モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 例えば、

 家庭や会社にいて「怒られるのではないか」「自分に対して否定的なことを言われるのではないか」とビクビクしたりすることがある。

 もちろん、いわゆるブラック会社や、機能不全家族ではなく、比較的落ち着いた職場であり、穏やかな家庭の話です。
 そのため、実際に怒られたり、失礼なことを言われることというのはありません。 

 でも、おどおどしたり、何やら落ち着かない気持ちで、自信がない。

 感覚としては、まわりは穏やかな平和な世界なのに、
 なぜか自分だけが、不思議なおかしな世界観の中にとどまっている。

 そして、あるはずもない脅威やよく考えれば、おかしなルールにおびえている。
 

 

 旧来の臨床心理の考え方でいえば、過去の記憶や信念が残っているから、無意識の作用で、と捉えられてしまいます。
 確かにそうとも言えますが、、、どうも違う。

 自分全体がおかしな世界観の中におかれている感覚があります。

 おかしなルールにおびえていて、
 例えば、
 「自分が何かを言えばおかしく誤解されて、捻じ曲げられてしまうのではないか」とか、
 「本音を言ったら、おかしな自分がばれて、否定(抹殺)されてしまう」といったことが頭にあって、
 そうしたことから動いている。

 
 すると、人から言われたことが頭を離れなくなったり、
 はっきりとモノをいう人がとても怖かったりする。

 自分自身のことではなくても、何かを断られると、頭を殴られたようにボーっとしてくらくらして、恐怖が襲ってくる。
 相手の人間がサイコパスか凶悪犯か何かのように思えてくる。徹底的にこき下ろしたくなる。
 
 
 

 別のケースでは、
 不機嫌な相手や、急に理不尽な文句を言われたりすることはだれにでも経験があるかと思います。 
 厄介なのは、理不尽な文句というのはだいたい7割が妄想で、現実にあったことに基づいて尾ひれをつけて7割と結び付けられていたりすること。

 波風を立てない方法としては、とりあえず謝ったりすることになる。
 
 それだけであればよいのですが、相手が持つローカルルールの世界に引きずり込まれるようにして、自分も力を奪われてしまう感覚があります。
 相手の世界観に巻き込まれてしまう。

 相手のローカルルールの中では、自分は最低の人間で、どうしようもないやつで、礼儀のない、相手の気持ちがわからない、仕事もできない、失礼な人間、ということにさせられて、因縁をつけられ、“事実”を盾に、そこから抜け出せなくさせられてしまう。

 

 

 

 以前の記事にも書きましたが、ローカルルールの特徴として、根拠がとても薄弱なため、巻き込まれる人がいないとその存在を維持できないということがあります。そのためローカルルールは人間のモジュール(人格)という単位に感染して、あたかも自律的な生き物(人格)であるかのように、自らを守ろうとして他者(本人自身も)を巻き込み、感染させようと働くのです。※コンピュータウイルスが、まさに「ウイルス」と呼ばれあたかも生き物のように動作するのと似ています。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールが巻き込む方法は様々です。手を変え品を変えてやってきます。

 冒頭に書いたようなフラッシュバックや不安、恐怖といった悩みという姿もそうですが、本音と称して、自らの世界観を披露したり、他者の欠点をでっちあげて、ゆさぶったり、やっかいなことに不吉な予言をしてきたり、呪いをかけることで、未来も奪おうとしたり、などなど。

 
 明らかにおかしいとわかることであればよいのですが、“常識”を偽装するので、気が付かないまま根付いてしまうことがある。

 ちょっとした刺激で私たちは解離して、ローカルルールの世界観に巻き込まれてしまう。

 

 

 ここで理解が必要なのは、私たちの誰もが持つ「解離」という現象です。
 
 
 「解離(発作とも呼ばれますが)」というのは、単に信念というレベルではなく、モジュール(人格)という単位で生じる。 

 私たちの多くは、いわゆる多重人格ではありませんから、人格というのは意識することはありませんが、脳科学などの研究(神経ネットワークモデル)では、私たち人間は複数のジュールの束でできていて、それをたばねて、同一の人間だ、と認識しているとされます。

 スマホやパソコンに置き換えるとわかりやすいですが、裏では無数のプログラムやアプリが走っています。しかし、全体としては統制が取れた一つのマシンとして認識されています。

 

 作家の平野 啓一郎さんはそうした人間のありさまを「分人」として自らの考えを書籍でまとめています。 
  
 実際、私たちは、家族に見せる顔、友人に見せる顔、職場で見せる顔は自身で認識している以上に異なります。
 一つの人格が感情を切り替えているようなレベルではなく、人格(モジュール)自体が切り替わっていると考えなければならないレベルです。

 
 私たち人間はたくさんの人格(モジュール)の束でできています。そのため、私たちは一日のうちにも何回も解離をして、モジュールがスイッチしている。特に問題がないので気が付いていないだけ。

 複数のモジュールが存在すること自体はおかしなことではありません。パソコン、スマホのように、複数のアプリが並列に動作したりして、とても便利です。問題はありません。

 しかし、パソコンの調子が悪くなると、勝手にシャットダウンしたり、アプリの挙動がおかしくなったり、コンピュータウイルスに感染に感染したりするように、強いストレスを受けると人間もおかしくなってしまいます。

 アイデンティティ不安や自己不一致に陥ったり、虐待のような強いストレスにさらされてしまうと解離性同一性障害ということになったりする。

 

 こうした私たち人間の特性を考慮に置いたうえで、悩みの解決について考えると、面白いことが浮かんできます。

  
 実はある種の悩みというのは、これまで考えられてきたような信念とか無意識の力動とかそういった単位ではなく、モジュール(人格)単位でローカルルールが感染するなどして起こっていると考えたほうが適切なのではないか、ということです。

 

 だから、上に書いたように、誰かに何かを言われて、頭がボーっとする、というのは、単にストレスでダメージを負って、ということではなくて、解離して人格(モジュール)がスイッチを起こしているのかもしれない。
 何か、おかしな世界に引き込まれるようなクラーッとした感じがする。
 

 

