって、戻るべき場所がなくなってしまっているのです。

 社会という足場を奪われて、反対に恨みを向けさせられているのもローカルルールの恐ろしさとも言えます。

 でも、ローカルルールと、社会とは全く違う、ということ。ローカルルールと常識とは全く別物であると知れば、恐怖からも自由になれる。

 ローカルルールから抜け出すためには、常識の力、公的な環境が必要。
 造花と生花が全く異なるように、その深さ、多様性は比べ物になりません。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 
 私たちがローカルルールを活性化せないということは、自然の環境保全とも似ています。
 

 水や栄養を確保したり(安心安全)、
 光が差し込んだり、よい空気が循環している(公的な環境)。

 そして、多様な植物、生物、微生物が存在していてバランスが取れている(関係)。 何か特定のものに偏ると、変化に弱くなります。

 

 代謝があって、循環している。それぞれが機能を発揮することで、住みやすい環境が作られていきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

 

ただ、そこに存在すること(Being)

 

 前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。

(参考)→「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」 

 

 

 カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。

 
 私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
 イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。

 自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。

 

 
 理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。

 

 心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
 それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
 
 それは確かにある。筆者も経験することです。

 

 かなり重篤なケースなのに、
 「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。

 そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
 

 それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
  

 

 

 クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。

 それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。

 そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。

 

 養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。

 「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
 でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。

 それではとてもやりきれない。

 

 ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。

 

 

 では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか? 

 ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。

 そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
 

 
 「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?

 それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。

 

 

 悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。

 「そこに存在する」ということができなくなる。

 何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。

 

 
 「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。

 エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」 

 

 ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。

 

 

 「トラウマ」もそう。

 トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。

 
 非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。

 そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。

 そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

 悩みにある人は、
 「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。

 例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。

 

 
 「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。

 機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。

 何かをしなければいけない。と思われたりする。
 

 

 

 
 「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。

 それは、

 1.安心安全が脅やかされる

 2.(公的な)関係・役割が切られる

 3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
 
 
 ということ。

 それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。

 

 安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
 身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
 

 安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。

(参考)「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 

 責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。

 

 といったようなループに入ってしまう。

 

 

 本来は、

 1.安心安全を感じている
 2.(公的な)関係・役割がある

 ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。

 (参考)→「常識、社会通念とつながる

 この場合、3.は無責任であること  とすることができるかもしれません。
  

 

 カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
 良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
 
 イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
 
 

 

 近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、

 1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
 2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
 3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)

 という要件が整っているからと考えられる。
  
 

 このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。

 クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。

 

 
 ある種のセラピーや自己啓発でも、
 「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。

 

 1~3を整えるためには、まずは、

 1.安心安全を確保すること   
   具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 次には、
 3.無責任であること(免責されること)

   ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。

 そして最後に、
 2.(公的な)関係・役割が回復する
  
   公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。  

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

   
 責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
 それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
 分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
 

 安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
 (実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 自分はダメだ、自分はおかしい、と思わされていると、自分の感覚というもの、ガットフィーリング(腑に落ちる感覚)というものを感じることができなくなってもきます。

(参考)→「自分は本質的におかしな人間だ、と思わされる。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 自分の感覚、というと何やら難しい、修行しないと感じ取れないもの、と思うかもしれませんが、そんなむずかしいものではありません。誰でも感じているもの。

 

 普通、何かを目の前にしたときに、「ハラ(腑)に落ちない」というときはやる必要がない、あるいは、もう少し待ってみる、ということであり、「ハラ(腑)に落ちる」感じがあるなら、やってみてもよい、ということ。

 

 自分はおかしい、とおもわされていると、「ハラ(腑)に落ちない」という感覚を不調やうつ状態と勘違いして無視されてしまい、自分の体に鞭を打って、やる必要のないことをしてしまったり、ということが生じます。

 

 本当は、ゆっくり待っていればいいだけのことなのに、不安からソワソワして、必要のない動きをしてしまう、なんていうことも生じます。

 

 筆者も昔、常にやる気があってワクワクしているのがあるべき姿だ、と勘違いしていて、ピンとこない自分の感覚を否定していたことがありました。それでずいぶん、しなくていいこと、余計なことばかりしていた痛い記憶があります。)

