理由を考えてはいけない。

 

 自分が理不尽な状態にあった時、私たちは、自分はなぜそんな目にあったのか?と理由を考えようとします。

 「自分がダメな人間だから、舐められたのかな?」とか、
 「自分が失礼なこと、不愉快なことをしたから、相手が怒ったのかな」

 などなど

 

 トラウマを負った人には、「過剰な客観性」がありますから、
 本人は、客観的に理解しようとして、理由を探します。

(参考)「過剰な客観性」

 

 

 そうすると、かならず、「自分が悪い(I’m NOT OK)」というところに帰結してしまいます。
 

 なぜなら、その理不尽な状況というのはしばしばニセの公的な領域であり、その特徴の一つは、「敵(You are NOT OK)を作る」ということにあるからです。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 「過剰な客観性」があるため、私的情動を公的領域だと偽っているものも、「それは客観的な事実に違いない」と錯覚して受け取るようになってしまいます。
 

そのため理由を考えてしまうと、結局自分が悪い、ということに至る。
 

 もう一つよくあるケースでは、
 現時点には「ニセの公的領域」がない場面でも、過去に自分が内面化した「ニセの公的領域」が反応して、相手の反応を誤って捉えてしまう、という場合もあります。
 

 

 例えば、相手の中立な反応に
 「自分がないがしろにされた」とか、「自分が否定された」「バカにされた」と感じてしまうようなことです。

 
 不安を強く感じているときに、
 カーテンを見て、幽霊だと感じるようなことです。

 
 これも、過去に親や学校、職場などで受けた理不尽な仕打ちに対して、理由を考えて、そして「反省」して、そのニセの公的領域の「規範」を内面化したために起きている現象です。

 

 規範に引っかかるような、当時と似た反応に接すると、
 自動的に「あなたはだめだ((You are NOT OK))」というメッセージとして受け取ってしまうようになります。

 

 ひどくなると、「関係妄想」と呼ばれる症状に至ります。
「関係妄想」とは、頭がおかしな人がなる、というものではありません。公的領域から切り離されて「安心安全」がなくなれば、誰でもそうなります。
 (例えば、世間からバッシングを浴びた著名人が、人間不信に陥った、というようなことはこうした例の一つです)

 

 

 

 では、どうすればよいのか?

 理不尽に接したら、理由を考えるのではなく、“しくみ”を知る ということです。

 例えば、
 ・この世の中には客観というものは存在せず、主観のぶつかり合いでしかない。
 ・社会には支配欲や嫉妬というノイズが渦巻いているもの。
 ・「ニセの公的領域」はあるし、それは敵を作り出すという特徴を持つ。
 ・ノイズを客観として真に受けてしまうと、疑心と恐怖の世界とつながってしまう。
 ・反対に、ノイズをクリアにした先には信頼の世界がある。

 など 

 そのうえで、沸き起こる「I’m NOT OK」でさえ、それは、「ニセの公的領域」の特徴なのだと理解して、スルーする。

 
 「本当の世の中は多元的で、自分がおかしいというような判定は決してなされない」
 「自分は他と同様に素晴らしい」 
 

 ということをしっかりと踏まえることです。

 そうしていると、徐々に、世界がありのままに見えてくるようになります。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

物理的な現実への信頼

 

 数年前、科学の論文の不正事件が世間を騒がせたことがありました。週刊誌やワイドショーでも取り上げられていました。
 世紀の大発見であったものが、単なる不正、トリックではないか、ということでその落差もあってか、世間から大バッシングとなりました。

 その論文にかかわった、とても優秀な研究者が、事件のさなかにあえなく首を吊って自殺されたことを覚えています。非常に実績があって、論文の作成では天才的ともいえる能力があったそうです。

 

 客観的に見れば、「一流大学を出て」「頭もよくて」「科学の世界で実績があって」ということです。
 事件に巻き込まれたとしても、十分立ち直ることはできます。自殺する必要はないように思います。

 しかし、おそらくその方にとっては、自分の評判、イメージが崩れたことが死に相当するようなことであり、自殺するしかなくなってしまったのかもしれません。

 

 カウンセリングを行っていても、非常に学歴も高くて、良い会社に勤めていて、という方が、自信がなくてお悩みであることは珍しくありません。

 傍から見れば、「大丈夫ですよ」と思いますが、ご本人からするとそうは思えない。
 「~~もダメで、~~もダメで」という風に本人は思わされてしまっている。
 

 カウンセラーに言わせれば、養育環境で刷り込まれた「負の暗示」の影響、ということになります。負の暗示のせいで、自分がおかしいと思わされている。
 悩みを解決するためにはそれらを変えればいい、ということでそのお手伝いをするのがカウンセラーの仕事、ということになっています。

 

 ただ、うまくいかないことも多い。なぜでしょうか?
 

