寄り添いすぎて目がくもる

 

前回、共感してはいけない?! と書きましたが、

(参考)→「共感してはいけない?!
「でも、共感こそが大切で、どんな状態の人にも共感することでいつか雪解けがくるのではないですか?」と思うかもしれません。
実は、筆者も昔はそう思っていました。

 

 

例えば、映画やアニメでも、悪魔にとりつかれた主人公が愛情のちからで呪いが解ける、ということはよく見ます。
また、一見、悪者に見えても、悪の部分を深く理解することで改心する、というストーリーもよくあります。
特に、日本人は、妖怪も尊重して味方にする、というような価値観があるように思います。
(西洋の人たちが日本のアニメなどを見て驚くのは、悪と思っていたものが味方になったりするところだそうです)

 

でも、それはどうも違う、間違いである、ということが最近見えてきました。

 

 

 

わかりやすく言えば、例えばこんなことです。

学校でいじめが発生した際のことです。
いじめる側にも“論理”があります。

「あいつ(いじめられっ子)が協調性がないから」
「あいつ(いじめられっ子)は気持ち悪いから」

「なんか、態度がムカつくから」

などなど。

でも、その論理に共感して、

「そうか~、わかる、わかる」「たしかにあいつは協調性がないからなあ・・」なんていう教師がいたら、その人は教師失格になってしまうでしょう。

 

 

真に共感する対象は”いじめの被害者”であるわけで、
いじめる側の論理は「おかしい」と一刀両断にしてあげないといけない。

 

 いじめというのは、中間集団全体主義と呼ばれるように、いじめる側がローカルルール人格にスイッチしておかしくなっている状態です。

 もっと言えば、私的情動をグループ内の常識だ、と騙って、異常なファッショ状態に陥っている状態です。

 そのため、いじめを生み出すに至ったいじめっ子が抱える不全感には理解、共感することには意味がありますが(たとえば、いじめっ子もじつは家で両親の喧嘩が絶えないだとか)、その不全感から(ローカルルール人格にスイッチして)生じた全体主義のような論理にはいくら耳を傾けても全く意味がありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 はっきりと「君のやっていることや考えは全く間違っている」「おかしい」と伝えることで、いじめっ子もローカルルールの呪縛から目が覚めますし、そうしてあげなければ本当の解決(教育)にはなりません。

 

 

 

 

 昔、NHK特集の「未解決事件」という番組で、オウム真理教について関係者の証言とドラマとで真相を再現するという内容が放送されていました。

 その中で、萩原聖人さん演じるNHK記者が、元オウム信者に当時のことを聞いて真相を明らかにしようとするドラマシーンがありました。
NHK記者は、元信者にオウム真理教の教義の意味を問いただしたり、教祖の説法のテープを聞いてみたり、できる限り、関係者に寄り添って取材をしていました。

 

 元信者たちにも様々な背景があって、単に悪人たちが起こした事件ではないということも改めてわかってきます。むしろ、世の中の人よりも正直で純粋であったりします。

 

 

しかし、あるとき、豊原功補さん演じる上司に屋上で声をかけられます。

心配そうな表情の上司が、説法テープを聞いて考えにふけるNHK記者のイヤホンを取り上げて声をかけます。

 

上司「取材はどうだ?」

 

NHK記者「元信者に取材をしていますが、すぐに教義が出てきて、弁護を始めるんです。まだ思いがあるんですね。」
   

それを聞き、上司は何か引っかかる表情をします。

 

NHK記者「元信者を取材するたびに思うんですけど、彼らはみんなピュアなんですよ。純粋に何かを求めてオウムに入ったのに組織が勝手に暴走しちゃって」ため息をつくように心情を吐き出します。

 

上司「お前・・オウムに寄り添いすぎていないか?」

 

NHK記者「いや・・ そんなことは・・」

 

上司「お前、遺族や被害者をどれだけ取材してきたんだ?!」

 

NHK記者「わかってますよ!! でも、向こうの言い分をちゃんと聞かないと、真実はわからないじゃないですか。被害者も遺族もオウムが何かを何かを知りたがっているんですよ。」

