礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 前回の記事でも少し触れましたが、礼儀やマナーは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置と考えられます。

 人間は、私的環境に置かれるとちょっとした刺激で解離しておかしくなる性質がある。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 車でも、あおり運転が最近問題になっています。
 これも、私的環境が人間をおかしくしてしまう例です。

 車内という私的環境でちょっとした刺激に解離してしまい、乱暴な運転を行ってしまう。
 殺人にまで至ってしまうというケースもありました。

 バイクや自転車があおり運転する、というのをあまり耳にしないのは、やはり、空間的に外(公的環境)に開かれているためかもしれません。

 

 DVでも、外(公的環境)では紳士的な人が、家(私的環境)では豹変して暴言暴力をおこなってしまう。

 私的環境で問題を起こしてしまう人たちでも、公的環境では紳士的になる。そのくらい公的環境の力は強い。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 対人関係で理不尽な目に合わないようにする方法、簡単な魔法があるとすれば、それは、「礼儀」「マナー」ということになります。
 「挨拶をする」だけで、難しいコンディションの人でも公的環境の“制御”にかかる。

 

 以前、テレビでタクシー会社の社長が出ているのを目にしたことがあります。
その会社では、運転手にマナー研修や清掃を徹底している、と紹介されていましたが、その効果として、

「(暴言や暴力を働くような)お客様でも、こちらがマナーを良くしていれば、おかしくならない」

といったようなことをおっしゃっていました。

 

 確かに、クレーマーは、マナーの瑕疵を取り上げてケチ(因縁)をつけることが多いですね。裏返して言えば、マナーがしっかりしていると付け入ることができない、ということなのかもしれません。

 

 

 筆者が社会人になりたてで新人研修の時に、ある先輩社員が、挨拶の大切さを伝える例として、
「よく、TVで何か犯罪を犯した人について近所の人のインタビューがありますが、『いつも挨拶してくれて、良い人そうだったのにねえ』というのを耳にするでしょう?」

「本当にいい人かはわからないし、実際に犯罪を犯しているのに、挨拶をしているだけでそれだけ「良い人そうだった」なんて好印象を持ってもらえる(だから挨拶はとても強い力がある)」

 と教えていただいたのを印象深く覚えています。

 

 人に対して勝手に「あの人は~だ」とネガティブな感情を持つのは、まさに解離している、ということですが、「挨拶」という行為によって公的環境を作り出すことで相手が私的環境に陥って解離することを防止している、と考えられます。

 

 

 
 これだけ、効果が高い「礼儀」と「マナー」ですが、筆者もそうなのですが、トラウマを負った人の中には、そうしたものをどこか毛嫌いしてしまう心性があります。

 効果が高いのだからうまく利用すればいいし、使えばいいのにと思うのですが、なんだかウソっぽくて嫌だな、納得いかないな、という感覚です。
 

 

 それはどうしてか、というと、
 一つには、「礼儀」や「マナー」をローカルルール化してしまっている人たちがいて、その人たちからのストレスにやられてしまっている、ということがあります。

 例えば、マナーにうるさすぎたり、独善的に礼儀を押し付けたりという人たち。

 そうした人は、自分の不全感(「I’m NOT OK」)を癒すために、相手の些細なミスをつこうとしています(「You’r NOT OK」)。

(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。

 
 本来の礼儀やマナーというのは、相互に相手への「リスペクト」が背後にあるものですが、自信の支配欲や不全感をいやすための道具なので、相手への「攻撃(怒り)」や「侮り」がある。

 礼儀やマナーを盾に取っている間は、自分は絶対的な善でいることができる。
 その盾に隠れて、相手を支配して、自分を保とうとしている。

 礼儀やマナーを、ローカルルールとしてまさに悪用しているのです。

 

 

 別の例では、親が子供を支配する道具として、礼儀やマナーにうるさすぎる、という場合もあります。
 本当に子供のことを思っているのではなく、単に支配したいだけ。

 自分の私的情動から発した行為であることを繕うために、礼儀やマナーという建前を持ち出していることも多い。
 実態は、自分の気まぐれでしかないので一貫性がありません。そのため、人に対して厳しく、自分に対しては甘い、ということがあります。

 本当のマナーとは、強迫的なものではなく、相手へのリスペクトやユーモアがあります。
 なぜかというと、世の中は多元的であり、人それぞれ、であるからです。
 本来は世の中の多元性、多様性への橋渡しとしてマナーが存在しているものです。

 

 そのため、本当の礼儀やマナーは、相手を包摂するところがあります。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 反対に、悪用された礼儀やマナーとは、相手を侮り、攻撃するところがあります。 
 そうした環境に長く置かれると、「礼儀やマナー」というものにうんざりするようになる。
  
 相手の仕掛けてきたの呪縛を解くことにエネルギーを取られたりして、「礼儀やマナー」を肯定的にとらえて、気持ちよく使うことができなくなってしまう。

 

 

 

 二つ目は、過剰適応という問題。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 慢性的なストレス環境に置かれると、安心安全が奪われます。
 その結果、自分を守るために、過剰に環境に適応しようとしてしまう。

 結果として、適切に他者に合わせることができなくなってしまう。
  

 他人に気をつかったり、合わせたりすることに過剰になって、あるいはくたびれて過少になってしまうために、礼儀やマナーということに意識を向けることができなくなってしまう。
 「これ以上気をつかうのはもううんざり」という感覚になって、結果、うまくつかえなくなってしまうのです。

 

 

 三つ目には、
 これまでに挙げたようなことに加えて、「形式よりも心が大切」といった理想主義的心性も影響します。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 これは、機能不全な環境に長く置かれた結果、ストレスフルな現実というものへの反感、嫌悪から理想主義的になってしまい、そのため、人間関係においては「形式よりも、心が大切」という理想を求めるようになります。 
 (理想によって、つらい現実から自分を一気に超越させようとする、という面もあります。)
 