 昔から、精神の力で現実を変えよう、変えることができないか、という取り組みはなされてきました。願望実現などもその一つでしょうか。

 ただ、いくらポジティブに考えても現実は思うようには変わってくれない、ということで、その試みは敗れてしまいます。

 カウンセリングでも、考え方を変えよう、と取り組んでみますが、なかなか容易には変えられず、「やっぱり駄目でした・・」ということも珍しくありません。

 

 

 人間にとって現実とは何か?ということについては古代から研究されてきています。

 

 その中で20世紀に哲学者フッサールが始めた現象学という哲学があります。

 現象学とは、人間にとっての認識の構造を明らかにしようとしていて、主観と客観とを統合してそのしくみを理解しようとします。世界は、最初から客観としてあるというよりは、主観が持つ志向によって現われてくるものとします。

 ただ、主観的であればなんでも自分の思い通りに現実を構成できるか、といえば、そうではなく、物理的な現実は主観を「ねじ伏せるように」立ち現れるとします。

 

 簡単に言えば、目の前に壁があった時に、いくら「壁はない」と思っても、すり抜けることはできず、その思いをあたかも「ねじ伏せるように」私たちに立ちふさがってきます。
 ただ、それによって、主観は修正されて、「ここには壁がある」というように現実をありのままにとらえることができます。

 物理的な存在は主観が暴走して妄想のような状態になることを防いでくれます。

 

 こうしたことを繰り返して、私たち人間は現実をうまく認識して、適応していくことができるようになります。

 

 悩みを持つ人にとって「物理的な現実」というのは、「容易に変わらない冷酷なもの」というイメージがあるかと思います。

「物理的現実」というのは、「冷たい」「見たくないもの」というイメージかもしれません。

 

 悩みの原因は、やはり「物理的な現実」なのだ、と思ってしまいます。

 だから考え方を変えて、その現実の解釈を変えたり、不思議な力で現実そのものを変えるのだ、と。

 セラピーもそのためにあるのだ、と。

 

 でも、それは間違っているのかもしれない。

 

 

 実は、負の暗示を良い暗示に変えようとする営み自体が私たちの悩みの根幹を生み出している、ということが見えてきます。

 

 

 例えば、子どものに対して否定的な親がいるとします。

 本来であれば、無垢でかわいい子供に対して、ありのままをみずに、「お前は~~だ」「お前のこういうところが嫌いだ」「ダメだ」といって 接します。
 
 そうしたことが繰り返されることで、子どもは負の暗示を背負います。

 
 認知療法などでは、負の暗示を正の暗示に変えようとする。

 
 ただ、「悪いイメージ」→「良いイメージ」に、というように、いわゆる「観念、空想の世界」の中でのやりとりになるので、また、何かの拍子で自信が失われることもある。

 認知を変えると確かに感覚は軽くなるし、効果は確かめられているのですが、根本的なところの自信は今一歩、という感覚になることがある。

 それは、「観念、空想の世界」での改善だから。

 イメージ、観念を変えただけだからまた、心無い言葉をかけられると、オセロのように簡単に変わってしまうことがある。結果、良くなるんだけど、なかなか良くなりきらない、ということが起こる。

 

 一方、本当によくなるケースもある。
 その場合、無理によいイメージに変える、というよりは、素直にシンプルに自分の良さを知るようになるようなイメージ。本質的に改善されて、生きづらさがなくなって、楽になる。

 

 両者の違いは何か?といえば
 

  「負の暗示」から「正の暗示」ではなく、
  「負の暗示」から「物理的な現実への信頼」へ ということであるということです。

 

 上の例でいえば、無垢でかわいい子供、であるという「物理的な現実」は親がいくらひどい言葉でゆがめようとしても、結局は変わらないわけで、そのことを知る、感じる、信頼するということ。

 学歴も能力もあるのに、なぜか自信がない、という人がいれば、「物理的な現実」を信頼する、ということ。

 

 実際に、「物理的な現実への信頼」は、難ケースを解決していくことが知られています。

 

 依存症などの回復プロセスとして有名な「底をつき体験」というものがあります。

 アルコールなどに依存して、会社にも行けなくなって、家族からもバカにされて、というようなボロボロの状態になっていて、通常のカウンセリングでは太刀打ちできない。

 「ボロボロの自分」を、「良いイメージの自分」に変えようとしてもダメで、またすぐに元に戻ってしまう。

 お酒やお金を隠したり、周りからサポートされてもうまくいかない。また依存行為を繰り返して、見放されてしまう。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 でも、ダメな自分をすべて出していって、うけいれていくと、あるとき、

 「あれ?これ、自分でどうのこうのしようとしてもダメじゃないか。もう何かわからないけど任せるしかない」と感じるようになり、
「ああ、そうか、結局、自分は自分でしかないんじゃないか」と感じるようになる(底をつく)。
 

 ひどい負の暗示に巻き込まれていた子供が、結局、何を言っても「無垢でかわいい子供」でしかない現実があるように、依存症という手ごわい症状にさいなまれていて、社会的な名誉を失うほどになったとしても、「生命体としての自分」という現実は変わらない。

 
 社会的に何かを為した人とそうではない人とではもちろん名声は異なりますが、ふとしたことで誰でも転落するし、大きな病気をしてあっという間に命を落とすかもしれない、裸になれば結局だれでも一緒。