 

上司「寄り添いすぎて目が曇るってこともあるんだよ!!」

 

 

 上司は記者を一喝し、事件によってどれだけの被害者がいて今も苦しんでいるのか、裁判で真相が明らかにされず二重の苦しみを背負っている。そのことを説きます。そして、“寄り添う”という一見もっともな態度に潜む落とし穴を気づかせるのです。

とても印象的なシーンでした。

 

 

 人間は完璧ではありませんから、誰しも不全感を抱えています。社会にも問題はある。なにか事件を起こすような人というのはどこか魅力があります。特に独善的であっても社会変革を旗印に掲げるような場合には。

 ジャーナリストや研究者といった立場の人間が、事件の加害者側の人に、いつのまにか自分の不全感や社会への違和感を投影することで、ローカルルールに感染するという倒錯がおきることがありますが、NHK記者に起きていたことはまさにそれに近いことです。

 これは、共感ではありません。真相を深堀していることにもなっていません。単に感染し、巻き込まれているだけです。結果、遺族や被害者はないがしろにされてしまう。

 

 

 

 先ほど上に書いたいじめっ子に共感する教師もこれとにています。
共感するポイントを明らかに間違っています。いじめの加害生徒の全体主義のような論理に共感してしまっている。その背後には、教師が自分の中の不全感を投影していたり(協調性のない人は問題がある、等)しているだけ。
結果として、加害者のローカルルールに感染してしまって、巻き込まれてしまっている。

 いじめの事件では、教育委員会レベルまでもがローカルルールに感染して、「いじめはありませんでした」などと報告を出したりする事が起きます。

 まさに「目が曇る」状態です。

 

 
 いじめとは、不全感が連鎖するとも言われていて、いじめをする側にももちろん背景はあります。機能不全家庭に育っているとか、親のストレスをぶつけられている、とか、そうした背景に対して、治療(教育)のために理解することは必要ですが、加害者が生み出したローカルルールやそこで語られる論理(あいつは協調性がないからいじめられても仕方がない、など)に共感することは誤りです。

 

 寄り添っているように見えて、結局は加害者も目が覚める機会を奪われてしまい、被害者も両成敗というようなあいまいな状態におかれ、何の解決ももたらしません。

 

 常識をもとにローカルルールの論理に疑問を挟むこと、「おかしい」「わからない」ということは、たとえ一時あつれきや反感が返ってきたとしても、実は、相手をまっとうな人間として尊重するということ、ローカルルールを壊して常識に引き戻す、ということに気が付きます。

  
こうしたことと同様のことが、悩みを抱えているクライアントさんや、治療者にも当てはまります。

 それは、クライアントさんが解離してローカルルールが感染した人格にスイッチした後に語られる理屈に共感してしまう、といったことです。

 

 

 人格がスイッチしておかしくなって、家族や周囲を巻き込んだり、暴言を吐いたり、あるいは治療者に怒りをぶつけたり、
「あなたの態度で傷ついた」

「理解してもらえていない」といったり、
「今までのはウソで、私の本音は~~」とこれまでと違うことを述べだしたり、といった状態というのは、いじめっ子が「あいつはいじめても当然だ。なぜなら~~がムカつくから、~~だから」という理屈をこねることとまったく同じ現象です。

 

「もっと理解してほしい」「もっと共感してほしい」という訴えもそうです。
これは解離したローカルルール世界の人格が「ローカルルールに同意しろ!」といっている状態です。

 

そういう状態は、本来の自分ではなくなっている状態なので、共感しても治療的には全く意味がありません。むしろ「目が曇って」解決の妨げになったりする。

 

 

 また、その状態でクレームを伝えられたとしても反省や謝罪をする必要もありません。
(現場では、ものすごい勢いで詰め寄られますから、謝らざるを得なくなりますが)
そのクレームとは、ローカルルール世界のニセクレームであり、ホンモノのクレームではないからです。

 ローカルルール世界の人格というのは接してみるとわかりますが、いかにももっともらしいことを言います。でも、どこかおかしい。

 