 ローカルルールはそれ自体が自律性をもって本人や他者を感染させていきます。その際に感染するのは、頭の中の情報や信念といったレベルではなく、モジュール(人格)という単位に対してです。

 

 ローカルルールは、独立した人格のような動きをして、刺激で解離した際に前面に登場してきます。

 

 

 
 もともと人間の解離には、健康なレベルから不調なレベルまで、その性質に違いがあります。

 それはこれまで負ってきたストレスの度合いが影響している。

 解離というのは、よりよく生きるためであったり、自分を守るために生じているという面があリます。
 比較的安全で安定した環境で過ごしてきた人は、当然解離の度合いは緩やかになります。健康なレベルの解離といえます。
 緩やかというのは、日常のモジュールがスイッチしますが、統制が取れていて、問題を起こすほどではなかったりということです。刺激の閾値も低い。

 誰でも日常的に解離していますが、「解離だ」として取り上げる必要のない程度なので、従来からあるような、傾聴して、共感して、というようなカウンセリングでもよくなる。

 

 一方、ストレスの度合いが高かった人、いわゆるトラウマを負っている人は、解離の程度も大きいし、刺激の閾値も低い。

 さらに、ローカルルールの影響を抱えていたりする。
 ローカルルールに感染したモジュール(人格)をいくつも抱えていたりする。

 

 

 ローカルルールの世界観に影響されたモジュール(人格)は、ローカルルール世界を常識と捉えているのでひと工夫必要になります。

 ローカルルールに影響された人格がもたらす問題は、共感をしてもよくならない。かえって抜け出しにくくなったりする。

 なぜなら、本心は「このローカルルールを破壊してくれ!」ということだったりするのだから。

 
 でも、ローカルルールに影響されていると、周囲の人たちを巻き込むために「実は・・・」とつとつと本心らしきものを語ったり(騙ったり)する。語っている本人も騙される。その気になる。

 

 “本心”というのがローカルルールの世界に影響されたものだから、ホンモノの本心ではない。ローカルルールに影響された状態というのは、例えば「自分は人からどうしても嫌われる人間だ」ということだったりして、そこからスタートしている。

 

 “人からどうしても嫌われる人間”の告白として、本心が吐露される。

 さらに、ローカルルールに影響された人格(モジュール)の特徴としては、人格(モジュール)がスイッチしているので、スイッチする前のことは本心ではない、と認識されるため、
 「今まで語っていたことは実は本心ではなく・・・」といったりする。
 「嫌われないように、カウンセラーにもあわせてウソを言っていただけだ」といったことを言う場合もある。

 そのことで余計に、改めて語ったことが本心であるかのように感じてしまうから厄介です。

 

 そして、カウンセラーなどの治療者は職業柄、語られたことをまず受け止めようとしてしまうので、傾聴し、共感し、結果、巻き込まれて、かえってローカルルールから抜け出しにくくしてしまう。

 この構造に気づいている人(クライアントも治療者も)はほとんどいないし、信頼関係がないと、「それはローカルルールに影響されているのでは?」とはいえないので、構造がわかっていても、難しい。

 

 

 ローカルルールのもう一つの特徴としては、ローカルルールが壊されそうな刺激が入ると解離してローカルルールの世界観を守ろうとすることが起こります。
 例えば、安心安全が戻ってくるとか、人と親密になりそうになる、とかそういった状態です。良くなっていく気配がすると、解離が起こる。

 「あんなに良くなりそうだったのに・・」とちゃぶ台返しが起きて、
 「今までのは、実は違っていました・・・単によい子を演じていただけで・・」
 と“本心”の告白が始まる。治療者もそれに“共感”する。ローカルルールが壊れない。そして、抜け出しにくくなってしまう。
  

 

 実はこの解離(モジュールのスイッチ)という問題は、特殊なケースではなく、私たちの身近に頻繁に起こっていると考えられます。
 

 ローカルルールに影響されたモジュールにスイッチしているかどうかを見分けて、対処することは、より深く、本質的に治療を進めるためには避けて通れないのではないか?
 (ローカルルール以外にも、耐性人格など、モジュールにはいくつか種類があると考えられますが)
 そんな気がしています。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の”休養”とはなにか?~うつ病など心身の失調における休養の取り方

 

 今年は10連休という大型連休がありました。
 休みを楽しむ人がいる一方で、かなりの割合の人は「休みが憂鬱」というアンケートもあり、大変興味深いことだなと思いました。

 

 実は、「休む」ということはけっこうむずかしい。
 本当の休み方を知っている、という人は少ないのかもしれません。

 筆者も、昔学生時代に、長期で旅行していたことがありますが、
 本当であれば楽しいはずの旅行なのに、だんだんと、旅行が仕事のようになって来たりして、「旅行っていったい何だろう?」と思ったことがあります。

 以前、TV番組で、放送作家の小山薫堂さんが、長期の休暇を取るという場面がありましたが、「休みが義務みたい」「休みが早く終わってくれないか」とおっしゃっていました。

 

 「休暇」とか「休養」というのは思っているよりも奥が深い。

 

 

 ベッドやソファで寝ていても、なんかおちつかなくなったり、
 「リラックス」といってもどうしていいかわからなくなったり、
 「休みなさい」といわれると持て余したりしてしまいます。

 休日も、何か焦りみたいなものを感じて、しばらくしたらもう午後だ、夕方だ、となってしまう。

 休むということはなかなか大変な作業です。

 

 

 うつ病など心身の失調の場合の「休む」「休養」ということも実はかなり難しい。

 私たちは「休む」というと、布団・ベッドでただ寝ていることだ、とイメージします。
 
 病気の重さに比例して、その時間が長くなるものだとして、うつ病だと何か月も寝ていないといけない、と考えてしまう。

 

 これは実は本当の「休養」ではありません。

 

 実際に臨床の現場では、長く床に臥せていることで逆に症状が回復しにくくなったり、社会に復帰することができなくなってしまうことが知られています。
 

 

 例えば、重いうつ病であっても、半年、一年とずっと寝ていたりするものではない。
 お薬の力、医師も借りながらしっかりと睡眠をとり、栄養を補給して、体がある程度回復してきたら、ウォーキングするなどして運動などに取り組んでいく。