 
 ただ、実際には人間は形式が伴わなければ相互に理解しあえないため、自分が思う「心」は相手に通じることはなく、ただ形式を欠いて相手と通じ合えない、というつらい経験に直面することにもなります。

 そして、理想が敗れてニヒリズムに陥ることになり、結果、礼儀やマナーがうまく使えなくなってしまいます。

 

 

 このように、礼儀やマナーとは、世の中を生きていくための必須のプロトコル(手順)ですが、ローカルルールやトラウマティックな環境というものが、それらを自分のものとして生き生きと活用することを奪ってしまうのです。

 

 社会に出てから公的環境を維持するための最強のツールとしての「礼儀やマナー」をうまく使うことができず、理不尽な目に遭ったり、モンスター化した人にやられたりするようになってしまいます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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ただ、そこに存在すること(Being)

 

 前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。

(参考)→「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」 

 

 

 カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。

 
 私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
 イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。

 自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。

 

 
 理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。

 

 心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
 それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
 
 それは確かにある。筆者も経験することです。

 

 かなり重篤なケースなのに、
 「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。

 そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
 

 それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
  

 

 

 クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。

 それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。

 そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。

 

 養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。

 「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
 でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。

 それではとてもやりきれない。

 

 ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。

 

 

 では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか? 

 ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。

 そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
 

 
 「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?

 それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。

 

 

 悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。

 「そこに存在する」ということができなくなる。

 何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。

 

 
 「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。

 エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」 

 

 ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。

 

 

 「トラウマ」もそう。

 トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。

 
 非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。

 そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。

 そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

 悩みにある人は、
 「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。

 例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。

 

 
 「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。

 機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。

 何かをしなければいけない。と思われたりする。
 

 

 

 
 「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。

 それは、

 1.安心安全が脅やかされる

 2.(公的な)関係・役割が切られる

 3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
 
 
 ということ。

 それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。

 

 安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
 身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
 

 安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。

(参考)「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 

 責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。

 

 といったようなループに入ってしまう。

 

 

 本来は、

 1.安心安全を感じている
 2.(公的な)関係・役割がある

 ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。

 (参考)→「常識、社会通念とつながる

 この場合、3.は無責任であること  とすることができるかもしれません。
  

 

 カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
 良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
 
 イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
 
 

 

 近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、

 1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
 2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
 3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)

 という要件が整っているからと考えられる。
  
 

 このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。

 クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。

 

 
 ある種のセラピーや自己啓発でも、
 「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。

 

 1~3を整えるためには、まずは、

 1.安心安全を確保すること   
   具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 次には、
 3.無責任であること(免責されること)

   ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。

 そして最後に、
 2.(公的な)関係・役割が回復する
  
   公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。  

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

   
 責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
 それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
 分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
 

 安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
 (実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 真の客観とは何か?ということを書きましたが、

 もう少し具体的に言うと、私たちはどこで知るのでしょうか?

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、公的な領域にいるときは、常識や社会通念というものを無意識下で身体で感じ取って生きています。

 それがどこで表面化するのかといえば、「内側から」。とくに腸のあたりから湧いてくる感覚で具体化していきます。

 
 よく「腑に落ちる感じ」といいますが、まさにそんな感覚です。

 英語では、「ガットフィーリング」といいます。
 
 歴史上の王や武将なども、この身体感覚というもので判断してきたようです。 

 

 

 反対に、私たちが判断を誤るときはどんな時かといえば、「頭で考えた」とき。もっといえば、「胸から上の感覚」に頼った時。

 腑に落ちるのとは違い、そわそわ、ざわざわ、して落ち着かない感覚。あるいは、頭に血が上って過活動を起こしている状態。

 こうしたときは、ワールドワイドウェブ(常識や社会通念)とつながっているのではなく、ローカルネットワーク(私的情動)につながっている状態です。

 そのため、判断を誤り、失敗してしまう。

 

 

 

 親と子の絆を指す「愛着」というのも、まさに、この「ガットフィーリング」をはぐくむもの。お腹がすいたとき、眠い時、おしっこがしたいとき、などなど
 内臓感覚への信頼を、親との対話で作り上げていくのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 トラウマを負うようなストレスフルな環境、というのは、「胸から上」の感覚を強制されるような文化。必ず、周囲から一方的に急かされれたり、内蔵感覚を無視されたりといったことが起きています。
 過剰に気をつかい、未来を先回りして、ソワソワとして落ち着くことがありません。

 そのため、社会とつながることができず、孤独に陥り、判断を誤り、自分を責めて、という悪循環に陥ってしまうのです。
 
 

 

 

 現実の世の中は、実は、「のんびりして」「待っていることのほうが多い」ものです。常に何かを判断したり、動いたり、ということは少ない。

 ゆっくり待ちながら、内臓感覚(ガットフィーリング)が湧き上がってくるタイミングを待っている。
 
 それがいわゆるチャンス(機会)というものです。

 

 自分の「胸から上」がざわっとしたり、熱くなっていたらそれは一度ストップしてみる必要があります。そして落ち着いたうえで、腸で考える。ゆっくりのんびりしながら、腑に落ちる感覚を「待つ」ということが私たちの本来の姿のようです。

 

 

 

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真の客観とは何か?