 

 自分の感覚を否定・無視して努力を続けると続かず、その結果、「学習性無力症」のようになってしまって、本当に機会が来て動くべき時に動けなくなってしまいます。

 

 本来、自分の感覚を信頼するための練習が、親子での適切なコミュニケーションになります。子供の感覚について、親が感じ取って言語化して、フィードバックを繰り返すことで、子供は自分の感覚を信頼できるようになる。
 「おなかがすいた」と体が訴えているのに、「だからお前はダメなんだ、寝なさい!!」みたいに返されると、自分の感覚を信じることができなくなってしまいます。

 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 大人になると親とのきずなを内面化していますから(内的ワーキングモデル)、愛着が不安であるというのは、言い換えると、自分の感覚を信じられないこととイコールです。

 

 

 トラウマを負っている人ほど、自分がおかしい、という呪縛を超えて、自分の感覚を信じる、ということが大事。偉い人の考えだとか、占いだとか外に答えを求めていると、それがなかなかうまくいかなくなる。
 

 

 乱暴に言えば、
 胸から上のソワソワはニセの感覚、
 腹から下の落ち着いた感覚は本来の感覚

 としてみる。

 頭の中で「~~しなければ!」というのは、だいたいニセの感覚です。

 

 自分の感覚を信じるというのは、「今の自分は、自分の感覚を感じ取れない状態にあるから改善しなければ」ということではなく、本当は問題はなく、そう考えていること自体がトラウマティックな症状なんだ、と思って、ただ、感覚を信じるようにすればいいだけ。
 よほど病的な状況でもない限りは、誰でも感覚は感じ取れていますので、心配いりません。

 

 

 世の中でこれが良い、これが流行だ、としても、自分がぴんと来なければ、自分がやることではないし、タイミングではないということ。
 例えば、「今は○○が流行だ」みたいなことが喧伝されているとしても、頭はソワソワするけど、腑に落ちる感覚がなければ、それは自分がやるべきことではない、あるいは、タイミングではない、ということになる。

 

 ネットとか世の中で一時的に有名になったり、これが新時代の生き方だ!といった人が出て、目立っているように見えても、実はその人自体がいわゆるトラウマを負っていて、自己愛性パーソナリティ状態であったり、胸から上で踊らされているだけで、見た目だけよく宣伝されている、ということも多いのもトラウマティックな傾向がある現代社会というもの。

 自分の願望が実現しました!として有名になった人のその後を追跡してみると、消えていたり、実はトラブルになっていたりすることも珍しくない。
 

 

 実質のあるものしか長く残れない(一時的には実がなくても急激に消費される場合があるが)、ということが社会の裏ルールで

実質がちゃんとあるのに自分には実質がないと暗示をかけられ、ソワソワしなくてもいいことをさせられいるのがトラウマを負った状態、といえるかもしれません。

 

 「自分がおかしい」という思いを捨てて、ガットフィーリングを信じられるようになってくると、そこが見分けられるようになってくる。

 自信をもって、「それは違うな」とか、「ああ、今は必要ない」といえるようになってくる。

 

 

 「仕事や学校の勉強みたいに、嫌でもやらないといけないことはどうなんでしょうか?」と思う方もいるかもしれません。仕事や学校の勉強のやる気も環境(や習慣)によって決まるとされています。
 
 言い換えれば、行動には、「安心安全+ガイド」が必要。
 自分が安心安全で、支持される環境があり、人生の先輩から手ほどきやガイドがあること。

 そうした環境の影響を内面化して、内側から沸き起こってくるものが「やる気」で、個人の気合というものではありません。仕事や勉強の方法などちゃんと教えてもらって、習慣化して、そうして自分の身体が動くのであれば、それは自分がやりたいことだと思ってよいと思います。

 

 周囲の環境が不適切だと上記のように「学習性無力症」となってしまって、「やる気が起こらない」という状態になります。梯子がないままに壁に上らされるようなもの。だから、一般的に言って家庭環境が良くないと「やる気」も起きないとされる。
 (実際、東大に進学するかどうかは、頭の良さで決まるのではなく、収入など環境で決まっていたりする。)