(参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる

 そして、2、3か月もしたら、復帰のプログラムで職場に戻っていく。
 もちろん、様子を見てもう少し休養が必要なら、1か月単位で伸ばしていきます。
  

 軽度から中度のうつ病であれば、基本休職はしない。
 仕事は続けながら、睡眠や栄養を整えて、ストレスから体を回復させていきます。 
 

 「2,3か月とは、かなり早いな」と感じるかと思いますが、専門の医師に言わせるとこのほうが良いそうです。
 早く仕事に復帰すべき、といったスパルタ的な価値観からくるものではなく、
 身体にとってはそれが一番よいからそうなっています。
 (参考:井原裕「うつの8割に薬は無意味」など)

 

 人間は、ブランクが短いほど戻るときの抵抗感も少なくなります。
 長いと、誰でも社会や仕事が怖く感じたりするようになります。
 クラウド的な存在である人間にとっては、社会から切り離されると調子はむしろ悪くなる。つながっているほうがよい。

 家がそのままで休養の場、回復の場だと考えるのは幻想だといえます。

(参考)→「家では「安心安全」は得られない。~家も機能が限定された場所の一つである。

 

 

 実際に、うつなどの精神障害、あるいは社会的ひきこもりで長く家にいる方は、家にいて安らぎを感じているわけではなく、強い焦りや居心地の悪さを抱えていたりします。
 家にいることで回復しているわけではありません。休養の取り方を誤ってしまい、足場を失い、かえって社会に戻るきっかけを失ったり、社会への恐怖が増したりといったことが起きています。
 機能不全な家庭であれば、時間を費やしても機能は自然には回復しません。巻き込まれてさらに足場を失い、自分も抜け出せなくなってしまいます。

 身体の回復のためには、寝ているだけではだめで、意図的に睡眠や食事をコントロールしてしっかり取り、有酸素運動を行って、身体のストレス応答系を戻していく必要があります。
 (その間、社会とのつながりは切らさず、タイミングを見て社会に戻っていく) 
  ※機能不全家庭で足場を失っている場合は、社会的な支援を求める必要があります。

 

 心身の失調における「休養」とはそうした行為になります。
 寝ているだけ、家にいるだけ、時間を過ごしているだけでは良くはなっていきません。
 

 このように本来、「休養」とは受動的な行為ではなく、能動的な行為です。

 

 

 

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家では「安心安全」は得られない。~家も機能が限定された場所の一つである。

 

 安心安全というときに、問題になるのは「家」の役割(機能)をどのようにとらえるのか?ということです。

 

 人間にとって、万能の安住の地というものはなく、それぞれの場所というのは限定された機能しかありません。

 

 例えば、カフェで、フルコースの料理を頼んでも出てきませんし、宿泊したくても泊まらせてもくれません。
 ある時間以上いると、だんだんと疲れたり、倦怠感を感じてきます。カフェで何日もずっといないといけなくなったら健康を害してしまうでしょう。

 職場は働くところです。ある時間までに向かい、時間内に仕事を終えて、退社します。

 美容院は髪を整えるところです。髪を整え終わったらお金を払って後にします。
 
 休日にショッピングモールやデパートに行きますが、やはり、長くいすぎると疲れてしまいます。ソファでぐったりしているお父さんたちがいたりします。 
 
 
 このように、人間にとっての「場所」とはそれぞれに限定的な機能しかなく、想定された役割や時間以上に居ることはできません。
さまざまな場所を循環するように次々と移り変わりながらトータルで「機能」が満たされるようになっています。

 

 

 「家」も同様で、一見、多機能に見えるために誤解されがちですが、限定的な機能しかありません。
(かつては、「家」は生産の場でもあり、「しごと」にあふれていましたが、今は「消費」中心でさらに限定的です。)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 家は 社会とのかかわりの中で「家」にいる人たちが役割を果たして初めて機能するもので、社会から切り離されたり、役割が果たされていないと循環が絶たれると「機能不全な場」となってしまいます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 よりはっきり言えば、家が「永続的な安心安全が得られる場所」というのは幻想です。

 

 特に、養育環境に問題があったケースや、家庭が機能不全に陥っているために心身の不調が生じている場合に、家にいてもそこでは「安心安全」は得られません。
 

 以前の記事にも書きましたが、あるクライアントさんが、活動量計で測ってみたところ、家にいるときのほうが緊張していて、外にいるときのほうがリラックスしていることがわかりました。

 ほかのクライアントさんでも、明らかに家にいるときのほうが緊張しているという方は少なくありません。
 ※家は「私的領域」という面が強く、家にいることで、機能不全な家族とつながってしまったり、解離してしまったりということが生じ、調子を崩してしまうようです。

 「家が落ち着く先である」というのは、やはり錯覚のようです。

 

 

 前回の記事でも見たように、睡眠、食事、運動も大切です。家はそうしたことを満たす場ですが、社会から切り離された状態でずっと「家」にいることで反対に生活習慣が乱れてしまい、身体的にも「安心安全」が失われてしまうことがあります。

 (参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる

 睡眠がうまく取れない。昼夜逆転してしまう。
 一人暮らしであれば、栄養のある食事を摂ることができない。
 長く家にいることで、近所の目が気になり、外出もできなくなり、運動も取れなくなる。 
 睡眠、食事、運動が乱れれば、足場がなくなり、本人がいくら回復したいと意を決しても叶わなくなってしまいます。

 

 たしかに、病気などで「自宅療養」というものは存在しますが、自宅療養として機能させるためにはかなりのコストと手間、他者からの支援が必要になります。
 さらに、ただ「家」というハコモノがあればよいわけではなく、快適な環境として機能するためには構成メンバーの不断の努力が必要で、気を抜くとすぐに機能不全環境に陥ってしまいます。
 (現代で介護が大変なのも、こうした点にあるのかもしれません)

 

 
 このようなことから考えると、
 心身が不調にあるときでも「家」は安住の地ではなく、あくまで一時避難先としての機能しかありません。
 「家」という場所は、社会から離れて長期に居るようにはできていないのです。