 事実が捻じ曲げられていたり、おかしくなっていたりする。周囲からおかしいということを指摘されると、「私の言っていることを妄想だとか、関係念慮といいたいんでしょ!?ひどい!」といったりして、家族や友人を振り回したりします。

 怒って訴えますが、聞いているほうは訳が分からないし、理解しようとしても直感的に違和感を感じます。

 

 

 ローカルルール世界の人格を理解しようとしたり、受け止めようとして寄り添ってしまうことはクライアントさんの中にある、まともな本来の人格や、その周囲にいる家族や友人をないがしろにしてしまうことになります。
さらに、加害者の理屈というのは、実は、加害者自身も拘束してしまうようになります。

 果ては、前回の記事のエピソードのように、解離した破壊的な人格が起こしたニセのクレームによって、サポートする側の治療者が職を辞してしまうという事態にまで発展したりします。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 もしかしたら、境界性パーソナリティと呼ばれる症状がなかなか難しいのは、単に不安定である、といったことだけではなく、ローカルルールに感染した人格(モジュール)の存在があるからかもしれません。

 

たしかに、

「理解してくれ」

「もっとかかわってくれ」

「妄想ではない」

あるいは、

「ただ、黙って話を聞いてくれればいい」

と訴えますが、それがホンモノの本心かといえばそうではない。
「あなたの態度は冷たい!!」と文句をつけてくるかもしれませんが、それも本当の本心ではない。
 ローカルルールに人格スイッチしていて、いじめっ子と同じようにローカルルール世界の理屈を無意識に述べているだけ。

 

 

 本来は、その人自身と、解離した状態とを分けて、解離したら巻き込まれず、またいでスルーしないといけない。共感されるとかえってその人もしんどくなってしまう。

 

 

 人間は解離する。そして、モジュール(人格)の束であり、ローカルルールに感染することがしばしばある、ということを考えた時に、どんな状態にも共感して寄り添うことが大事、という考えは臨床を取り巻く大いなる幻想なのかもしれません。

 

 ローカルルール世界の理屈は共感してはいけない。本来の人格をないがしろにすることになります。

 

 状態を見極めて、理屈や訴えをまたいでスルーしたり、疑問を挟むことが必要です。それが、その人の本来の人格を助け、尊重することになります。

 

 

 人間には、“二重の見当識”といって、解離している裏にも理性的な人格が控えています。だから、まっとうな人間として、正論を伝えたり、常識をもとに疑問を挟むことは、その時は軋轢や反発を生んだとしても、ローカルルールの感染を取り除く良い効果をもたらします。

 

こうしたことは、今、悩みを抱えている人にとっても大きなヒントになります。

 

 例えば、日常の職場や家庭、学校で受けるもっともらしい言葉も実はハラスメントを仕掛けてくる人が解離(スイッチ)して起こすローカルルールによるニセのクレーム、本音である、ということに気づけるようになる。

「~~さんって冷たいところがあるよね」とか、
「~~さんは、仕事ができない」とか、
「~~さんの態度が気に入らない」とか、

もっともらしく見えるけども、全部根拠なし。
相手は、単に自分のローカルルールに巻き込みたいだけ、因縁つけたいだけ。

そこに共感したり、寄り添いすぎると、まさに目が曇って、やられてしまいます。

 

まったく何とも思う必要はありません。またいでスルーする。

 

 さらに、自分が抱えるしつこい悩み自体もローカルルール世界の人格が起こしていたりする。例えばイライラや、不安、恐れといったこと、これも、実は自分の中にある、ローカルルールに影響された人格(モジュール)が起こしているのではないか?
 自分が当たり前と思っていることが不思議世界ではないか? と考えてみると、面白い。

 自分の悩みについても、モジュール(人格)単位で悩みを考えてみる。
ローカルルールというものの影響を考える。

長年解決できなかった悩み解消の切り口が開けていきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。

 

 「愛」などもそうですが、私たちにとってサイズに合わない言葉や概念は、私たちを機能不全に陥れます。

 
 人間にとってスペックオーバーである「愛」という概念を持ち出すと、愛が得られないことに絶望したり、応えてくれない相手に憎しみを感じたり、個として完成しようとするあまりに孤独に陥ったり、ということが起こります。