 先日も書きましたが、
 トラウマを負っている人は、過剰な客観性、を持っていることがあります。

(参考)「過剰な客観性」

 

 他人の意見はすべて客観的事実だとして真に受けて、どこまでも、自分を反省して、どこまでも自分を改善していかなければならない、とする姿勢です。

 しかし、やればやるほど、自分の改善すべきポイントは増えていき、決してなくなることはありません。

 改善するために自分の足場の土も掘り崩していくため、知らない間に、自分の自信は失われていき、最後にはエネルギー切れを起こして、調子を崩してしまうようになります。

 

 
 当人にしてみたら、
 「そんなことを言うけど、自分の主観と客観(人の意見)とを比べた時に、自分の主観を採用したら独りよがりになってしまう。独りぼっちになってしまう。できるかぎり、人の意見を採用して、自分を客観的により良くすることしかないじゃないか」
 と感じてしまいます。

 

 この考えには、生育歴の中で内面化された刷り込み(ニセの公的領域)があります。

 それは、「他人の意見を客観だ」としていること。
 

 

これが、その当人を苦しめている。

  これはどこからくるか、といえば、例えば、親や周囲の人たちが自分のエゴ、支配欲のために、自分の私的情動を「正しい客観だ」として強弁してきたことについてまじめさから真に受けさせられてきたことから。

 

 機能不全な親というのはとても多いのですが、その親の気まぐれや、わがままにすぎないものが、「あなたのためだ」など理由をつけられてで、正当化されている場合がある。

 

 「これはしつけだ、教育だ」「私の言うことは正しい、だから従いなさい(≒あなたはダメだ)」といったような形で内面化を強いられる。

 

 これは、ある種のハラスメント(ニセの公的領域)にすぎないのですが、ハラスメントにすぎないがゆえに、自分の考えを「客観的である」強く主張しなくてはならず、さらにそれを維持するために、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」ということが強調される必要が発生する。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 そうして、「他人の意見が客観である」と、すり替えられてしまうのです。

 

 

 これはホンモノの客観ではありません。

 人間の社会は、あらかじめ客観があるのではなく、主観の集まりにすぎません。そして、その主観はとても多元、多様です。
 

 もっと言えば、人間というお猿さんが、嫉妬や支配欲から、互いをけん制し合っているような状態が、それが社会のすがた。
 もちろんそれではだめなので、信頼などを醸成して、社会を築いていくわけですが、お猿さん同士の主観のぶつかり合いであることには変わりがない。

 それなのに、過剰な客観性があると、猿の鳴き声の集まりを「客観」だとしてありがたがって、自分を否定するようなことが起きてしまう。

 

 

 では、真の客観性とは何でしょうか?

 

 それは、他者の主観を真に受けることではありません。

 

 真の客観とは、安心安全を土台にして、「自分の主観」から出発すること
 (安心安全がない時、主観は歪み、関係念慮(妄想)に落ちていきます。)
 

 次に、身体を支えにして、ノイズをキャンセルしていくことです。
 
 
 すると、腑に落ちる(ガットフィーリングに合う)感覚を得ることができます。

 それが、真に客観的なことです。

 

 

 「自分の主観からスタートしたら、独善的になるのでは?」という不安があるかもしれませんが、安心安全を土台にしていて、身体が健康なときの主観というのは社会のネットワーク(社会通念、常識)とつながっていますので、多元的でバランスが取れていて、基本的におおむね誤ることがありません。

 

 人間というのはクラウド的な生き物、個人であると同時に、社会の表象でもある。だから、社会とつながる一人の芸術家が時代を代表する芸術を創造することができたり、 作家や哲学者が時代精神をカタチにすることができたりする。凡人でも、アンケート調査、統計などを通じて、輿論が明らかになったりする。

 

 

 一方、意固地、独善的、妄想的になってしまうのはどういったときかというと
安心安全の支えがない時や、身体が健康ではないとき。その際は、社会的なネットワークとつながることができず、原家族やハラスメントを負った過去とつながってしまい、独善や疑心暗鬼、関係念慮(妄想)におちいったりする。
 意固地な人を見ると、その人は明らかに、別の何かと戦って、自分を必死で守っていることが外から見てもわかります。

 

 主観からスタートするためには、「安心安全」がキーポイント。

(参考)→「「安心安全」と「関係」

 

 そのためには、心身を健康にしている必要が勿論あります。

 

 過去の記憶によって、「安心安全」を感じることができない場合は、カウンセリングの出番となりますが、その前に、食事、運動、睡眠、というのはとても大切だったりします。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 「安心安全」(愛着と健康)を土台に自分の主観を出発点として社会のネットワークとつながり、真の客観を捉えることができるようになるのです。

 

 

 

 

 

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「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 私たちが悩みとすることは、自分にとっては、動かしようもない事実であり、それはとてつもない恥として感じられています。

 

 ある人は、幼いころに負った記憶。家庭の中での出来事。

 ある人は、親から言われた言葉。

 ある人は、学校での出来事。いじめや、おもらししたといった失敗や。
 

 
 
 常識や、本当の意味での公的な感覚でとらえれば、
 「(親の言動や、環境は)それは常識に反する。おかしい。あなたは悪くない」となりますし、

 

 過去の出来事も、
 「そんなことはだれにでもある。何も気にしなくていい」
 という風にとらえられます。

 

 人間というものは、だれしも弱くて、どうしようもないもので、表向きはそう見えない人も、ただそれを見栄で隠し通しているだけで、内状は大差がないもの。

 人生はミスや失敗もたくさんあるもので、そういうもの。

 (失敗がない、と思っている人は、自分の失敗が目に入っていないだけ。あるいは、失敗しないために得た援助や犠牲を理解していないだけ)

 

 
 現実をありのままにとらえれば、自分が負ったどんな悩みも消化されていきます。

 

 

 しかし、私たちのまわりには、ローカルなコミュニティがたくさんあり、その中では、人々の私的な情動が渦巻いている。 嫉妬とか、支配欲とか。
  
 沸き起こる嫉妬から、自分の私的な情動を、あたかも公的なルールであるかのように偽装して、それをもとに相手を支配しようとすることが起きます。

 

 