 
 もちろん、環境が整っていても、それに興味がない、という場合もあります。
 その場合は、その他の選択肢が向いているというケースでしょうし、

 あるいは、発達の段階は人それぞれですから、まだ、そのタイミングではないということが考えられます。

 

 適切な環境で習慣作りをして、機会を待っていると、勉強やその仕事がしたくなる、ということが自然と起きてきます。
 (ただ、放任ということではありません。ある程度は手ほどきを受けたり、周囲は関与をし続ける必要はあります。そうしないと判断のきっかけさえなくなりますので。その点では「一見嫌なことでもやってみることだ」という助言もその通りだといえます。)
 
 

 環境を整えてコツコツ日々を生活していて待っていると、機会がやってきて、湧き上がってくる感覚をもとに行動に移せる、というのは、人間にとっては本来的なスタイルなのではないかな、と思います。

 そのためには、「自分はおかしい」ということ自体が思い込まされていることではないか?ということに気が付く必要があります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「0階部分(安心安全)」の回復は問題解決の中核

 

 人間は、「0階部分(安心安全)」が欠如すると、それを補うために、さまざまな問題行動を起こすようになります。

 例えば、対人関係では、過剰適応であり、過緊張であり、回避であり、しがみつきであり、様々な防衛が働きます。

 身体的には、強迫行動や、依存・嗜癖、不眠、免疫不全、といったようなことも引き起こされます。

 

 これらは、「問題行動」、「疾患」とも言えますし、0階部分(安心安全)が欠如したために、心身が「非常事態モード」に切り替わった、つまり、「0階部分(安心安全)」が欠如した環境に適応した、とも考えられるのです。

 

 戦争、災害など社会全体が「安心安全」ではない環境であれば、それでよいのですが、(非常事態モード自体が臨時の「0階部分」となってくれる。) 実際の社会は平和ですから、自分だけが非常事態モードになるということは、結局は不適応を起こしている、ということになり、本人も、そして周囲も困ることになります。

 

 アメリカでは、戦争から帰還した兵士を描いた映画がいくつかありますが、そこで描かれているのは、自分だけ「0階部分」が「非常事態モード」から「安心安全」へと切り替わらずに、平和な日常とのギャップに苦しむ姿です。

 ずーっと緊張や過覚醒が続いて、落ち着いて何かを行ったり、人とうまく付き合ったりできなくなる。
  

 その結果か、あるいは要因の一つとして、「関係」が壊されてしまう。
自分の感覚と、周囲との感覚、常識があまりにも合わず、無理解の壁に苦しみ、自分は孤立を感じてしまうようになる。

 
 その苦痛を和らげるために、未熟な自己治療として様々な行動をとってしまうようになり、それが嗜癖とか、依存症とか言われるものだったりします。
 (リストカットとか、抜毛症とか、アルコール依存とか、ギャンブル依存とか)

 

 

 免疫機能もおかしくなってしまうために、自責的になって自分を攻撃したり、強迫的になったりします。

 その他、発達障害、ADHDなども様々な問題も、「0階部分(安心安全)」の欠如のゆえではないか、と考えられます。
 (発達障害の方が、反復するものが好きなのは、そこに秩序、安心安全があるからです。)

 

 

 ストレスの研究などでわかっていますが、人間(動物)というのは、急な非常事態に対応することはどちらかといえば得意ですが、長くだらだらと続く、日常のストレスには弱い。

 
 おそらくは、人間(動物)はモードが急に切り替えたり、適応することはできるのでしょうけども、反対に微調整(融通)がきかない。
 

 非常事態モードになった状態を、安心安全のモードに切り替えることが、なかなかできない。だから、皆そこで苦しむ。
 

 

 さらに、ほぼ、身体的な問題なのに、「心」の問題にされてしまい、その人の責任とされてしまう。

 「心」は、インターフェースであり、インプット、アウトプットの入り口にはなりえますが、原因ではない。
  

 

 

 心身が、非常事態モードから、「安心安全」へと切り替わるツボになる部分を探す必要があります。
 (ある理論では、そのポイントとなるものが「耳(声、音)」であったり、顔や喉の「筋肉」であることがわかっています。)