 

 人間とはスマホのようなクラウド的存在、長くただ「家」にいるだけだと更新されないままになり、機能低下していってしまうのです。
 (「家」そのものも、あくまで社会の中の数ある場所の一つで、システムとして連携されることで機能を発揮します。)
 

 家で仕事をしている、勉強をしている、といった場合は別ですが、基本的には、ある程度回復したら早めに社会活動を再開しなければなりません。

 

 「安心安全」の確保に家を活用するためには、まず、本来家の持つ役割が限定的であることを知ることです。そのうえで、社会とのつながりを切らさないように意識することがとても大切です。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「安心安全」は、身体の安定から始まる

 

 「安心安全」がないと回復もおぼつかない。
社会という山を登っていこうにも、足場がないために、うまく上に上がれなかったり、実力があっても悔しい思いをすることもしばしばです。

 では、その足場をどのように確保すればいいのか?

 
 現代は、心理学やセラピーが大衆化したために、なんでもかんでも「心の問題」と考える傾向があります。

これは大きな間違いです。

 経験のあるカウンセラーや医師に尋ねれば、「悩みの原因のうち、心理が占める割合は1割もない」と答えます。
(筆者の経験からも、心理が原因であることはほとんどない、と感じます。トラウマとは環境の問題や身体の失調のことを指します。
 心理とは、環境や身体の失調の果てに歪む、こじれるものであったり、という感覚です。)

 

 ほとんどが環境であり、生体的なものに問題があります。
 (トラウマとは、環境からのストレスが生体にダメージを与えることをいいます。) 

 

 足場(安心安全)を確保する、悩みを解決する、というのは心理的な問題に取り組む、というよりもまず、身体からスタートする必要があります。

 

 

 身体からスタートとはなにか? それは睡眠、食事、運動の3点を整えるということです。

 

 身近にお子さんがいらっしゃるとわかりますが、子どもは眠くなると泣き出したり、怒り出したり、わけがわからなくなったりします。

 単に眠いからなのですが、理性的ではなくなってしまいます。

 実はこれは大人も同じことで、表面的には子どもよりも成長して安定しているように見えますが、睡眠不足が及ぼす強い影響力には変わりがありません。

 睡眠不足は人間を確実におかしくしてしまいます。

 

 皆さんが悩みが生じている要因の一つは、睡眠不足、あるいは就寝時間が遅い、ということがあります。

 パーソナリティ障害や発達障害といった難しいケースでは、必ずといってよいほど睡眠がよく取れていないことがあります。

 

 
 かつての警察の取り調べとか、セミナーのマインドコントロールといったことでも、きまって、睡眠時間を短くするということが行われます。いかに人間が睡眠時間が取れないとおかしくなってしまうか、ストレスに抵抗できなくなってしまうか、ということを示しています。

 

 徹夜しても大丈夫、少々睡眠不足でも影響がないと思っているのは、錯覚です。

 人間というのは、不安定な水の上に浮かぶ小舟のようなもので、規則だたしく睡眠や食事、運動を繰り返して代謝を行わないと、すぐにバランスを崩してしまう生き物なのです。

 体力に個人差はあっても、この原則は変わりません。

 

 もし、「夜中1,2時まで起きていて、睡眠時間は4時間程度」という方がいれば、どんなに薬を飲んでも、セラピーを受けていても、効果は限られてしまいます。

 

 睡眠時間はそのままで「私はなかなか良くならない」と言っている人は少なくありません。
 
 
 実際、生活指導を徹底している病院では、睡眠などの生活習慣が整わなければ、薬も出さない、という方針がとられていたりするそうです。
 

 

 
 近年、精神医療の領域でも、栄養の大切さが注目されるようになってきました。

 一般的な食事だけでは、脳を健康の働かせるのに必要な栄養が不足しがちです。コーヒーやパン、白米や麺類などではとても栄養が足りません。多くの日本人は高カロリーの栄養失調状態といえます。
 (「現代型栄養失調」という言葉も登場しています。全体的に必要な栄養が不足していることが指摘されています。) 

 

 悩みから回復するためには、もっともっとビタミンやタンパク質を取らなければなりませんし、鉄分などのミネラルも不足しています。

 

 例えば、よく肌荒れや口内炎ができるといった方は、確実に栄養が不足しています。
 口内炎というのは一つにはビタミン不足で起きますが、肌や口の粘膜でさえビタミン不足を訴えているということは、脳は確実に栄養不足であるということになります。

 

 そうした状態では、不安やイライラが生じて当然です。栄養が足りないと脳の中の生命を維持する領域(爬虫類脳)が危機を感じますから、そこから発せられるメッセージを受け取って解離してしまって、パーソナリティ障害のような理性を失うような状態になってしまうのです。

 栄養は足りていないままにしておいて(睡眠時間も少ないまま)、抗うつ剤、抗不安剤を飲み、セラピーをあちこちと受けて「なかなか治らないんです」というのは大きな矛盾です。

 

 

 昔、漫画「じゃりン子チエ」で、チエちゃんがおばあちゃんに相談しているシーンがありました(たしか屋台だったと思います)。
 その時、おばあちゃんがチエちゃんに「悩むときはまず、おなか一杯にご飯を食べなさい。おなかが減っているときは人間は悪いことしか考えない。まずはおなかを満たしてからにしなさい」
 といったようなことを諭していたのが印象に残っています。

 

 

 悩みを抱えているときは、脳や体を栄養でジャブジャブに満たすくらいに、栄養を取らなければいけません。
 具体的には、食事だけではなくサプリメントで補うなどして、栄養をしっかりと補うことが必須です。

 参考:「マンガでわかる ココロの不調回復 食べてうつぬけ」「うつ・パニックは「鉄」不足が原因だった」など

 

 

 

 運動も身体の「安心安全」を回復するためには、大切な要素となります。
 ある研究では、週3回20分程度ウォーキングするだけで、うつと診断された人の9割が治るとされています。薬では2割しか治ら治らないのに対して、運動では9割という好成績。それくらい運動には効果があります。