 一番は、「家庭」、次に「学校」、「友人関係」、そして「会社」

 親も当たり前のように子供に嫉妬をします。えこひいきもします。支配もします。それらは、私的な情動からなされます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 ただ、まさか「自分の個人的な感情によるものです」とは言わず、本人も気が付かず、「お前のためだ」「お前がおかしいのだ」「お前の言っていることは屁理屈だ。理屈っぽい」「どこに行っても通用しない」といって、自分の私的な情動を隠して、子どもや家族を非難して強弁するようになります。

 

 

 それが家の常識となり、子供にとっては、あたかも社会のルールのように感じられて、「自分はおかしい」という自己否定、自信のなさが大人になってもぬぐえずに続くようになります。
  

 
 「親が言うのだから、それは常識に違いない」と思っていますが、それは単なる親の嫉妬や支配欲でしかなかったりします。

 

 

 学校のいじめもそうで、最初は、家庭などほかの場所で不全感を負った子供が始めることが多いです。これも嫉妬や支配欲が関係します。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 誰でもよいのですが、標的を見つけて、いじめを開始する。

 「くさい」とか、「空気が読めない」でも何でもよいのですが、もっともらしい理屈をつけて正当化する。

 さらに、同級生や先生も周りを巻き込んで、リアリティを形成する。

 いじめられたほうは、「これだけみんなに否定されるのだから、自分は本当に空気が読めず、おかしいに違いない」として、自分を責めるようになる。

 もちろん、直感的には周りがおかしいとは感じていますが、どうしてもぬぐえない。

 なぜなら、自分を責める理屈や人々が「公的な領域」に見えるから。

 (「自分の直感と世の中を比べたら、世の中の意見のほうが正しいに違いない」という感覚)

 

 

 いじめる側も、「これは自分の不全感や嫉妬からのものですよ」といってくれればよいですが、「公」を詐称するために、「私的な領域」にすぎないものが、あたかも「公的な領域」であるかのように移り、その「ニセの公的領域」は被害者を長期間呪縛することになります。

 おとなになっても、いじめの記憶がじわじわ影響しているという方は多いです。
 

 

 

 会社もそうです。

 単に社長や上司のコンプレックスからくる偏った常識でしかないものが、あたかも公的なルールであるかのように偽装されて、そして、それに基づいてハラスメントが行われている。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 ハラスメントは、仕掛ける側が、「これは自分の嫉妬によるものです」なんていうわけがありませんから、もっともな理屈をつけて正当化します。
 「ノルマが達成できていない」「ミスをした」、「スタンスが悪い」「積極さが見えない」といったような言いがかりをつけたりすることはよくあります。

 

 

 とても学歴が高い方が、それゆえにいじめられるということも珍しくありません。例えば「東大を出ているのに、そんなこともできないのか」といったようにいびる上司は実際にいたりします。

 

 これも、たんなる嫉妬によるハラスメントにすぎないのですが、もっともな理屈をつけて行うために、受けた側はずっと呪縛されるのです。

 
 こうした「ニセの公的領域」とは、セラピーでは、ドミナントストーリーと呼ばれますが、あくまでそれらはニセモノにすぎません。

 

 

 自分の頭の中を触っていても、なかなか解消することは難しい。
 
 本当の「公的な領域」につながり、ニセの領域から移行することによって、ニセの公的領域によってもたらされた悩みは解決されていきます。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ニセの公的領域

 

 インターネットでは、偽のサイトに誘導して情報を盗んだり、という犯罪があります。銀行とかECサイトとか、「公的な」会社を偽装して、「パスワードを変更してください」といったようなメールを送ってきて信用した人がログインすると情報を取られる、というようなことです。

 よく、会社のホームページには「当社を騙るメールにご用心ください」といったような注意書きがされています。
 

 世の中には、使い人を陥れるために、ニセの公を騙る行為が存在します。

  

 これまで「公的な領域」の大切さ、についてお話してきましたが、私たちにとっての「公的な領域」にも「ニセの公的領域」というものが存在します。

 

 例えば、クライアント様からのご相談でしばしば「“世間の目”がこわい」というケースに出会います。世間が常に私を見ている、気になって外出できない、といったことです。

 私たちも世間の目というものを感じることはあります。世間の目というものがあたかも事実であるかのように、自分を圧迫し、厳しく評価し、行動をしばるように体感されることがあります。

 

 その世間の目に合わせて自分の行動を抑制したりしなければならない、自分を品行方正に変えなければならない、と思って苦しくなります。
 

 ただ、これは実は「ニセの公的領域」に当たります。

 実際には“世間”なるものは存在しませんが、あたかも存在するかのように思わされ、そこに接続されることで、呪縛されてしまっている状態です。

 

 このニセの“世間の目”とは何からくるかといえば、しばしば親や祖父母など家族の価値観からくるものだったりする。

 親や祖父母がなかば妄想的に世間をとらえていて、家族を「巻き込み」、ニセのリアリティを形成する。

 
 「家族価値」といって家族の中でのローカルな価値観が縛ることもあります。
「~~でなければならない」「~~といった人間はダメだ」といったようなことです。

 
 家族の呪縛はとても強いのですが、一方で、単なるニセモノですから、本当の公的領域とつながってニセモノと気が付けば、容易に離れていってもくれます。

 

 別のケースでは、例えば、私たちが過去について「恥ずかしい」「思い出したくない」といった嫌な記憶を持っていて頭から離れずに困っていることがあります。あまりに強いとトラウマと呼ばれたりもしますが。

 これも実は、「ニセの公的領域」です。

 

 

 記憶の中で、自分の行為を評価するニセの規範が存在していて、自分の行為を縛っている。現実には当時の記憶は他の当事者たちも覚えていないことも多いですが、本人の中ではクリアに反復されている。
 

 

 筆者も経験がありますが、例えば同窓会などで、昔の仲間と再開する。
自分の中でははっきりしているような記憶でも、同じ仲間は全く覚えていないことはとても多く戸惑うことがあります。
 人間の記憶というのはこのように移り変わっていくものなのだ、と実感します。