 
 自分は自分でしかないんじゃないか。

 

 社会の中でひどいことを言ってくる相手は、結局、嫉妬や不安をこちらにぶつけてきただけで、そこから発せられる言葉は、神の言葉のように思っていたけど、単なる一個体の鳴き声でしかないのではないか、と気がついてくる。

 

 これまでは、本などを読んで「良い自己イメージ」を持とう、持たなければ、と思っていたけど、そんなことは必要ない。

「物理的な現実」である自分は自分でしかなく、そこを信頼すればいいだけだ、と思えるようになる。

 
 「物理的な現実」は自分にとって願望実現の邪魔者ではなくて、世の中を生きる中で浴びるノイズやハラスメントの防波堤となってくれる。

 

 白鳥に向かって「お前はアヒルだ」といわれても、現実の白鳥は「現実には白鳥なんですけど、あなたはなんでそんなこと言うのですか?」

と一言いえば、ハラスメントを仕掛けてくる相手は何も言えなくなる。

 現象学もいうように、現実は観念をねじ伏せるように立ちはだかる、からです。

 

 会社で「お前はクズだ」といわれても、物理的な現実はクズではなく対等な人間なのですから、現実を信頼すると、物理的な現実がその言葉をねじ伏せてくれます。
(さらに、その後押しをしてくれるものが「愛着」というなのOSなのですが)

 

 仏陀も、肉体を滅却するような荒行を否定したのもそういうことかもしれません。
 気功とか瞑想においては、身体は邪魔なものではなくて、アンカーとなる必要なものとされます。

 

 心理療法においても、観念を操作するようなセラピーは結局、弱い。

 

 実際に、物理的な現実をありのままに見れると、しばしば自分の本当に願うものが向こうからやってきます。

 「物理的な現実」を信頼することの自然さ、シンプルさ、そして強さ
 

 トラウマが取れてくると、そんな景色が見えてきます。

 

 

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関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 私たちが海外旅行に行った際にしばしば経験することですが、飲食店の人が日本のように愛想がありません。

 笑顔がなく、ムスッとした表情で注文を訪ねてくる。飛行機の機内のフライトアテンダントでさえ、無表情だったり。

 よほど高級店で高額なお金を払うのでもなければ、笑顔で気の利いたサービスは得られないことも多い。

 

 そんなことを経験すると、「ああ、日本はいいな」と思うわけです。日本でも、小さな店でも、笑顔で愛想よくしてくれますので。

 ただ、「関係」の基本を考えていくと、どうも外国のほうが普通なのかも?と思えてきます。

 日本は世間の延長でできているためか、ご近所に愛想をするような感覚で、サービス業でも笑顔で接客してくれますが、それは当たり前ではありません。

 

 

 本来の“当たり前”とは何かというと、実は「気づかい」とは信用を得たものにのみ与えられる特別サービスであり、無料で当たり前に提供しあうものではない、ということです。

 

 

 

 私たちのコミュニケーションというのは階層状になっています。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 世界は、混とんとしていますから、すべてを信用しては危ない。また、人間も動物ですから、支配欲、攻撃欲、嫉妬、様々な私的情動にまみれてもいます。

 

 1階部分では、そのネガティブな感情も入り混じる世界で、私的情動といったノイズをキャンセルする場所です。関係する相手を選別するところです。
 自分に合わない相手、関係するタイミングではない相手とは関係を持たずさよならします。
 関係を持つにふさわしい相手であれば、1階のチェックが終わり2階に上がることができます。

 

 

 2階部分とは、公的な環境が整えられた場でそこで初めて信頼のコミュニケーションを交わすことができます。
 安心してやり取りができます。
 
 通常のコミュニケーションとは、2階部分で行います。

 さらに、その上、3階部分があります。実は、「気づかい」というのは、その3階部分で提供されるものです。

 

 

 
 3階部分では、本当に気心が知れた者同士が相手の内面(私的領域)に立ち入ることが許され、互いに気づかいをしあう場所です。
 気づかいは誰もが得られるものではありません。本当に信頼できるもの同士でなければ得られません。

 

図にすると、

 1階部分    2階部分  3階部分
 公私混沌  →  公的  → 私的 という 構造になっています。

 

 

 3階部分で交わされる、本当に気心が知れた親友同士のような「関係」というのは、特別なものです。
 それは、2階部分の公的な環境に支えられています。

 関係が停滞(腐れ縁)すると、2階の公的な環境が失われて、3階部分の私的なやり取りが悪く作用し、「相手から失礼なことを言われた」「もたれられてしんどい」というようなことになってしまいます。

 

 長く続く良い関係というのは、相手へのリスペクト(2階部分の公的環境)が土台となっていて、うまく更新、循環をしているものです。

 

 関係作りがうまい人というのは、1階での選別がしっかりしていること、1階→2階→3階 へと駆け上がるのがスムーズであるということと、なにより、2階の公的な環境を維持することが上手であるということだと思います。

 

 

 会員制の、心地の良いラウンジや、高級店を想像すればわかりやすいかと思います。

 
1階部分 会員証のチェック(入会)

      ↓

2階部分 安定した心地よいサービスの提供

      ↓

3階部分  VIPのみの特別サービス
 
 といった感じでしょうか?