 

 「0階部分(安心安全)」の回復のポイント探しこそが、これからの臨床のメインテーマの一つとなるものです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「0階部分(安心安全)」

 

 以前、「関係」がどのように成立するのかについてまとめました。

 「関係は1階、2階、3階といった階層構造になっている」
 また、「私的領域では人間はおかしくなる、公的な領域こそが本来の居場所である」ということを見てきました。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 実は、これまで明らかにした関係や公的領域にはそれが成立する前提があります。

 それが、今回お伝えする「0階部分」ともいうものの存在です。

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、「関係」によって成立しています。
 そしてその「関係」とは、公的領域でなければ正しく機能せず、私的領域(個人の情動やローカルルール)にとどまった場合、嫉妬や支配といったおかしなものに堕してしまうようになります。

 

 ただ、こうしたメカニズムの以前に、カウンセリングをしていると、「関係念慮(妄想)」といった状況に陥って、周囲への不信や被害感情に苦しんでいる方に多く出会います。

 

 関係念慮というのは、特別に病的な人がなるものではありません。
 誰でも、体調が崩れたり、睡眠不足になったり、あるいは人間関係のストレスにさいなまれると、容易にそのような状態に陥ります。

 

 「周りの人が私のことをネガティブにとらえている。悪口を言われている気がする」
 「周囲がひどい人ばかり」

 といったようなことです。
 

 そのために、クラウド的な存在であるにもかかわらず、「関係」を構築できず、周囲とつながることができず、代わりに、家の中で嫌な家族やつらい過去の記憶とつながるしかなく、余計に苦しくなってしまう、ということが起きます。

 

 これは、トラウマを負っている方に多い傾向があります。
 (内分泌の疾患、発達障害の方などでも同じような問題が生じます)

 なぜ、そうした方に多く見られるかというと、それはトラウマを負っている方は「安心安全」が脅かされやすいためです。

 「安心安全」の欠如とは、身体的な不調、心理的には不安定型愛着に起因します。

 

 
 人間というのは、免疫やホルモン、自律神経によって、外的なストレスに対処しています。ホルモンなどが国境の壁や軍隊の役割をしていて、防御が利いている間は、その内側は平和でいられます。
 

 ボクシングでいえば、ガードしている状態。
 極端に言えば、どんなにパンチがきつくても、ガードしている間は、安全でいられますし、むしろ、打ってくる相手とガードのタイミングが合い、さながらダンスを踊っているかのように、心地よくさえあります。

 

 これが健康な人間の状態で、健康な人から見れば、
 「人間というものは信頼できる。社会とは安全なものだ」と感じられています。ストレスさえも、どこか心地よく感じられる。
 

 

 

 しかし、防壁が壊されたり、ガードのテンポが合わなくなると、ストレスをもろに浴びるようになります。

 物理的には同じ環境にいながら、途端に「人間とは信頼できない。社会とは危険なものだ」と感じられるようになります。

 これがストレス障害(トラウマ)というものです。 

 

 ※出産を基準にして、出産前にお母さんの中でお腹の中でのストレスでその防壁が壊されてしまうことを「発達障害」といい、出産後、環境のストレスで壊されてしまうことを「トラウマ」といいます。そのため両者の症状は瓜二つになるのですが、それはどちらもストレス障害だからです。ホルモンの失調でも似た状況になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

    →「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴~様々な悩みの背景となるもの

 

 

 
 同じコミュニケーションでも、防壁があるときは、肯定的なメッセージは、そのまま「肯定的なメッセージ」としてとらえれます。
 しかし、防壁がないとむき出しであるために、肯定的なメッセージも「否定的なメッセージ」として捉えられるようになります。

 

 むき出しですから、「周りはひどい人ばかり」となります。
 (臨床心理の世界では、「周りはひどい人ばかり」と訴えているケースは、強いストレス障害(発達障害)による記憶の断片化が疑われます。)
 

 

 相手が普通に送ってくるメッセージが正しく受け取れないわけですから、通常のやり取りができなくなる。「1階、2階、3階」とフィルタをかけながら積みあがていくように「関係」を構築できなくなってしまう。