 自分の中でいつまでも消えないような恥ずかしい記憶も、実は自分の中だけのもので、それはある種の「ニセの公的領域」なのだということを痛感するのです。
 本人には「クリアすぎて、偽物とはどうして思えない」かもしれませんが、ほかの当事者も忘れているようなことがホンモノなわけがありません。

 

 

 さらにいうと、当時いた環境が非常に生きづらかった場合。家庭、学校や会社などが典型ですが、それは、その環境が「機能不全」を起こしていた、ということです。

 本来は、本当の「公的な環境」へと仲介するはずなのですが、その環境のローカルルールをあたかも「公的な環境」であるかのように装って、メンバーの「私的な情動」を解消するために、ほかのメンバーにハラスメントを仕掛けるようになるのです。

 それがいじめなどという形で現れます。

 

 いじめは、私情を常識とすり替えて「ニセの公的領域」を作り出して、そこにメンバーを巻き込みます。それによってハラスメントを正当化する。
 被害者は、大人になっても、当時の「ニセの公的領域」につながったまま、離れることができず、それに適応できない自分を責め続けたり、自分を委縮させるということが起きていたりします。

 これも「ニセの公的領域」です。

 

 

 私たちは、誰もがどこか「ニセの公的領域」とのつながりがあり、苦しみを感じていたりする。
 「つらい過去の記憶」も実は「ニセの公的領域」です。

 なぜなら、つらい過去の中には必ず“世間”があり、“社会”、人の目というものがあるからです。

 

 私たちはクラウド的生き物で、どこかにつながっていないと生きていくことができない存在です。そのため、ニセ物にも接続してしまう。トラウマとは、それが更新されないこと。

 健全な状態であれば、真の「公的な領域」の支えを感じ、ニセモノのおかしさに気づき、学習し、関係が更新されていき、健康さを維持、成熟することができます。

 十分な支えがない時には、「ニセの公的領域」から抜け出すことが難しい。
あたかも映画「マトリクス」の住人のようにそれを本物ととらえ続けてしまう。
 

 カウンセリングのゴール、目的というのは、「ニセの公的な領域」から抜け出して、本当の「公的な領域」とつながっていくためのお手伝いをする、というところにあるのかもしれません。

 

 

 

「私的な領域」は「公的な領域」のエネルギー源

 

 これまで、「公的な領域」の大切さ、というものをお伝えしてきました。

 

  じゃあ、「私的な領域」は重要ではないのか?といえばもちろんそうではありません。「私的な領域」がなければ「公的な領域」もうまく機能しない。

 「私的な領域」とは、一つには「公的な領域」のリソース、エネルギー源となる存在です。

 

 

 たとえて言えば、鉄鉱石とか原油のようなもの。
素の状態では、利用できないし、生で食べるとおなかを壊すようなもの。
 加工して、利用できるようにしないと世の中では有用なものとはならないですが、資源がなければ、製品もできない。

 

 「私的な領域」とは、エゴとか欲とか呼ばれる場合もあります。
 かなりわがままに、「~~がしたい」「~~が欲しい」と思えることは大切。
 それがエネルギーになって、生物としての人間を支えてくれます。

 私たちは「私的な領域」の力が低下すると、調子を崩します。

 

 例えば「(本物の)うつ病」は、「私的な領域」が枯渇したような状態。そのため運動とか、投薬、人生の方向転換を通じて、「私的な領域」を養うことをします。

 「私的な領域」が回復してくると、ふたたび公の世界で活動することができるようになります。

 うつ病からの回復でも指摘されるのは、ずっと「私的な領域」にいても回復はできず、むしろ悪くなるということ。徐々に体を動かしたり、働きに行く訓練をするなど、「公的な領域」へと復帰していくことをしていく必要があるとされます。

(参考)「うつ病を本当に克服にするために知っておくべき16のこと」

 

 「私的な領域」というのはあくまで一時的な避難場所である、ということです。   

 

 生きづらさ、というのは、「私的な領域」のエネルギーを「公的な領域」で発揮するサポートや接続が提供されないような状態のこと。

 家族が機能不全で、自分のことを正しく認めてくれない。

 十分な仕事がない、仕事についても今度は職場が機能不全である。

 社会の中で「位置と役割」がうまく得られない

 などなど
 
 

 よく、「やる気が出ない」「自信がない」という言葉がありますが、
 
 やる気=「私的な領域」×「公的な領域」となっているもの。

 

 やる気とか自信は、個人の内面の問題だけではなくて、家族が提供する「愛着」や会社や学校といった、自分が出会う社会の組織がうまく機能しているかどうか、といったことが絡み合って成立するものです。

 実際に、学力というものも、所得や周囲の環境によって決まってくることがわかっています。

 

 ですから、よほど不健康で「私的な領域」が下がっているのでなければ、やる気がない、というのは、「公的な領域」との接続が十分ではないために起こっているということなのです。

 

 

 

 このように、「私的な領域」と「公的な領域」とは相互的で、それぞれがあるから成り立っているのです。
 ただ、互いに等価か?ととわれれば、あえてそうではないと答えます。

 

 なぜなら、成人した後の人間は、あくまで「公的な領域」から捉えるものだからです。
 

 

 「私的な領域」のことについては「公的な領域」へと整え、変換されないと扱うことができません。

 

 また、以前の記事にも書きましたが、
 自分や相手の「私的な領域」には立ち入らない、というのは大原則。

(参考)→「相手の「私的な領域」には立ち入らない。

 

 立ち入っても、それを健全に扱うことができませんし、逆にやけどしてしまいます。

 
 「私的な領域」も大切だけど、あくまで「公的な領域」のためのエネルギー源として存在している、という理解が必要。
 

 しかも、私たちが原油とか鉄鉱石を手にしてもなにもできないように、素人では扱いにくいものでもある。 

 