 

 「人を信頼して、裏切られた!もう人と付き合いは嫌だ」「気づかいばかりでヘトヘト」となっているのは、いきなり3階部分からスタートしたり、会員制度(階層構造)がうまく機能していないお店のようなもの。

 

 

 私たちが、大人になる、大人の付き合いができる、というのは、こうした1階-2階-3階 という階層(会員制)構造を築くことだといえます。

 

 

 「そんなことしたら、高飛車になって、堅苦しくてツンツンしそう」というかもしれません。

 そんなことはありません。ツンツンにはなりません。

なぜなら、1階部分では、社交辞令(儀礼)を大事にします。
 それは具体的には、「挨拶」です。

 

 昔、筆者が会社に入って、新人研修に来たベテラン社員が、挨拶の大切さを説いた際に印象に残っている話があります。
それは、

「ニュースで、犯人が捕まった際に、近所の人が『いつもちゃんと挨拶をしてくれていい人でしたけどねぇ・・』というでしょう?捕まるくらいだから本当にいい人かどうかはわからないわけだけども、犯罪を犯したとしても、挨拶しているだけで『いい人』といわれる。そのくらい挨拶には力があります。」

ということでした。

 

 

 筆者もそうなのですが、人が苦手、挨拶が苦手だ、という人は、挨拶に、3階部分で行うような「気遣い」「相手の内面に立ち入る」といったことを盛り込んでいるからではないかと思います。だから疲れて嫌になってくる。

 挨拶というのは、「気づかい」などは盛り込まず(心もこめず)、形式的に、でもたくさん、しっかり行う。

 外交儀礼ですから、心を込めなくてもいい。形こそが大事。

 

 
 子どものころ、大人を見て、外面ばかりで嫌だな、と思っていましたが、でも悔しいけれども、儀礼は大事。

 
 トラウマを負った人の多くは、「心こそが大事」ととらえ、どちらかというと形を軽んじ、さらに、1階-2階-3階 という構造がなく、いきなり、3階部分の「気づかい」を1階部分に持ち込んで、人と接しようと思います。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 でも、人間世界はそのようにはできていないため、冷たくあしらわれて、心がへとへとになって、傷つくのです。

 例えていうなら、外国の税関や大使館に、形式を踏まないまま、「真心」だけで「入国させてください」とおしかけるようなもの。
「誠に申し訳ございませんが、正式な手続きを踏んでからお越しください。」といわれてしまいます。

 

 

 人間関係においてであれば、まずは挨拶からスタートして、信頼関係ができれば親しくやり取りをする。さらに、仲良くなったら、内面に立ち入る、ということです。これを実際は早いスピードで行っています。

 

 
 どうして、トラウマを負った人は、この階層構造が転倒してしまうか?といえば、一つには、養育環境(家族)において階層構造が機能不全を起こしていた、ということです。それによって本来の構造がわからなくなってしまっている、ということ。
 もうひとつ重要な点としては、社会においては、しばしばそれを「気づかいが足りない」という言い方で表現されるため、勘違いしてしまう、ということです。

 

 実は、ここでいう「気づかい」とは、3階部分の「気づかい」ではなく、1階部分の「形式(挨拶、儀礼)」を求められているということ。

 

 
 それを、「気づかいをしないといけない(心を込めないと)」と真に受けて、本当に親しい人だけの特別サービスであるはずの「気づかい(3階部分)」を1階部分に持ってきてしまうのです。

 

 

 その結果どうなるかといえば、過剰適応でへとへとになってしまう。
 「気づかいをしているのに、なぜか認めてもらえない」。
 それどころか1階部分の形式を欠いているために「気をつかえない奴」と否定されてしまう。
 
 訳が分からなくなってしまうのです。

 

 

 本来、1階部分で大事なのは、心を込めず、軽い気持ちで形式的に挨拶。形式こそが大事。

 

 先日の記事で紹介しました外国では、もしかしたら、そういう構造がしっかりできているのかもしれません。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 皆、1階部分だ、と割り切って気軽に儀礼を交わしている。だから、人々が気楽に付き合えている。電車の中で隣り合った人が雑談をしたりする。
 (日本は〝世間”や〝空気”の社会なので、3階部分がいきなり1階に来るような転倒を起こしやすい。階層構造の転倒の果てに、恐怖症を引き起こしていることが、「対人恐怖症」の本質といえるかもしれません。)

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 1階-2階-3階という「関係」の構造が再度整理されて、慣れてくれば、1階部分から2階部分までは、かなり早いスピードで駆け上がることができます。(3階部分については、特別な人だけ、ですが。)

 

 「関係」の再構築のためには、階層構造を理解することがとても大事です。理解するだけでも、人間関係はかなり楽になります。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 