(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 「責任」も同様に私たちにはスペックオーバーの観念の一つ。

 

 一般に言われる意味での「責任が果たされていない状態」とは、責任がないのではなく、「責任」という身の丈に合わないものを当てはめた結果、逆説的に機能不全になってしまっていると考えられます。

 

 

 本来、私たちに必要なのは、それぞれ適切な「役割(位置)」です。

 
 以前、経営学者のドラッカーの言葉を紹介しましたが、
 「個人にとって、社会的な位置と役割がなければ、社会は存在しないも同然である。(中略)個人と社会との間には、機能上明確な関係が存在しなければならない。」と述べています。
 反対に、「役割」が失われると、社会の中で存在していないも同然となる。

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 広く言えば、失業など「役割」を奪うハプニングは、社会に多くありますが、私たちの日常にも私たちの「役割」を奪ってしまうものは存在する。

 対人関係などで浴びる嫉妬や支配、それらが化けたローカルルールといったものはその代表格。

 

 ローカルルールとは、常識のフリをした私情が相手を支配しようとすること。

 いわゆる支配というのは、身の丈に合わない概念や言葉を持ってきて、私たちの「役割」を奪い去ってしまうことです。

 

 「責任」やそれにともない「罪悪感」というのは最もよく用いられる支配の道具の一つです。

 

 

 

 「責任」という言葉が過剰に用いられると、「役割」は失われて機能不全になってしまう。

 以前の記事で、「カウンセラーも免責が必要なようです。」と書きました。カウンセラーも責任から自由な状況のほうが、不思議なことに効果が出やすいことがわかってきている。
 統合失調症でさえ短期間で治る、という報告があるくらい。

(参考)→「「免責」の“条件”

 

 

 なぜ、効果が出やすいのか? については、よくわかっていませんでしたが、
「責任」ということを深めて考えていくと、その謎に迫ることができるかもしれない。
 
 
例えば、カウンセラーの「役割(機能)」というのは、本来は、

 ・そこに存在すること(それによって、クライアントは「安心安全」を得る)
 ・クライアントを苦しめているローカルルールからクライアントを切り離し、本来の社会とつなげる。(それによって「関係」を回復する)
 ・上の二つための入口、媒介となる。
  ※心理療法は、これらを助けるための単なる道具。
 
といったことが考えられる。

 しかし、

 ・(お金をいただいているからには)早く良くしなければならない
 ・難しいクライアントを怒らせてはならない

 ・クライアントに責められる
 ・首尾よく、改善しなかった場合にクレームになると困る
 ・医師やスーパーバイザーの評価が気になる

 といった「責任」がのしかかってくると
 「機能不全」を起こし始め、徐々に「役割」が果たせなくなってしまう。

 

 
 反対に、うまくいっているケースというのは、クライアントとの「関係」が良いことから、「役割(機能)」が発揮される。

 心理療法自体の効果というのは、あくまで「関係」とその先にある「役割」発揮を助けるきっかけでしかないのかもしれない。

 実際に、よく知られた研究では、
 治療効果に与える、心理療法の割合は、15%程度でしかないとされている。

 クライアントとの「関係」のほうがずっと大事とされる。
 

 

 それは「関係」によって、カウンセリングの「役割(機能)」が発揮されることを示している。

 

 

 境界性パーソナリティ障害など
 かんしゃくを起こしたりして治療者を責める他責的なクライアントが「難しい」のは、治療関係に「責任」の呪縛をかけてしまうから。

 治療者を非難したり、振り回したりして、「責任」のプレッシャーをかければかけるほど、反比例して効果は下がる。
 だから、なかなか良くならない。

 そのクライアントも、実は本心ではなく、養育環境での呪縛でそのようにさせられているだけ。
 「I’m OK」を得るために、「You’r NOT OK」として相手に自分にのしかかっている「責任」を渡そうとして他責的になっている。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 

 このように考えると、「無責任(免責された状態)」をいかに作り出すかは、とても大切。

 