 (参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 積み上げ=フィルタ式ではなくて、すべてを警戒するか(回避)、すべてを受け入れるか(接近)、といった極端な形になってしまう。

 

 このように、「0階部分」とは、心身の「安心安全」のことを差します。
 「0階部分」が関係を土台となって、私たちを支えてくれています。

 

 トラウマとまではいかなくても、睡眠、食事、運動が不足すると、私たちは容易に土台が崩れてしまいます。

 
  かつての警察の取り調べや、カルトの洗脳などでは、
  ・睡眠時間を少なくし
  ・食事を制限し
  ・自由に運動ができないようにする

 ということがセオリーです。そうすると、正気を維持できなくなるからです。

 小さなお子さんをお持ちの方はご経験がありますが、
 眠たくなると子供はわけがわからなくなる。
 特に、睡眠不足は容易に人間をおかしくするものです。

 

 

 身体的な健康が脅かされると、人間はだれでも妄想的になります。

  
 そのために、「0階部分」では、「身体」的な健康、安心安全が確保されていることがとても大切です。

 

 

 「0階部分」を整えるためには理屈よりも何よりも、まずは、睡眠、食事、運動から入る。

 睡眠をしっかりとり、栄養を整える。
 
 最近は、鉄分などの不足が精神の不調に大きく影響している、ということが指摘されるようになってきています。

 
 また、たとえばうつ病でも「運動」によって9割が回復するというエビデンスがすでにある(抗うつ剤では2割しか治らない)。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 それほどに「0階部分」は大切です。  

※いわゆる「愛着」というのは、「0階部分」のOS(オペレーションシステム)ともいうべきもので、ソフト面から「0階部分」の機能をサポートしてくれています。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 「0階部分」によって、わたしたちの「公的領域」、「関係」というものは支えられています。

 

 

 

 

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真の客観とは何か?

 先日も書きましたが、
 トラウマを負っている人は、過剰な客観性、を持っていることがあります。

(参考)「過剰な客観性」

 

 他人の意見はすべて客観的事実だとして真に受けて、どこまでも、自分を反省して、どこまでも自分を改善していかなければならない、とする姿勢です。

 しかし、やればやるほど、自分の改善すべきポイントは増えていき、決してなくなることはありません。

 改善するために自分の足場の土も掘り崩していくため、知らない間に、自分の自信は失われていき、最後にはエネルギー切れを起こして、調子を崩してしまうようになります。

 

 
 当人にしてみたら、
 「そんなことを言うけど、自分の主観と客観(人の意見)とを比べた時に、自分の主観を採用したら独りよがりになってしまう。独りぼっちになってしまう。できるかぎり、人の意見を採用して、自分を客観的により良くすることしかないじゃないか」
 と感じてしまいます。

 

 この考えには、生育歴の中で内面化された刷り込み(ニセの公的領域)があります。

 それは、「他人の意見を客観だ」としていること。
 

 

これが、その当人を苦しめている。

  これはどこからくるか、といえば、例えば、親や周囲の人たちが自分のエゴ、支配欲のために、自分の私的情動を「正しい客観だ」として強弁してきたことについてまじめさから真に受けさせられてきたことから。

 

 機能不全な親というのはとても多いのですが、その親の気まぐれや、わがままにすぎないものが、「あなたのためだ」など理由をつけられてで、正当化されている場合がある。

 

 「これはしつけだ、教育だ」「私の言うことは正しい、だから従いなさい(≒あなたはダメだ)」といったような形で内面化を強いられる。

 

 これは、ある種のハラスメント(ニセの公的領域)にすぎないのですが、ハラスメントにすぎないがゆえに、自分の考えを「客観的である」強く主張しなくてはならず、さらにそれを維持するために、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」ということが強調される必要が発生する。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 そうして、「他人の意見が客観である」と、すり替えられてしまうのです。

 

 

 これはホンモノの客観ではありません。

 人間の社会は、あらかじめ客観があるのではなく、主観の集まりにすぎません。そして、その主観はとても多元、多様です。
 

 もっと言えば、人間というお猿さんが、嫉妬や支配欲から、互いをけん制し合っているような状態が、それが社会のすがた。
 もちろんそれではだめなので、信頼などを醸成して、社会を築いていくわけですが、お猿さん同士の主観のぶつかり合いであることには変わりがない。

 それなのに、過剰な客観性があると、猿の鳴き声の集まりを「客観」だとしてありがたがって、自分を否定するようなことが起きてしまう。

 

 

 では、真の客観性とは何でしょうか?