 筆者は、誰とでもうまく話せないし、知らない人と話すのは億劫に感じるし、そんな自分を責めていました。自分は人見知りなんだ、と思っていました。
 しかし、〝心”に聞くと、「人見知りではないよ」と答えてくれます。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 でも、症状としてはどう考えても人見知りだし、〝心”の答えは気休めなのかな?と思っていました。

 

 そんなあるとき、海外旅行に行ったときのことでした。

 現地に着くと「なんか日本で感じる感覚とは違うなあ」と感じます。
 
 あれこれと人を気遣うような電波のようなものを感じない。
 

 そんななか、一泊二日のミニツアーのようなもので、砂漠に行くことになりました。周りはほとんどが外国人。

 すると、最初少しは緊張しますが、でも、相手と気楽に話せたりするのです。

 「あれれ? 人見知りのはずだけど、できちゃうな。」
 人見知りとは思えないようにふるまえるのです。

 

 変に気を遣わず、本当の意味で人と関わる必要がわいてきたら関わる。
 そうでないときは、周りには関心を持たない。
 もちろん、だからといって冷たいわけではない。
 さっぱりと乾いた空気のような感じ。

 

 「〝心”が言っていたのは本当だったんだ!」と気がつきます。

 日本に帰ってくると、じっとりした人づきあいの億劫さが戻ってきてしまいましたが、ああ、人と付き合うのはこういう感覚なんだ、と面白い発見でした。

 

 

 「日本人は・・・、西洋では・・・」というようなことは古くからある安っぽい文化論であまり好ましくありませんが、しかし、事実としてあるのは、例えば「対人恐怖症」というのは、日本にしかない症状である、ということです。(特定の国にしかない症状を「文化依存性症候群」といいます。)

 

 対人恐怖には、ちょうどいい外国語訳がないのです。
 「社交不安症」がそれに該当しますが、ピッタリはハマらない。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック
 

 

 
 日本社会の特徴は、ご近所に気を遣う「世間の延長」ということもあり、過剰に人に気を使い、周囲に合わせるという傾向があります。

 

 生きづらさを抱える人ほど、そうした社会の特徴を内面化して翻弄されてしまう。

 

 社会学者の貴戸理恵氏は、不登校や引きこもりなど生きづらさを抱える人は、「「社会性」がないのではなく、むしろ社会性が過剰なのです」と指摘します。
さらに、「関係性への志向は、持っていなければならないけれども、持ちすぎてもダメなのであり、」「(「関係的な生きづらさは」)それについて深く考えてはいけないようなものを、ふと意識してのぞき込んでしまうときに、出現するのかもしれません」
と述べています。

 貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに、海外に行くと感じることですが、人に気を遣わない(関係性への志向が低い)国民性を持つ人たちのほうが、人との関係は活発に行っている。

 

 筆者がモロッコに行ったとき。“親切な”気楽なモロッコ人たちが声をかけてきて、最初はうっとおしく戸惑いましたが、慣れてくると、これは居心地がいいな、と思うようになります。
 多分、精神的な症状を抱えている人も、この国にしばらくいたら、悩みがなくなってしまうのではないか、と感じるほど。

 

 

 台湾に旅行に行った際にも驚いたのが、電車で乗り合わせた知らないおばさん同士が世間話をしている姿。
 互いに知り合いなのかと思ったら、目的地が来たら、互いにサッといなくなる。

 

 別の場面では、案内してくれた現地の知人が、マッサージ店の店主と古くからの友人と話すかのようにずっと話をしている。
 あとで、知人に「知り合いの店だったの?」と聞くと、「いいえ、はじめての店だよ」という。それを聞いてびっくり。「あの親密さは、どう見ても知り合いやん!?」と。

 日本だと余程コミュニケーションに長けた人が行うであろうことを普通の人たちが簡単に行っている。
 (その台湾人の知人も日本ではシャイになったりするのですが。対人恐怖症もそう、結局悩みはほとんどが環境に依存している。外からやってくるもの)

 

 ほかの国でも、旅行などで訪れてみると、日本人からすると、「何だこりゃ!?」ということばかり。

 

 おとなり韓国も、日本人のように過剰に気を遣うことはない。

 筆者も、学生時代にトラウマや人間不信の後遺症に苦しんでいるときに、留学した先であった韓国人たちが気楽に声をかけて、仲間に誘ってくれたことには大変助けられました。
 韓国で暮らす人の話を聞くと、日本よりも人間関係ははるかに気楽だ、とおっしゃいます。

 

 

 上記でも書きましたが、人間関係で悩む人が、それぞれに国に行ったらそれで解決してしまうのではないか?と本当に感じます。

 台湾などは、普通の人々が、生きづらさを抱える日本人が理想とする気楽なコミュニケーションを交わしてしますから。

 

 

 サッカーのワールドカップで、日本人サポーターが競技後に会場を掃除して称賛されていますが、こうしたことからみれば喜べない。

 その気遣いこそが自分の首を絞める。
 

 「別にそのままでいいじゃないか」
 「誰かが掃除してくれるよ」

 という感覚が大事ではないか。

 