 悩みを抱えている方の多くが、「私的な領域」を「公的な領域」と等価かそれ以上のもの、と誤ってとらえてしまって、扱い方に困り、本当の自分を見失い、その資源の生の磁力や熱風にあたって調子を崩してしまっているからです。

  
  
 「私的な領域」のエネルギーは、「公的な領域」を築き、維持することで、初めてパワーとなって発揮することができるのです。

 

 

 

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常識、社会通念とつながる

 

 私たちが成長する、というのは、私的な状態を脱して「公的な環境」に身を置くようになることです。

 

 親とのかかわり、大人たちとのかかわりの中で、私的な情動を公的に表すための適切な表現方法を学んでいく。

 

 逆に言えば、「公的な環境」がなければ、私的な情動を自分にも他人にも分かるかたちで表現することはできない。表現できないものは身体にネバネバと滞留して、それがいわゆるトラウマ(ストレス障害)になる。 
 あるいは理不尽に漏洩して、境界性パーソナリティ状態と呼ばれる

 

 トラウマとは、長期にわたってそうした「私的な環境」に置かれてしまうこと、とも言えます。 

 

 
 震災など災害がトラウマになるのも、災害の衝撃もありますが、それ以上に、災害後に私的な状況に置いてきぼりにされてしまうこと(孤独)。実際に、自殺が多いのは災害が起こった直後ではなく、数か月、数年以上たってからとされます。

 絆を強調したり、コミュニティでの声掛け、死者に対する合同での慰霊祭といったことは、「公的な環境」を維持するための工夫です。

 

 私たちは「公的な環境」にいることで、トラウマはその中で癒されていくと考えられます。私的な環境にいるとトラウマを処理することができず、身体などの不調となって現れます。

 

 ストレスは、まずは、自分の体内のストレスホルモンで処理をしますが、それができない程に大きなものは、社会のネットワークに流して処理をしていくものだからです。
 よく、「ファン、サポーターの応援が力になりました」とスポーツ選手などが言うのは、大舞台のストレスをネットワークに流すことで対処しているからかもしれません。
 これも、「公的な環境」を作り出す工夫です。
 

 

 身近な親などを通じて、私たちは社会への橋渡しをされますが、家庭とは社会へ出るための準備の場、ローカルネットワークですから、ある時、そこから自分を思い切って切り離して、社会というクラウド「ワールドワイドウェブ」につながる必要がある。

 

 そのための儀式がまずは2度にわたる「反抗期」であり、世に出る「就職(しごと)」になります。

 

 反抗期で、ローカルネットワークの象徴である親を精神的に“殺して”、自我を確立していく。そして仕事を通じて、本当の意味で社会とつながっていきます。

 

 もちろん、現代は“会社”社会、会社という組織を介したつながりであるため、会社が機能不全を起こして歪んでいると(モラハラ、パワハラ)、会社がおかしな私的環境(ローカルネットワーク)となってしまって、社会というクラウドと十分につながることが妨げられてしまうことにもなりかねません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 私たちが意識する際に最も大切なことは、「社会通念」「常識」とつながる、ということ。

 
「社会通念」「常識」というのは、長い歴史や伝統の中で紡がれたもので、現在も、社会を構成する無数の人のネットワークでできているもの。

 古代から芸術や政治、経済の理想というのは、その目に見えるようで見えない「社会通念」「常識」(輿論)≒イデアというものをいかに具現化するか、というところにあるといわれています。
 

 

 天才的な芸術家や政治家がイタコのようにそれを降ろしてきて表現する存在とされます。

 

 凡人である私たちも天才的とまでいかなくても、普段言葉には出せませんが、「社会通念」や「常識」というものを体感して生活しています。
 心身が健康な常態であるとき、私たちはそれを中心軸に感じ取って、落ち着いて生活することができます。
 「公的な領域」で生活している状態です。

 

 心身が不安定な時、「社会通念」や「常識」を十分には感じ取ることができません。外部からやってくる否定的な感情に振り回されてしまって、イライラして、バランスを欠いた感覚にとらわれてしまいます。
 自分が何やら常識から離れているかのように感じてしまい、自信を失ってしまいます。

 社会が自分の敵に回ったかのような、疑心暗鬼に陥ってしまうこともあります。
 「公的な環境」を維持できず、「私的な領域」で生活している状態です。

 

 

 「家」の中というのは、避難場所としては機能しますが、実は、「社会通念」や「常識」≒イデア とつながるにはとても不向きな場所です。
 家系、親の偏った常識、価値観というローカルネットワークの呪縛されてしまうからです。

 

 学校や会社も実はとても難しい場所で、正しく機能すれば「社会通念」や「常識」への仲介となる場所でもありますが、中間集団として、偏ったローカルネットワークとなりやすい場所でもある。それがハラスメントやいじめとなって現れる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 そのため、小中学校などでも、できる限りローカルネットワーク化しないように、社会学者などがクラス単位ではなく、科目単位で編成するような組織作りを提案していたりします。

 

 
 社会に出ていくときには、支配しようとしてくる人がいたり、機能不全のローカルネットワークにからめとられたりすることがあります。それらはすべて公的環境を騙った「私的な領域」です。

 

 世にあるノイズに対抗するために、自己啓発などの考え方では、個人の成長によって果たそうとしてきました。
でも、それはとても難しい。
 なぜなら、自分の頭だけで自分のアイデンティティを確立させてという作業は、天才的な哲学者でも難しいことだから。なにより、人間は構造的にクラウド的存在だから。

 

 

 機能している社会には、「常識」や「社会通念」というものが悠然と存在している。
 

 

 「常識」や「社会通念」は、何気なく街や職場で出会う素朴な人たちとのかかわりで感じることができます。

 