 “名人”と呼ばれるような名医は、治療に行き詰まると、
 「う~ん、なぜよくならないかわからないね~~。なぜだろう?」とクライアントにわざと正直に白状したりする。

 すると、治療の膠着状態が解かれて難しいケースが不思議なことに前進することがあるという。
 「責任」の呪縛、機能不全に陥るのをうまく回避して、「役割(機能)」が発揮されるようにしていると考えられる。

 

 「無責任」というのは、実はとても大切。

 

 
 以上のことは、治療者側を例にしていますが、
 「無責任(役割・機能を発揮する)」の効果は、私たちすべてに当てはまります。

 
 私たちがよりよく生きていくためには、
 「責任」は棄てて、「役割」を発揮させることが必要。

 生きづらさとは、「過責任」がもたらしたものであることは、社会学などでも指摘されている(関係性の個人化)。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 「責任」といったビックワードはかくも、私たちを機能不全に陥らせてしまうもの。

 

 私たちは養育環境など、これまで生きてくる中で、「責任」を過剰に背負って生きている。それで生きづらくなり、力を発揮できない。

 例えば、

 「両親が不機嫌なのは自分がいい子ではなかったからだ(自分の責任)」

 「友達を怒らせたのは自分の存在がいけないからだ(自分の責任)」

 「上司が期限が悪いのは、自分がどんくさいからだ(自分の責任)」

これらは、すべて「責任」というニセモノ。

 

 ただ、「責任」(ニセの責任)が捨てれないのは、それを捨ててしまったら、自分が堕落してしまうかも、といった恐怖があるから。

 
 実はそれも「責任」がもたらす幻想。

 「責任」を捨てて「無責任」になってしまったら、いい加減で無秩序になるのではありません。むしろ、本来の「役割(機能)」が発揮されて、社会とつながることができる。

 

 
 例えば、すごくプレッシャーのかかる仕事で、追い詰められて追い詰められてうまくいかず、最後に開き直ったらうまくいった。
というのはよく聞く話です。

 スポーツ選手など、試合に勝つためにストイックに責任を感じて煮詰まっていると、あるときコーチなどから、「もっと楽しんだら?」といわれて、ハッとなって、本来のパフォーマンスが発揮される、
というのもよくあります。

 

 

 「責任」があるほうが良い、と思っていますが、「愛」とおなじくそれはまったくの幻想で、本当は、「責任」こそが力を奪っている。

 

 本来の意味で「責任を果たす」とか「責任を取る」というのは、「公的な役割」を意識して、没頭すること。「責任」なんていう概念を持ち出す必要はどこにもない。

 

 逆に、「責任」というのはプライベートな人格にまで侵食して責任を問おうとする性質から、「公的な役割」に集中することを阻み、公私をあいまいにする。
 仕事の失敗が、あたかも自分の存在をすべて消し去るかのような恐怖を与えてきます。
 公私があいまいな状況というのは私たちをおかしくする。本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 こう考えると、私たちが感じる「責任」とは、実はローカルルールの一種であることが見えてくる。あらゆる「責任」それ自体がニセモノ。

 

 

 事実、「責任」といったものを感じているときと、「役割」を感じているとき(例えば仕事に没頭しているときのすがすがしさ)とを身体感覚で比べてみるとその違いがわかります。
 

 「責任」の気持ち悪さ。居心地の悪さたるやない。

 
 反対に、「役割(機能)」の場合はとても心地が良い。

 よく、「あの人はなぜ、あのように状況で役割を果たせたのだろう?」と思うようなケースがありますが、(消防士とか、乗務員とかが、危険を顧みず人を助けたり) あれは、「役割」を果たす感覚なのかもしれない。

 

 反対に、「なぜ、あの人は責任逃れのような卑劣な行為をしたのか?」という場合は、「責任」にとらわれた結果の行為なのかもしれない。

 

 