 おそらく有酸素運動を通じて、ストレスでダメージを負った心身の機能(自律神経系、免疫系、内分泌系など)が回復すると考えられます。

 

 薬はあくまで脳内伝達物質にピンポイントに働きかけるだけですが、有酸素運動(そして、睡眠、食事)は身体全体に働きかけて、自然治癒力を助けて調子を健康な状態に戻してくれます。

 参考:「脳を鍛えるには運動しかない」など

 

 

 なかなか良くならない悩みを抱えている方の多くに共通するのは、生活習慣の乱れです。

 ついつい心理的なことや家族関係といったことに目が行ってしまいますが、実際の症状は身体から生じており、その原因は、睡眠、食事、運動の不足にあることが多いです。

 
 精神の失調を患っている方は、サバイバルモードになっているために、あるいは養育環境が過酷だったために、生活習慣が乱れた(自分を大事にしない)状態を普通としてしまっている傾向が多いです。
 
 過酷な状況になじみがあり、そこで頑張ろうとしてしまう。
 
   
 回復する足場(安心安全)を作るためには、心理的な問題とか家族との和解、といった難しいテーマに取り組むよりも前に、まずは睡眠、食事、運動を整える必要があります。足場がなければ戦えません。
 

 

 生活習慣が乱れていると脳は「危険」と感じて、それが心の不安となって現れるようになります。

 悩みの解決に取り組むのであれば、何よりも「睡眠」「食事」「運動」を整えることから始める。

 身体レベル(内的環境)から「安心安全」を確立する、それだけでも私たちが抱える悩みの多くは解決するようになります。
 

 

 

 

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自信はどこからやってくる?~「安心安全」は、自信ともつながっている。

 

 自信がない、というのは多くの人が感じる悩みの一つです。

 これまでの認知行動療法などや、自己啓発でも、自信は個人の考え方などに起因するとしてきました。そのため考え方や行動を変えることで自信が得られるとしてきました。

 ただ、実際に取り組んでみると(もちろん全く効果がないということはありませんが)なかなかうまくはいきません。

 自信のなさは、個人の頭(心)の中に原因があるという仮説は、実はそうではないことがわかります。
 
 

 

 もう一つ、自信がないのは実績が無いからだ、実績があれば自信が持てる、という考えも俗な観念としてあります。

 例えば、容姿とか学歴とか、収入とかが良ければ自信ができる、悪ければ自信がなくなる、という考え方。

 たしかにある部分はそうです。
 例えば、野球選手が練習の結果、活躍できれば、自信になるといったことはあります。

 

 しかし、実績が十分にあったとしても、自信がない人は世の中にはたくさんいます。

 どういうわけか自信がありません。

 他者から「これだけ実績があるのだから自信を持ったら」と言われても、全然ピンとこない。

 筆者も、どういうわけだか自信がないということがあって、いくら実績を積んでも、セラピーをしてみても、どうしても自信が高まらずに苦しんだ、ということがありました。
 

 いろいろと経験し、調べてみてわかってきたことは、実績というのは、すでにある自信を強化する要素の一つでしかなく、自信そのものではないということです。実績は基礎的な自信があってその上に積み上がっていくものです。

 

 

 

 では、本来の自信というのは 何によって決まるのでしょうか?

 まず、結論から言えば、それは「他者からの承認の量」で決まります。

 一番わかりやすいの例は、親からの承認です。
 いわゆる「愛着」です。

 親自体が「安全基地」として機能して、支えてくれることは、社会生活を送るうえで様々な領域で高い汎用性を持つことが明らかになっています。
 まさに、パソコン、スマホにおけるOS(オペレーティングシステム)のような役割を果たしてくれます。

 「愛着」は存在(Being)レベルで体感的に承認をしてくれますから、根拠のない自信というものをもたらしてくれます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 

 反対に、親が不安定であったり、不和で喧嘩が絶えない、暴言が止まらないといった機能不全環境に生きてこられた方は、必然的に自信がなくなってしまいます。
 (暴言は、自信に向けられたものだけではなく他者に向けられているものも含まれます。)
(参考)→「「汚言」の巣窟」 

 

 

 機能不全家族では、親や家族といった身近な人から味方をしてもらえないといったこともしばしば生じます。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 親が偽りの公を騙り、喧嘩両成敗的な言い訳で、対外的にトラブルにあったときに、いつも「あなたにも悪いところがある」といった対応をする。

 夫婦が不和や家族への嫉妬から、そのストレスのはけ口に「あなたはだめなところがお父さん(お母さん)にそっくり」といった言い方をされる。
 単に自分の不満を子どもをダシに解消しているだけ。

 あと、兄弟間でえきひいきがあり、公正さや正義が行われていない。

 などなど

 こうしたローカルルールが支配する環境で長く巻き込まれていると、自信はボロボロになります。まさに戦争や災害の被害に巻き込まれたかの如くトラウマを負ってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 

 一見自信がありそうでしっかりしていそうな人でも、”自分”という中身は空っぽ、ということも少なくありません。
 
 自信があるように見えても、躁的に自分を盛り上げたり、
 他者からよく見えることや称賛を得ることばかりに意識が行っていたり、
 あるいは他者を見下すような感覚であったり、
 世の中に反発するような感覚であったりすることもあります。
 
 いずれにしても、どこか地に足がついていない、本当の自信とは違う感覚なのです。

 

 

 

  
 トラウマを負った人にとっての悲劇は、自信を取り戻そうとする過程でも起きます。
 

 自信とは他者からの承認、ということですが、承認を得ようと努めてみても、なかなかうまくいきません。

 集めようと努力するのですが、なぜかうまく承認は得られない。承認らしいものがあったとしても受け取れない。
 

 
 自信とは心の問題だ、という言葉を信じて気持ちを盛り上げようとしますが続かない。反対に躁的な感じになり、傲慢やプライドが高いと取られて、反対に傷ついたり、自分を責めるようになってしまう。

 

 今度は、自信≒実績なのだとして頑張ろうとしますが、瞬間的に評価を得られますが、長くは続かない。
 トラウマを負った人は、それまでのなかで否定されてきたので、少しの成果は実績とは受け取れません。
 そのため実績が積みあがらない感覚に襲われる。
 誰からもケチのつけようもない圧倒的な実績を求めるのですが、そのためにはどのように努力していいのかがわからなくなってくる。