 本来の「常識」や「社会通念」とは、多元的であり、“人それぞれ”というわきまえがあって押しつけがましくなく、でも、人々に太い幹のような基準を与えてくれるもの。

 そうしたものを内面化する。自分は「公的な環境」という光の道を常に進む。「私的な領域」の闇をのぞき込んだり、かかわろうとしない。
(もっともらしく見えても、生きづらさを感じるならば、それは歪な「私的領域」です。)

 

 そうすることで、ハラスメントや生きづらさから解放されていきます。 

 

 

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 「自分探し」といったことをよく耳にするようになって、かなり経つでしょうか。

 それに対して「探したって、理想の自分なんてないよ」といった揶揄や、お説教もよく聞きます。

 

 確かにそれはその通りで、自分というのは、どこか彼方にはなく、日常の「関係」の中にしかないものです。

 

 

 ただ、「自分探し」をしなければならないほど、生きづらいし、生き苦しい社会であることは変わりません。

 揶揄されても「自分探し」はやめられない。

 直感が、今の自分が本当ではない、ということを告げてくれるからです。

 

 

 では、どこにあるのだろうか?本当の自分とは。
 

 

 例えば、
 セラピーなどを用いて、自分の内面を探ってみる方法はどうでしょうか。

 インナーチャイルド、トランスフォーメーション、前世療法などなど、様々なワークがありますから、探ってみること自体は可能です。

 

 それぞれは有効なものだと思います。

 

 例えば、自分の「女性性の部分に気が付けた」「意外な部分に気づけた」とかそういうことは起こりますけども 
主催者側の宣伝は別にして、それだけで「本当の自分がわかった」という人に残念ながら出会ったことはありません。

 

 仏教の悟りにしても、仏陀を除いて、悟りを得られた人は本当に一握りで、凡人には難しい。 

 

 自分の内面を探る、というのは「私的な領域」を掘り下げる作業ですが、そうしたものからは結局本当の自分は得られないのではないか?

 

 もちろん、一瞬、「悟ったような気になる」ことはしばしばありますが、それを維持することは難しいですし、悟ったということを表現しようとすると俗世の垢にまみれる必要があって、そこでまた元に戻ってしまう。
 

 

 
 筆者も経験がありますが、世間との関係は脇に置いて、自分の内面を掘り下げて磨けばよい、改善すれば生きづらさはなくなるのではないかと取り組んでみます。

 途中までうまくいくような気がするのですが、結局頭打ちになってしまう。

 

 そして、 結局、気がつくのは、哲学や脳科学といった知見などもしめすように、人間はクラウド型であり、「社会」や「関係」を離れて自分を知るということはできない、ということ。

 

 スタンドアロン(自分だけで)で変わるのは難しい。

 

 スマホでいえば、本来の中身(コンテンツ)は、端末の外にあるということ。

 クラウドの世界で生きるというのは、公的なネットワークの中で生きるということ。

 

 私的な情動のままでは通信をすることはできないので、
公的に決められたプロトコルに沿った形でデータは整えられ表現される。
 
 それが人間であるということ。

 

 実際、古代ギリシャでは、公的な領域こそが市民の本来の姿であり、私的な領域というのは、未熟で野蛮なものとされたそうです。

 

 
 現代の私たちの多くが誤解しているのは、「私的な領域こそが本来で、公的な領域は取り繕った偽りである」という考え。
  
 
 これは全くの逆であることが見えてきます。

 

 以前の記事にも書きましたが、
 実際に、あるクライアントさんが、活動量計(スマートウォッチ)をつけて生活していたところ、一人で家にいるときが一番緊張していて、外でたくさんの人と接しているほうが緊張は少なくリラックスしていた、ということです。※最近は、歩数計といったことだけではなく、睡眠の状況から血圧まで簡単に測ることができます。

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 もちろん、その方は人とのかかわりが得意、というわけではなく、むしろストレスになることのほうが多いと感じていました。でも、実際に計測してみると逆であることが明らかになりました。

 

 家で一人でいるというのは、まさに「私的な領域」であるわけですが、余計に緊張が増して、自分らしくいれなくなる。「一人で家にいて、好きなことをしている」から、自分らしい、という風に思いこまされているだけで、実際はそうではない。

 

 

 本ブログでも何度も言及していますが、統合失調症の方も、治療のために部屋にずっといて、薬さえ飲んでいたら良いかといたら全く逆であって、ドアに鍵をかけず、仕事(役割)を与えて過ごしていると、メキメキ改善していくことが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 実は社会の中で「位置と役割」がないために幻覚(症状)が必要になるのではないか、とも言われています。

 「公的な環境」が維持できなくなって、「私的な領域」に陥ってしまうと、やはりおかしくなってしまう。幻覚、幻聴を用いてまで「公的な環境」を作り出してしまう。
 

 

 
 こうしたことからわかることは、

 

 私たち、人間にとっては「公的な領域」こそが本来の自分がいる居場所ではないか、ということです。

 

 私的な環境にいるとどうなるか?といえば、偏った家族の価値観(ローカルネットワーク)とつながってしまう。

 
 そこでは、多様性がなさすぎて、私的情動を昇華するにはリソースがまったく足りない。極端に言えば、特定の誰かに依存(支配)されることを余儀なくされてしまう。

 

 私たちは、生まれてきて、まずは“機能している”親の助けを借りて、自分の中にある「私的な領域」を「公的な環境」で表現することを学びます。学校での教育や友人関係も(正しく機能してくれれば)その助けとなります。
 

 

 最も大きなポイントは「就職」です。

 

 仕事を通じて「位置と役割」を得てはじめて人間は「公的な環境」に安定して身を置くことができるようになる。

 働いた報酬としてお金を得ることができますが、お金の力があることで、他者からの支配から自由になることができる(経済的に他者に依存していて自由を得ることは難しい)。お金というのは価値を数字で置き換えたものですから。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 昨今は社会情勢のせいで仕事に就きたくても就けない人が増えています。
 これは、精神的な健康の観点からも大問題です。
 (仕事ができないのは基本的にその方のせいではありません。社会の責任です。)