 実際、“生きづらさ”といった言葉が生まれる以前の日本では、電車の床にごみを放ったりしていました。痰をホームにはいたりもしていました。※池上彰さんの番組でよく紹介される事例です。
 (日本が発展したのは日本人の気遣いのおかげではありません。当時の国際環境(資源安、冷戦、旺盛な需要など)のおかげがとても大きい。もし、気遣いが発展の原動力なら、気遣いMAXの美徳の国、現在の日本はもっと成長率が高くないとおかしい)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服
 

 

 過剰な気遣いが、今度私たちがありのままに行動することを妨げる。

 

 「対人恐怖症」が日本にしかない、ということを考えても、どうも、私たち日本人が当たり前と思っている「人間関係」観というのは、人間の標準から見て、かなり歪でおかしい「幻想」なのかもしれません。

 

 私たちは、「社会性過多」であえいでいる。そんな日本で書かれた「コミュニケーションの上達のコツ」「気づかいの極意」みたいな本などを読んだらもう大変。社会性過多の上に、もっと過剰になれ、というのですから。幻想の上に幻想を重ねるだけ。 コミュニケーションのヒントは、コミュニケーションの〝カリスマ”にではなく、海外の普通のおじさん、おばさんたちに教わったほうがいいかもしれない。

 

 

 私たちは、良い「関係」を作るためには「社会性」をもっと削がないといけない。必要なのは、「社会性」を削ぐ方法です。

 

 私たちが当たり前と思う「人間関係」観。それは本気で一度解体して、社会性の水準をぐっと下げて壊して、それから社会性を組み上げていく必要があるようです。

 

 

 

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「算数障害」

 

トラウマを負った方に多い特徴の一つとして、「算数障害」もあります。

もちろん、いわゆる「算数障害」として障害と認定されるレベルではなく、もう少し軽度で、内的なものを指します。他人との距離感や、言動を解釈する(読み)や、時間や仕事での見積もりなどが狂うということです。

 

実際、トラウマを負った方で問診の際に伺ってみると、算数が苦手な方は多いです。

 

この「算数障害」が原因となって、対人関係などで生きづらさなどが生じてしまいます。

 

 

例えば、安定型愛着の方であれば、他人との距離感は適度な距離を保つことができます。この距離感というのは、とても微妙なもので、遠すぎてもダメ(よそよそしい)、近すぎてもダメ(踏み込みすぎ)。

 

 

しかし、トラウマを負っていると、適度な距離を上手に取ることができません。自分では良いと思っても、相手からは「なんか、距離あるよね」といわれたり、「なんか、べたべたされてしんどい」となってしまいます。

自分でも、知らず知らずのうちに、相手の距離に踏み込んでしまって、傷つけられてしまって、人が怖くなってしまう、という悪循環に陥ってしまっている方もいらっしゃいます。

 

 

 

さらに、お金の計算も狂いますから、お金回りが悪くなる、ということもあります。仕事でうまくいかなくなったり、なぜか、お金が逃げて行ったり、ということが生じます。

 

仕事の見積もりも狂いますから、いつも忙しくバタバタして、仕事に追いかけられ、追い詰められている感じがします。

 

見積もりが狂いますから、将来のことが不安だ、といった「将来不安」といったことにもつながってきます。

 

 

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「過剰な客観性」

 

一元的価値観になることにも関連する影響ですが、トラウマを負った人の特徴として、「過剰な客観性」というものがあります。
自分の主観で生きているというよりも、世界という舞台の上に自分がいるという感覚。当然そこには外部に善悪、正誤のルールがあり、そこに従おうとする感覚です。

でも、そのルールを自分は「未熟さ」「至らなさ」によって知りえていない、と感じているので、自信がありません。

あるいは、そのルールを知ってそうな人に憧れたり、怖れたりするようになります。

 

 

 

過剰に客観的であるので、自分が行った行為についても、間違っていなかったか、正しかったかを判定しようとします。
自分に厳しく、ちょっとのことでは喜びません。
自責感が強く、「すみません」が口癖です。

会社で会議や、プレゼンをしていても、自分の発言が間違っていないか?浮いていないか?とどこか自信がありません。

 

 

「過剰に客観性」を重んじるために、主観的に生きている、安定型の人たちにはその場の勢いで負けてしまいます。

他人から反論されても、「正しいかどうか?」の判定に頭がグルグルして、自分の気持ちで押し通すことができずに、反論を受け入れてしまい、意見が通らなくなります。

 

 

本当は、この世には、ルールなどなく、多元的であり、主観同士のぶつかり合いですが、そうした感覚がありません。

 

 

「主観」や「感情」を意識の低いものとして嫌悪します。
自分はそうななりたくない、と思っています。でもイライラして、嫌になります。

なぜなら、それらは自分を苦しめた親や周囲の人たちが「主観的」で「感情のまま」にふるまっていたからです。
(例えば、子どものこともかまわず夫婦げんかをしていた。感情的に子どもへの対応がコロコロ変わった、など)

そうした意識の低いものからは逃れたいし、自由になりたいと願っています。

 

 