 

 それは、他者の主観を真に受けることではありません。

 

 真の客観とは、安心安全を土台にして、「自分の主観」から出発すること
 (安心安全がない時、主観は歪み、関係念慮(妄想)に落ちていきます。)
 

 次に、身体を支えにして、ノイズをキャンセルしていくことです。
 
 
 すると、腑に落ちる(ガットフィーリングに合う)感覚を得ることができます。

 それが、真に客観的なことです。

 

 

 「自分の主観からスタートしたら、独善的になるのでは?」という不安があるかもしれませんが、安心安全を土台にしていて、身体が健康なときの主観というのは社会のネットワーク(社会通念、常識)とつながっていますので、多元的でバランスが取れていて、基本的におおむね誤ることがありません。

 

 人間というのはクラウド的な生き物、個人であると同時に、社会の表象でもある。だから、社会とつながる一人の芸術家が時代を代表する芸術を創造することができたり、 作家や哲学者が時代精神をカタチにすることができたりする。凡人でも、アンケート調査、統計などを通じて、輿論が明らかになったりする。

 

 

 一方、意固地、独善的、妄想的になってしまうのはどういったときかというと
安心安全の支えがない時や、身体が健康ではないとき。その際は、社会的なネットワークとつながることができず、原家族やハラスメントを負った過去とつながってしまい、独善や疑心暗鬼、関係念慮(妄想)におちいったりする。
 意固地な人を見ると、その人は明らかに、別の何かと戦って、自分を必死で守っていることが外から見てもわかります。

 

 主観からスタートするためには、「安心安全」がキーポイント。

(参考)→「「安心安全」と「関係」

 

 そのためには、心身を健康にしている必要が勿論あります。

 

 過去の記憶によって、「安心安全」を感じることができない場合は、カウンセリングの出番となりますが、その前に、食事、運動、睡眠、というのはとても大切だったりします。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 「安心安全」(愛着と健康)を土台に自分の主観を出発点として社会のネットワークとつながり、真の客観を捉えることができるようになるのです。

 

 

 

 

 

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本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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私たちは健康な状態にあるときは、ヒューリスティックに判断している

 

 私たちが物を買うとき、よく吟味をしているように見えて、かなりいい加減に検討して購入をしています。

 

たとえば、服を買うとき。

 縫製や生地の網目までしっかり見て決めているか?といえばそうではない。デザインが気に入り、サイズがあって、そしてお気に入りのブランドであれば購入を決定する。

 

高価な車でもそう。
 ドアの素材を分析したり、安全性能を自分で細かくテストして確かめたりはしない。デザインが良く、機能性があり、なにより自分が知るメーカーのものであれば、「大丈夫だろう」と思って購入を決定する。

 

 よく考えてみると、高い買い物であっても大雑把に決定している。「大雑把」といっても悪いことではなく、人間にとっては普通の健康的な行為です。

 そして、その決定は、当初の期待とおおむね合っている。だからそれでよい。

 逐一、詳細に検証していては労力がかかりすぎて意思決定ができなくなってしまいます。

 

 こうした意思決定のスタイルのことを社会心理学の世界では「ヒューリスティック」といいます。ヒューリスティックとは、代表的ないくつかの情報をもとに全体を判断することを言います。

 

 意思決定方略(戦略)といいますが、もし、人間がヒューリスティックに判断できないときはどうなるかといえば、モードが切り替わり、細かい情報を詳細に検討するようになります。そして、そこで納得すれば購買を決定する、ということになります。
 こうしたモードのことを「アルゴリズム」といいます。

 