 

 「恒産なくして、恒心なし」といいますが、一人部屋にいて仕事をしない状態のままでは、世界一の医師やカウンセラーであっても、その方を「自分らしく」生きていただくようにすることは難しい。

 

 上に書きました統合失調症の例もそうですが、やはり、徐々にでも仕事をして、社会に出て何らかの活動をしていくようにしていかないと本当の回復はできない。
 (※家にいて家事をするのは立派な社会的な仕事です。また、家庭は一時的な避難場所でもあります)

 

 

 「生きづらさ」の背景にあるものは、「関係の個人化(私事化)」であるといわれます。社会に原因がある問題が、すべて個人に還元されてしまうことを指します。

 例えば「引きこもり」でも、そこには家族の問題がある、経済の問題があるわけですが、すべて、個人の性格の問題、やる気の問題、精神の問題とされてしまってはたまりません。

 つまり、生きづらさを「私的な人格」の問題とし、そこで解決しようとすることはさらなる生きづらさを生むということです。

 自己啓発も最初は癒される気がしても、まわりまわって最後は「問題を解決できないのは、あなたのせいだ」と突き付けてくるわけですから。

  

 人間はクラウド的存在です。クラウドから切り離されると機能しなくなる。
 ローカルネットワークの呪縛から解き放ち、「ワールドワイドウェブ」につながらないと機能回復は果たせない。

 

 緩やかな「関係」を構築して、社会に位置と役割を得て「公的な環境」を築いていく。そこで世の中の常識や社会通念をバックボーンにして生きていく。すると、多元性や安心安全を感じるようになります。
 自分にかかる苦しみも、まわりまわって社会に還元されていきます。

 

 そうしてはぐくまれる「公的な人格」こそがローカルな呪縛を離れた本来の自分であることが見えてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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親しき仲にも礼儀あり

 

 親しかった人が急に態度が変わった。失礼な態度になった、という場合、とてもショックを受けます。
 私が悪かったのかな、こちらの態度もよくなかったのかな、と。

 

 筆者もそのような経験があります。
 あれ?以前までは仲良かったはずなのに急によそよそしくなった、とか、失礼なことを急に言ってきた、というようなこと。

 

 こうした経験はとてもショックで、後々まで引きずってしまうことも少なくありません。

 

 ある歌手は、少年時代に仲良かった友人が急に態度が変わって自分のもとから去ってしまった、といってコンサートでも涙したり、そのための歌を作ったりしていました。
 それほどショックな出来事だったようです。

 

 別の芸人さんは、かわいがっていた後輩がいきなり自分に反旗を翻して、いなくなってしまった。考えても理由がわからない、と悩んでいました。

 

 稀なようでいて、結構よくあることなのかもしれません。

 
 実際、カウンセリングでは初回に、クライアントさんに問診を行いますが、学生時代に、急に仲間外れになったり、友達が無視してきたり、というエピソードはよく耳にします。

 

 

 

 臨床心理などでわかってきているのは、人間というのは発作や解離を起こしやすく、急におかしくなってしまったりする生き物である、ということ。
 脳というのは未成熟でとても不安定なものですからすぐにショートしたり、勘違いしたりする。

 

 だから、被害を受ける側はとても傷つきますが、当人たちは、特段の理由なくおかしくなってしまっている。

 ただ人間は自分はまともだ、とおもっているために、おかしくなった原因を目の前の人に帰属させようとするのです(因縁をつける)。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 人間は、「私的な環境」では容易におかしくなる、というのは、重要な裏ルールの一つです。

(参考)→「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 関係の中での距離感、リスペクトが乱れると、人間関係は公的なものから私的な状況に堕してしまいます。
そうなると時間の問題で、理不尽なふるまいをしてしまうようになります。
 関係を保つためには、親しい人間関係でも公的環境を維持しなければならない。
 言い換えれば、「親しき仲にも礼儀あり」ということ。

 

 

 夫婦でもそうです。

 良い夫婦、というのは、「何でも言い合う夫婦」ではない。本来の良い夫婦とは、ちゃんとそれぞれの役割をはたしていて、礼儀をわきまえている関係。

 だから、言ってはいけないことは我慢して言わない。意図してマネジメントしている。

 率直に話し合うにしてもタイミングや相手への敬意がある。そうしたことの土台の上に“結果として”、「なんでも言い合える」関係ができるのであって、好き勝手、感情に任せていいたいことを言うことが良いのではない。

 

 

 機能不全家族に育った方などにしばしばみられますが、
親が家族ならば何でもずけずけ言うことが当たり前だ、と思っていたために、相手の内面にも平気で立ち入ったり、失礼なことを言ったり、ということをしてしまう。

 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 結局そうした振る舞いは、家族の機能を壊してしまいます。

 

 

 友達でもそう。
 友達も「機能」なのですから、「機能」が果たせなくなって、公的な環境が維持できなくなると、発作を起こしたりして急におかしくなってしまうのです。

 

 上司‐部下、先輩‐後輩の関係においても「公的な環境」が崩れると、後輩が下克上してしまう、ということが起こります。

 例えば、経営者と従業員で友達同士のように付き合っていると、おかしなことになる、とよくいわれます。だから、無理をしてでも経営者然として孤独を覚悟しないといけない、と。

 実際に、筆者の知人も従業員と友達のように接していましたが、結果、従業員全員が裏切るようにやめていってしまった、ということがありました。

 

 
 親しき仲にも礼儀あり、とは、相手へのリスペクトと「公的な環境」を維持すること。 

 

 実はこうしたことの上に本当の「親しさ」というものが生まれてきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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