人からの誘いがあっても、常に、そうしたことを断ってよいか?恐れています。
なぜなら、「客観的に」見て、そうした誘いを断ったらチャンスが減ったり、もう次のチャンスは来ないように感じるからです。

休みでも、どういう過ごし方をしたら適切なのか?を考えて動けなくなってしまいます。結局、街を当てもなくぶらぶらして、ごまかしたりします。

自分の外に、正しい過ごし方の基準があるように感じています。

同時に、どこかむなしい感じがあります。「今ここ」を生きている感覚がありません。

 

 

思わせぶりな人の発言にも振り回されてしまい、とても気になります。占いなども、ばかばかしいと思いつつも、もしかしたら?と気になって仕方がありません。
「過剰な客観性」を持っていると、ハラスメントを行うような、相手をコントロールするタイプの人にはやられっぱなしとなります。
なぜなら、そういう人たちは、相手をコントロールするためのポイントを心得ていて、 自分の都合の良いようにゴールポストを動かし続けるからです。

 

「過剰な客観性」にとっては、ゴールポストは絶対ですから、動かされていることに気が付かずに、自分の蹴ったシュートが外れたことを指摘されて落ち込み、相手のゴールは常に入ることを見て自信を無くして、相手のほうが正しいと思わされ、支配されてしまうのです。

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 
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お悩みの原因や解決方法について

 

家庭や職場の理不尽さのもう一つの理由~いじめの社会理論

 

職場や家庭の中のハラスメント行為の原因のもう一つは、「いじめの社会理論」と呼ばれる原理によるものです。

これは社会学者の内藤朝雄氏が明らかにしているものです。

→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

簡単に言えば、学校、職場、家庭などのローカルな共同体のゆがんだ秩序(群生秩序)がもたらす理不尽な行為です。

社会での汎用的な原理ではなく、その場での力関係が生み出す「ノリ」で決められたルールが支配する状況です。

その状況にあると、まともな人でも感染するようにおかしくなり、そのノリに当てはまらない人を苛烈にいじめるようになります。

 

家庭の場合は、「機能不全家族」がまさにそうですし、

→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

職場の場合は、「ブラック会社」と呼ばれる環境がまさにそうです。

 

 

もともと自責感の強い人をターゲットに、相手のせいにして正当化するため、あることないこと取り上げて責め立てます。

 

 

こうした状況から逃れるためには、環境を変えることももちろんですが、多くの人(特に管理職や親などが)がメカニズムを知ることも大切です。

管理職や親がまさに主犯である場合は、環境から逃れるしかありません。

 

「悩みはその人の内にある」という間違ったテーゼを信じていると、いつまでもその環境にとどまり、内省し続けることになります。

社会学者も明らかにしているように、家庭や職場の生きづらさもすべて外からやってくるものなのです。そのことにそろそろ気づく必要があるようです。

 

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親に検査を受けさせたい。

前回の記事で、愛せない裏にある、疾患、障害(=失調、いわゆる障がい者という意味ではありません。)についてお伝えさせていただきました。

そのように書きますと、当然のこととして、「では、検査やカウンセリングを受けさせた方がいいのでしょうか?」とおっしゃる方もいらっしゃいます。

結論から言えば、本人が望めば受けてみてもいいけど、必ずしも必要ない、ということになります。
(認知症など器質的な問題についてはちゃんと受けた方がいいと思います。)

なぜかというと、ご本人にお会いしなくても、ある程度、医師やカウンセラーが概要を伺えば、その可能性を見立てることはできますし、その見立てや理解してもらったこと自体が、これまでのわだかまりを一定程度解消させる力があるからです。

極端に言えば、現行の発達検査も絶対完璧ではありませんし、答え合わせができないので、本当にそうかどうかまではわからない、ということもあります。
また、本人が望まなければ受けさせることはできない、という現実的な問題もあります。

当事者が、納得する材料や適切な対応方針を知るために、その可能性を知っておく、ということが大切になります。知っていれば、自分自身が適切なカウンセリングを選ぶ材料にもなります。

 

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「人格障害(パーソナリティ障害)」も実は存在しない?

 

人格というと、「人格障害(パーソナリティ障害)」ということも気になります。

「いわゆる人格がない」というのであれば、「では、パーソナリティ障害っていうのはどうなの?」と疑問に思います。

パーソナリティ障害とは、もともと「境界例」と呼ばれた既存の分類に当てはまらない、神経症と精神疾患との間にあるようなケースをとらえるために便宜的にできたものです。
科学的な実験からスタートしたわけではありません。
そもそも、「パーソナリティ」というのが脳のどの部位にあるのかもよくわからないのですから、「パーソナリティ障害」というのは、何が障害されているのかもよくはわかりません。

そのため、最近では、「パーソナリティ障害」ということ自体に異議を唱える医師も少なくありません。

→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

確かに、当初は使い勝手がよかったのですが、よくよく突き詰めてみると、肝心のことが見えなくなる。
また、「パーソナリティ障害」と診断しても、それほどの解決策にならず、場合によっては単なるスティグマとなり、解決の妨げにもなりえる。

 

それよりも「甲状腺などの身体疾患」「発達障害」「愛着障害」「双極性障害」「家族関係」といった切り口でとらえたほうが、問題の実態に迫れるのでは、とされます。

どうやら、「パーソナリティ」とは問題の原因ではなくて、様々な問題の影響の結果、私たちが素朴に「パーソナリティ」と感じるものがゆがめられてしまう、ということのようです。

例えば、養育環境の影響。とてもひどい親族に囲まれている人は少なくありませんが、その結果、イライラしたり、人を信頼できずに不安定になったり、ということはあります。

環境が変われば、その方は穏やかになり、人にも優しくなっていきます。

しかし、これはパーソナリティが障害されているのでしょうか?