 

 

 また、継続的な成果を上げるためにはチームプレーが必要です。
 さらに、表面的には成果が上がらない「待つ」時間もとても大切。

 しかし、トラウマを負っていると、「安心安全」(足場)がないために、それがうまくできません。他者との関係が築くことができなかったり、成果を「待つ」時間が「成果が得られていない」と感じて怖くなったりして、余計な動きをしてしまい、待てば得られるはずのものを台無しにしてしまったりします。

 

 そうして努力が続かなくなり失速していく、ということが起こります。
 トラウマを負っている人の中には、会社などでも最初は評価されるんだけど、結局ダメになってしまう、という方は多い。

(参考)→「あなたの仕事がうまくいかない原因は、トラウマのせいかも?

 

 

 これは、「安心安全」(足場)がないために生じる現象です。
 

 前回の記事でも書きましたが、
 人間の成長、成熟(社会に出る)とはなにかといえば、それは、自分の心身や関係において安心安全を築きながら徐々に領域を開拓、攻略していくことです。
 その開拓、攻略の果てに「社会」というものがあります。

(参考)→「人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 

 「安心安全」とは公的な環境によって作られます。

 公的な環境による安心安全があるとあたかも騎士道精神のように、相互にリスペクトし、承認し合うことができます。

 承認をもらうためには、公的な環境づくりによる「安心安全」が不可欠です。

 対人関係において公的環境を形成するのは礼儀やマナーと言ったプロトコルであったり、嫌なものについては「NO」といったり、必要に応じて突っ込んだりすることです。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 しかし、公的環境が作れないままだと、「人間は私的環境では解離して容易におかしくなる」という性質があるために、ただ承認を貰おうとしても、嫉妬で発作を起こしてしまい、こき下ろされたり、ローカルルールに巻き込まれて、そのままでは承認が得られない。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 

 人間とは社会的(クラウド的)な生き物で、社会に接続されることで初めて機能する。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 だから、社会とつながろうとして努力するのですが、トラウマを負っていると、そもそも足場(愛着≒安心安全)がないためにそれがうまくできない。
 ローカルルールを真に受けると、ローカルルールが社会そのものになってしまいます。
 本来つながりを持つべき「社会」が何やら危険で不安な場所となってしまう。自信の源から自然と遠ざかるようになる。

 そのうち、対人恐怖や社会恐怖が強まっていき、、安心安全から人とかかわることができず、承認をうまくもらうことができない→自信が育たない、という悪循環に陥ってしまう。

(参考)→ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 

 仮に、相手から承認が得られたとしても、安心安全がないために、それらを受け取ることができない。
 成果によって得られた承認は、「また次に成果を挙げないと失われてしまう」という事になり(見捨てられる不安)、承認を得られたとしても不安なままです。次から次へと成果を上げる必要がある、と思うと絶望的な気分になります。

 

 ※ひきこもりのケースなどは 機能不全環境の中でまさに足場を失わされてきたと考えられる。それは本人の心の問題などではもちろんなく、「安心安全」(足場)やそれを形成する公的環境づくりができなくさせられてきた、ということに起因する。社会が怖いし、自信がないし、わかっているけどどうしようもできない、という状態になるのはそのためです。

(参考)→「上手に退却(引きこもったり)し、上手に社会とつながる」 

 

 このように自信がない、という場合に、ただ、考え方を変えて自信を持とうとか、実績を作ろう、としても意味がありません。
 自分の内外に「安心安全」を少しずつ作り出す必要がある。それが承認を生み、自信につながっていきます。
  

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「安心安全」がなくなると、物理的な現実が信頼できなくなってくる。

 

 

人からの評価、評判がとても気になる。

「~~さんは、~~だね」といわれれば、まさに言われたことが自分そのものになったような気になる。

言葉が呪術のように押し寄せてくる。

 

そのうち、評判=自分 というような感覚になってきて、

人からどう思われているか? 誤解されないか?といったことばかりに神経をすり減らすようになる。

相手が勝手な評価をしようものなら、内心は怒り、イライラ、恐怖で頭がぐるぐるする。

これは、「安心安全」の足場がなく、ローカルルールに囲まれるような生活が続くことで生じる現象の一つで、物理的な現実への信頼がなくなった結果によるものです。

 

物理的な現実とは、
例えば、
 「自分自身」というもの、
 「世の中、社会」
 「他者」
 などなど

 
物理的な現実、と聞くと、何やら冷たく、厳しいもの、のように感じたとしたら、それはローカルルールに浸かった感覚の影響だと言えるかもしれません。

目の前にあるコップに「無くなれ!」「バナナになれ!」といくら念じてみても変わらないように物理的な現実は、強固にそこにあって、安定しているものです。

 

本来は、「自分」というものも、他人が「~~だ!」といっても変わることはないはず。「自分は自分」として、強固にそこにあって、コップと同様に安定しているものです。

他人からの評価が来たって、大丈夫。

物理的な現実(身体)とは、現実につなぎとめてストレスから身を守るアンカー(錨)となるものなのです。

(参考)→「物理的な現実への信頼

 

 

「安心安全」がなく、ローカルルールの幻想にまきこまれると、物理的な現実への信頼感が弱まってきて、だんだんと、評判そのものが事実のように感じられ「自分はおかしい」「ダメ人間だ」と思うようになり、自他の区別がつかなくなり、評価=自分となってしまうのです。

 

 

さらに、物理的な現実を信頼できないために、世の中がなにやら自分には管理できない、得体のしれないハプニング(オバケ)だらけに見える。

 だから、ちょっとわからないことがあると、すべてを放り出したくなるような、泣きたくなるような感覚になります。パニックに陥ってしまいます。
 
 わけが分からないように感じる現実を跳躍して回避しようとして、自己啓発やスピリチュアルなものに頼りたくもなってきます。
 
 (発達障害の方などがパニックになりやすいのも、心身に安心安全がないことが大きな原因の一つとされます。スピリチュアルなものにも傾倒しやすいとされます)