 外出してウロウロしながら買い物している場合であれば、ヒューリスティックに判断できない段階で、多くの場合、「購入を見送る」という決断をすることになります。
 皆様も、服を買うときに、「良いけども、どこかピンとこない」というときは、結局買わないことが多いのではないかと思います。
 

 

 通常、私たちの意思決定はすべて、「ヒューリスティック」であるとされます。パソコンやスマホなど、スペック重視で、価格コムなどで比較をして買うような場合であってでさえも、品質の検証テストなどを自分でしたりはしないわけですから。レビューの点数や内容などを見て、だいたいのところで決定してしまう。

 

 このように、代表的ないくつかの要素で全体を判断するというのが人間です。それが、スムーズで、健康的な状態であり、細かくチェックしないといけない状態は、「困った状態」といえるのです。

 実際、住宅の建設などで手抜きがあって訴訟を起こしている「困った状態」の方を以前、TVで取り上げていましたが、ご自身で専門家を雇って隅々まで検査して、証拠を集める、ということをされていました。
 ヒューリスティックではないということは、まさにそのようなことをショッピングの都度しないといけない、ということです。

 

 

 トラウマを負っているというのもまさに「困った状態」で安心安全を奪われてヒューリスティックに判断できなくなっている、といえます。
 その結果、対人関係でも、だいたいで判断できなくなる。また、前回も書きましたが、100%の理解を求めるストイックなものになってしまう。
 (参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 健康な状態であれば、「だいたいで」「適当に」関係を結ぶことができます。でもそれができなくなる。
 相手と自分と違う部分を細かく見てしまって「この人はここが違う」「この人はこれがわかっていない」と厳しく見てしまう。

 「安心安全」を奪われてしまっているために、そうせざるを得ない。

 買い物でもそうですが、完全に自分に合う買い物などはそうそうない。既製品ですから。
 でも、「これはダメだ」「自分に合わない」「このメーカーはわかっていない」などといわずに、大体で満足しています。一致しているところだけを見て、合わないところは目をつぶっている。

 

 トラウマを負って(あるいは発達障害や内分泌系の疾患などで)「安心安全」を奪われていると、大同小異といったことができなくなる。

 たしかに、私たちは余裕があるときは細かなことは「よいよい」とおおらかですが、自分が不遇な状態にあるときは、他者やモノを疑ったり、こき下ろしてしまいがち。 

 

 

 対人関係でも、ヒューリスティックに関係を構築できないために、人とうまくつながることができなくなってしまうのです。

 

 対人関係においては、ヒューリスティックな判断をささえるものは、「身体的な感覚の一致」です。身体的とは、大きくは「ストレスホルモンの調整」によってなされます。テンションコントロールが自動的にされて、「ウマが合う」「気が合う」という状態にしてくれている。

 
 トラウマはストレス応答系(自律神経、免疫、ホルモン)を乱すため、身体が自動で一致をもたらしてくれず、頭でアルゴリズムに判断して、「この人はどうなんだろうか?」「どのように話せばいいんだろうか?」となってしまって、気持ちの良い関係が作れなくなってしまいます。

 

 前回も書きましたように、もし身体的な感覚の一致が作れなくても、「仕事」「用事」があれば、人間同士は付き合えます。「仕事」や「用事」がヒューリスティックなコミュニケーションの媒介(コネクタ)となるからです。電化製品などがない時代は、「仕事」や「用事」がそこらここらにあり、生きづらさは目立たなかった。
 芸人のように巧みな話術がなくても、人同士はそれなりに付き合えたようです。
 

 現代は「消費社会」ですから、付き合いの媒介となるものがなく(SNSでは代わりにならない)、実は人同士が構造的に付き合いづらい社会であるようです。

 

 

平凡な日常へ~生きがい、刺激を求める気持ちの先に解決策はない。

 

 「生きがいを感じたい」
 「仕事でもやりがいをもって取り組みたい」
 
 こうした感情は、トラウマを負った人にとっては心の叫びとも言えるものです。

 生きづらさから抜けるために、七転八倒、様々なことに試行錯誤しながら取り組み、あとから考えると、勇み足だったかも?と言えるようなこともありますが、もがきながら自分の道を模索していきます。

 

 