 私たちの生きづらさの大きな原因の一つは「責任」という、一見大切だけど、まったくのニセモノの概念にありそう。

 
 日常で、もし「責任」を感じたら、「そんなもの要らない」と完全に捨ててみる。

「無責任になって、いい加減な人になるのでは?」と思ったら、それも捨ててみる。大丈夫、心配いりません。

「無責任」になることで、本来の「役割」が浮き上がって来ますから。

 「役割」の心地よさ、機能する状態のすがすがしさを体感してみる。

 

 呪縛が取れた身体の軽さ、本当の意味での社会とのつながりの回復、湧き上がってくる自尊心、信頼感といったものを感じることができます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

トラウマを負った人の特徴としては、「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」があります。

 

「関係念慮」とは、本来自分に関係のないことが関係あると思えたり、することです。特に、対人関係で生じることが多く、だれかが、自分のことを悪く言っている、貶めようとしている、ととらえてしまうことです。程度が重くなれば、「妄想」となります。
実は、「関係念慮(妄想)」は特殊なことではなく、日常の中で誰でも経験しています。
芸人のネタではありませんが、「もしかしてあの人は、私のこと好きで誘っているんじゃないの??」といったことから、「この仕事で成功したら、役員に目をかけてもらえるかも?」といったことまで、いろいろな想像を普段からしているものです。

 

 

人間の意識は同心円でグラデーションのようになっていって、現実-想像-妄想 と距離が遠くなると、怪しくなっていくものです。

 

さらに、人間の頭には邪念というものが渦巻いています。Wifiのように、そうした意識が飛び交っているのが対人関係の場、です。

相手考えている、様々な邪念や意識を、人間は薄々キャッチして感じ取ることがあります。これは、「ノイズ」と言えるものです。

 

 

普段、健康な状態にある人、安定型愛着の人は、その「ノイズ」をキャンセリングすることができます。例えば、仕事やプライベートで「もしかしたら、あの人に嫌われたのかも?」と思っても、それを打ち消すことができます。
脳のコンディションも影響しますし、愛着(頭の中で、家族や知人が自分を支えてくれている絆)も影響します。
「そんなことはない」と思えるわけです。

 

しかし、トラウマによって、脳がダメージを受けてコンディションが下がっていて、さらに、愛着も不安定な状態の場合、そうした「ノイズ」を打ち消すことができません。

 

また、「自他未分」で自他の区別がついていないことも手伝って、「ノイズ」が自分のものではない、とは思えずに、自分のものと真に受けてしまいます。
そのため、環境から受け取る「ノイズ」をそのまま受けるようになり、それが「関係念慮(被害妄想)」となってしまうのです。

 

さらに、「解離(人格のスイッチ)」という現象も起きやすいために、これまでの養育環境で刷り込まれたローカルルールの世界観でフィルタして解釈するために、「ノイズ」以外の情報についても歪められてしまいます。

(人格のスイッチというのは多重人格という意味ではなく、私たちの意識はモジュールに分かれているとされ、誰にでも生じます。)

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

ちょっとした振る舞いで相手から馬鹿にされたと勘違いしたり、相手をこき下ろして、自分を守ろうとします。

場合によっては、「視線恐怖」や「自己臭恐怖」「身体醜形恐怖」のような状態になることもあります。

 

 

医師やカウンセラーに対しても、同様に疑ったり、ちょっとした振る舞いを悪意と受け取って、クレームをつけたりして、治療関係を悪化させてしまいます。

 

 

俗に、“境界性パーソナリティ障害”とは、まさにこのような状態で、「ノイズ」をキャンセルできないために、あるいは解離した人格が情報をゆがめて解釈するのでちょっとしたことで混乱してしまうのです。
「あの人は、いつも私を貶めようとしている」
「あの先生はひどいことをした」

といったことは、実は“症状”なのです。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 

 

こうした状態を避けるためには、まずは「関係念慮」というものがある、ということを知ること、頭に浮かぶ雑念、疑念は、ノイズとして環境からもたらされるもの(≒自分のものではない。外側から来たもの)だと知ること。「解離(人格のスイッチ)」という現象が存在することを知ることです。

そのうえで、自分だけではどうしようもないので、ちゃんとしたセラピーを受けることも必要になってきます。

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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