 ただ、それは、本来、地面(現実)に着地しなければならないはずのところを、さらに空中へ空中へと舞い上がるようなもので、問題をより不安定に、より難しくしてしまいます。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 

 ローカルルールとは、単に私的感情が常識のフリをしているだけで実体がありません。

 

 

 意識や考え方を変える必要はありません。ただ現実を見れば良い。
 (仏教などは、まさにそういう事を言っていると考えられます。)
 

 「いや、実際私はいろんな人から、ダメだといわれてきたので・・(ダメだということが現実だ)」
 「事実、人間関係で失敗してきた・・(だから、現実だ)」

 と感じるかもしれません。

 それはまさに、ローカルルールの呪縛にあるということ。

 白鳥なのに、「醜いアヒルの子」とされてきただけ。

 ただ、物理的な現実、自分自身をありのままに見ることで対抗すれば、「魔法のリンゴ」はなんなく崩れてしまいます。

 

 ローカルルールを真に受けた状態で、「醜いアヒルの子」という前提から出発して、その土俵で戦ってしまうと幻想同士の戦いになり、効果的に反撃できない。

 他者が、いじめのトラウマで苦しんでいるのを見ればよくわかりますが、「それは、いじめによって作り出された偽の現実だから、気にしなくていいよ」と第三者視点なら気が付く。

 でも、自分が当事者だとわからなくなる。

 “事実”は作り出されるものだからです。
 “事実”と物理的な現実とは違う。

(参考)→「自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 

 

 

 ある国で差別されている人たちいて、経済的にも低い水準に置かれている。
 それを差して、「事実、不潔だ」「事実、粗暴だ」といわれてしまっていることがあるとします。

 
 しかし、それは作られた事実であって、物理的な現実とは言えない。

 環境が悪ければ、誰でもそうなります。衛生状態も悪くなるし、文化レベルも下がるけど、それは本来ではない。
 (物理的な現実は何かといえば、人間という種は“ホモサピエンス”一種類しかなく、科学的な差はない、ということになる。)
  

 

 家庭や学校、会社などでも、ローカルルールで事実は作り出される。
 
 ゴールポストを恣意的に動かされてしまえば、シュートも入らなくなってしまう。ちょっとしたことがファウルとなってしまって、パフォーマンスを発揮できなくなる。

 それも物理的な現実とは異なる。

 

 私たちは、ローカルルールによる呪縛にいくつもかかっている。
 それに対して幻想で対抗するのではなく、安心安全を足場にして物理的な現実で対抗してはがしていく必要がある。

 

 

 依存症の治療において、「底つき体験」がなぜ有効かということも、こうしたことを示しているといえます。
 ローカルルールによって「自分がダメだ」と思わされてきたことが、「底つき体験」によってはがれて、「そこに存在する自分」という物理的な現実が見えてくるから。
(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと
 
 

 

 ただ、ローカルルールの世界で長く過ごしていると、ローカルルール=現実 だと思い込まされてしまうので、幻想同士の戦いに巻き込まれてしまい、いつまでたっても抜け出せなくなってしまいます。

 

 世の中は、ローカルルールが点在していて、うっかりするとそこに巻き込まれてしまう。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 学校でも会社でも家庭でもローカルルールを見分けて、常識を頼りに自分の安全な居場所を確保すること、秩序を整理する必要があります。そのためにも、足場(安心安全)は必ず必要で、足場(安心安全)があれば、物理的な現実を信頼して、対抗することも容易にできるようになります。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人間にとって正規の発達とは何か?~自己の内外での「公的環境」の拡張

 

 私たちは、“愛着”という足場を基礎として、徐々に公的な環境を自分の内と外に作り出していきながら成長(社会化)していきます。

 公園デビューをした時、幼稚園・保育園に入園したとき、など、
 大人から教えられるのは、挨拶であったり、おもちゃを貸してあげなさい、ということであったり、「公的な環境の作り方」を教えられる。

 

 時に、相手が解離して「私的な感情」の洗礼を浴びるときがある。

 その時は、安全基地(愛着)まで後退して、親の力も借りながらストレスをキャンセルし、再び、公的な環境を作りながら、お友達との付き合いを再開させていく。

 安全基地(愛着) ←(行ったり来たり)→ 探索しながら“公的な環境”を拡張する旅

 といったことを繰り返していく。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 安全基地(愛着)が堅固であればあるほど、遠くまで旅をすることができる。

 愛着とは、親との子のきずなを指します。

 機能している親子だと、親子関係にも、健全な距離感があり、親も子を尊重する意識があります。
 親が不全感や発達障害傾向などがある場合は、その距離感が崩れて、距離が遠すぎたり、不安定すぎたり、近すぎたりする。
 もっとわかりやすく言えば、親が私的な情動を抑えられず、それが前面に出すぎて、不安定型愛着となってしまう。
 親はそのことをごまかして、これは正しいことだ、と強弁すると不安定さはより強まってしまう。

 

 不安定型愛着とは、親子の間に生まれたローカルルール状態のことだといえます。

 

 安定型の愛着は、それ自体が公的な環境のひな型となりえる。
 (相互に別々の人間であるというわきまえとリスペクトがあります。)
 

 人間は成長の過程で愛着という安全基地を足場として、さながら開拓民のように、探索行動をして自分にとっての公的環境を拡張していく。

 

 

 もちろん、心身に危険なこともある。その時は基地まで戻って、ストレスをそらしてまた再開する。身体への危害も、心への危害も、ともに私的情動によるものですが、公的な環境というバリアがあれば、それらから自分を守りやすくなります。

 

 

 公的な環境を拡張する旅は、自分の内側にも向きます。

 それは、精神的な成熟ということです。

 

 人間の精神は、社会での活動や肉体の発達とも不可分ですが、思春期などを経て、相手の気持ちを考えたり、抽象的な思考ができるようになるなどしていきます。

 発達課題、その中でもいちばん重要なアイデンティティの確立、という難しいテーマにも挑戦していきます。

 

 