それよりも、養育環境の影響、ととらえたほうがよほど正しい。このようにみても、パーソナリティとはとてもあいまいなものであることがわかります。

パーソナリティととらえられるものは、環境の影響でいかほどにも変わってしまう。

自他の区別はとてもあいまいなのです。

 

 

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ニセ成熟は「感情」が苦手

ニセ成熟の状態の人は、「感情」というものをとても嫌います。

感情的な人は苦手です。「あんな自分勝手に感情を表に出すような人には絶対になりたくない」と思っています。

軽蔑して、嫌悪しています。

しかし、感情を強く怖れてもいます。肝が冷えるというのは、このことか、と思うくらいに恐怖を感じます。

 

感情的に迫られると、頭が解離(ボーっとして)してしまって、対処することができません。

そして、状況が去ってから、怒りがわいてきたり、恐れから相手を頭の中でコテンパンにこき下ろしてしまいます。

 

あんな人になりたくない、が原動力ですから、自分の感情も殺そうとします。

人へのネガティブな意識はなくそうと研さんに励みます。でもうまくいきません。自然な感情なのですから、当然と言えば当然です。

 

あんな人になりたくない、というモデルは多くの場合親です。理不尽な父、感情的な母になりたくない、と思います。

 

ただ、感情を嫌悪して、殺した結果どうなるか?

我を出す人、感情を出す人にやられっぱなしになります。

場合によっては、モラハラをされて、とことん評価を下げられてしまいます。

 

実は、感情というのは、自我(エゴ)を成立させる武器でもあるからです。そのため、ニセ成熟の人は、エゴが十分に育ってしないことがあります。自分が何をしたいのかがわかりません。

感情というのは、さながら、免疫(警察や軍隊)のような存在です。

 

感情は3つの大きな働きをします。一つは、記憶の処理。経験した出来事を意味づけして、処理していくこと。

二つ目は、環境からのストレスを中和すること。

三つ目は、相手とのチューニング(信頼関係を結ぶ)をすること。

 

感情が十分に社会化して扱いやすくなっていることで、扁桃体がストレスフルな記憶でも処理をしてくれるようになります。しかし、感情を殺していると、それがうまく働かなくて、人よりもトラウマを受けやすくなります。

具体的には、嫌な出来事がいつまでも頭に残り続けて、一人反省会(もっと、~~しておけばよかった。私のバカ!)、一人復讐(あんな失礼なことを言ってきて、あの人は頭がおかしいに違いない、あんな人を世の中にのさばらせてはいけない!)、一人予行演習(次に失礼なことを言われたら~~しよう)を繰り返します。

急に嫌な記憶がよみがえってきて、「いや~!」といてもたってもいられなくなります。

 

感情が正しく使えていると、嫌な出来事など環境からのストレスを感じても、その感情や嫌な感じを正しく感じて、意味づけし、中和して処理することができます。そのため、ストレスにも強く、自分から距離を離して守ることができます。

 

感情が正しく使えていると、特に感情的な相手ともチューニング(信頼関係)が取れるようになります。

感情的な相手には、こちらも意識-無意識的に感情的に関わる必要があります。感情的な相手に冷静に対応すると、相手は「自分が尊重されていない」「バカにされている」と思って、余計に感情的になります。

自分は相手とは適切な距離を取りつつも、感情を発揮して、相手の感情を受け止めて中和することで「分かってもらえている」と感じさせることができます。

以上は、理屈ですが、しかし、ニセ成熟の人たちは、多くはトラウマを負っているために、感情的なものに触れると、恐れがわいてきて、解離してしまうのです。頭で分かっていても、対処できなくなってしまいます。

そして、能面のようになり、頭では「冷静に対応している」つもりですが、相手からは馬鹿にされていると思われて、さらに攻撃されやり込められてしまいます。

 

通常の発達(成熟)ルートであれば、感情について理解し、学ぶための機会を経験しています。

例えば、学校での友達付き合い、部活での上限関係など。

(この「学校」というのも曲者で、かなり問題が多いものです。詳しくは「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」をどうぞ)

ただ、それらをうまく経験できずに、いじめ、夫婦喧嘩の目撃など間違った人間関係の波にもまれてしまうと、それをクリアできず、仕方なく迂回ルートとして感情を嫌悪するニセ成熟を取らざるを得ないのです。

 

 

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