 トラウマが解消してくると、
 日常のふとした情景に幸せを感じたり、
 「あれ?このままでもいいんじゃないの」と少しずつ思えてくるようになります。

 

 平凡な日常の中にこそ、本当に幸せがある、そのように感じるようになります。 
 
 

 今現在もトラウマで苦しんでいる人からすると
「何言っているんだ!これまで生きてきた日常というのは、苦しくて、生きづらくって癒しでも何でもない!」と言いたくなります。

 確かにそうです。

 

 ただ、立ち止まって振り返ってみてみると、トラウマを負った人の生まれ育った環境というのは、実は「平凡な日常」ではなく、夫婦が毎日けんかしていたり、母親が過干渉をしてきたり、場合によってはひどい虐待など、あたかも「戦場のような環境」。「平凡な日常」ではありません。異常な状態を日常だと思わされてきた。

 

 
 その戦場のような異常な状態で負ったトラウマ、記憶の苦しみから抜け出すために、自己治療を始める人もいます。アルコール、摂食障害、恋愛依存、ギャンブル依存、仕事中毒といった依存症です。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 トラウマを追っていると常に緊張状態で落ち着くことができません。 生きづらさ、というのはどこにもやり場のない苦しいものです。
 極端な刺激や、目標の単純化などによって、一時的にリラックスを得ることができます。
 ただ、それしかなくなると、抜け出せなくなってしまいます。
   

 

 そこまでではなくても、「生きがい」「やりがい」といったDoing(行為)、Having(成果)を過度に求めることも起こります。 実は、「やりがいのある仕事」「生きがい」を求めようとすることも、トラウマティックな心の動きからくることです。
 度が過ぎるとパーソナリティ障害様の心性となってしまいます。

 ボランティアや、ネットワークビジネスにはまったりといったケースもしばしば見られます。

 

 そのままではひりひりするように生きづらい、
 それを何かに向けて代替しようという動きで、空回りすることも多いですし、うまくいっても、家庭が崩壊したり、人間関係を消費してしまい、別の苦を呼び込むこともあります。

 「戦場のような日常」を、「祭りのような刺激」で埋め合わせようとする。そうでもしないと自分が何者かわからない、ということです。

 

 特徴としては、「待てない」「動いていないと不安でしようがない」ということになります。

 

 

 こうしたエネルギーが外に出るとよいかもしれませんが、親からの過干渉や、社会恐怖、対人恐怖(発達障害由来の場合も多いです)などで足場を奪われると、引きこもりなどになってしまうこともあります。

 

 

 「戦場のような日常」からは一度抜け出す必要がある。

 ただし、それは「平凡な日常」へ、であって、「刺激的な祭り」へ、ではない。
 
 そこには、何もない。
 

 

 

 筆者が精神的にとても苦しんでいて、思い詰めているときに、ふとしてであった気楽なおじさんとの出会いの中で、安心・安全を感じて、癒された経験というのがあります。(あるいは、日常で出会う、野良猫や犬といったものに、そうした癒しを感じることもあります。)

 

 そのおじさんは、決して世の中で大活躍している人でもなければ、立派なことを言うでもありません。でも、物腰やしぐさの中に安心を感じる。 

 その方が人生を重ねる中で得た安心安全の経験を、その方の物腰を入り口としてこちらが感じ取っているのかもしれません。

 

 伊集院静の「いねむり先生」「なぎさホテル」などは、そうした平凡な出会いを感じ取れる作品かもしれません。著者が妻の死などの苦しい時期に、作家・色川武大などとの出会いのなかで癒されていく姿を描かれています。

 

伊集院静「いねむり先生」

 

 

 

 

 

 

 

 

伊集院静「なぎさホテル」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すごいカリスマや、大げさなセラピーなんて必要ない。存在は平凡であればあるほど良い。家族も平凡であるほうが良い。そもそもは自然というものも平凡。自然界の法則に従って同じことを繰り返すだけの存在。そこに安心、安全を感じる。安心、安全の先にこそ力が生まれる。

 

 もし今が本当に生きづらく苦しいなら、「戦場のような日常」から一時避難して、そこからまた本来あるべき別の「平凡な日常」へと帰っていくことこそ、実は心が求めていることだったりします。

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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