 そして、人間が精神的に自立するためには、公的な環境を作り出すために大人たちから得た規範を内面化しつつ、それを棄てて、昇華するということが必要です。

 

 例えば、二度にわたる反抗期で、大人に対して「嫌々(NO)」ということ。
 大人の教えに反発すること。

 自分だけの秘密を持ったり、ウソが付けるようになったり、ということも必要。俗には”悪”と感じられるようなエゴも大切なことです。

 

 規範の内面化 → 規範の否定 → 規範の昇華 というプロセスを経て、公的環境が真に自分の土地となる。 

 

 

 さらに、成長とともに、社会的な役割も引き受けることになります。

 習い事、部活やバイトなどの「しごと」引き受けながら公的人格に憑依することを通じて、精神は落ち着きを持つようになります。

 新入社員の顔を見ればわかりますが、どこか人間としての所在が落ち着かない浮ついた感じから、ベテランになると、目や雰囲気がすわってくる。

 本当の自分はどこかべつにあるのでもなく、私的人格にあるのでもなく、公的な人格の中にこそあります。

(参考)→「本当の自分は、「公的人格」の中にある

 

 

 ですから、もし、精神的に不安定であったり、悩みの中にあるときは、そこから抜け出すためには、なんらかの社会的な役割をいただく、公的な人格をまとう必要がある。
 ただ、家にいても良くなることはありません。
 (家は、あくまで一時緊急避難先としての機能しかありません)

 
 私的な環境は、人間をおかしくしてしまいます。

 (参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 
 人間は、

 愛着(安全基地) → 公的な環境 → 公的な環境 →・・・
            (安心安全)  (安心安全)
          
 という形で、ストレスから身を守りながら、安心安全の領域を拡張していきます。
 

 社会で活躍できる方、精神的に安定している方というのは、分解すると、こうした段階を持っていると考えられます。
 
 
 登山の時も、基地を作って前進、基地を作って前進、と進んでいきますが、
 まさにそのような感じ。

 基地がなければ遭難してしまう。
 

 

 前回の記事で、トラウマを負った人は社会で活躍していくための足場を失ってきた、ということを書きましたが、

(参考)ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 反対に、トラウマを負っている、愛着が不安定な場合(あるいは発達障害傾向など)は、

 
 愛着が不安定 → うまく公的環境(安心安全)が作れない。 →  うまく公的環境(安心安全)が作れない。→・・・

 という感じになっている。

 安心安全の前線基地がないために、礼儀やマナーといった関係のプロトコルを上手く使うことができなくなります。

(参考)→「礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 その結果、関わる人が私的な環境にとどまり、情動をコントロールできず解離して、理不尽なことを仕掛けてきやすくなってしまう。
 もちろん、理不尽なことをする側に問題があり、トラウマを負った人には責任はありません。
 実際に、いじめといったローカルルールはこちらの状況にほとんど関係なくやってきますが、安全基地があれば、一歩前に戻って嵐がすぎるのをまったり、別のルートを選択することができる。

 安全基地がないと礼儀やマナーと言ったこと関係のプロトコルが何やら億劫に感じられるようになってきて、公的な環境がうまく作れないために、

 

 愛着が不安定 →  ローカルルール  → ローカルルール  →・・・
         (社会恐怖、対人恐怖)(社会恐怖、対人恐怖)
         
 

 という負の連鎖になってしまう。

 トラウマを負った人が感じる(見ている)社会や人間とは、社会や人間そのものではなく、ローカルルールでおかしくなった状態のものです。

 トラウマチックな記憶が処理されるためには共感が必要ですが、
 その記憶もうまく処理されずに、心身に残り、苦しみ続けるようになる。

 かりそめの安心安全を作り出そうとして、ニセ成熟と呼ばれる状況に陥ったり、宗教だとか、スピリチュアル、自己啓発に頼る場合もある。

 「ニセ成熟」というのは、ローカルルールに合わせて公的な人格を作り上げた状態で、本物ではないので、いびつで、本人にとっては自然体ではなく、ヘトヘトになるものです。本当の成熟ではないので長くは続きません。

(参考)→ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 ローカルルールに合わせた公的人格とは、理不尽な親や友達などの要求に応えるように頑張っているような状態のことです。
 (例:「あなたはすぐに調子に乗る」→調子に乗らない自分 「あなたは人から好かれない」→人から好かれるように頑張る など)
 

 また、自己啓発等の「安心安全」の代替は、あくまでかりそめであり、それ自身がローカルルールであることも多く、本当の安全は得られない事が多い。

 

 人間にとって正規の発達とは何か?というと、
それは、愛着を基礎に、自己の内外に公的環境を作り出しながら、「安心安全」を拡げていくプロセスということになります。

 
 今もし生きづらいなら、それは、安心安全の足場がない状態ではないか? 事実と思っていることがローカルルールではないか?
 と確認してみること、が大切です。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 前回の記事でも少し触れましたが、礼儀やマナーは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置と考えられます。

 人間は、私的環境に置かれるとちょっとした刺激で解離しておかしくなる性質がある。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 車でも、あおり運転が最近問題になっています。
 これも、私的環境が人間をおかしくしてしまう例です。

 車内という私的環境でちょっとした刺激に解離してしまい、乱暴な運転を行ってしまう。
 殺人にまで至ってしまうというケースもありました。

 バイクや自転車があおり運転する、というのをあまり耳にしないのは、やはり、空間的に外(公的環境)に開かれているためかもしれません。

 

 DVでも、外(公的環境)では紳士的な人が、家(私的環境)では豹変して暴言暴力をおこなってしまう。

 私的環境で問題を起こしてしまう人たちでも、公的環境では紳士的になる。そのくらい公的環境の力は強い。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 対人関係で理不尽な目に合わないようにする方法、簡単な魔法があるとすれば、それは、「礼儀」「マナー」ということになります。
 「挨拶をする」だけで、難しいコンディションの人でも公的環境の“制御”にかかる。

 

 以前、テレビでタクシー会社の社長が出ているのを目にしたことがあります。
その会社では、運転手にマナー研修や清掃を徹底している、と紹介されていましたが、その効果として、

「(暴言や暴力を働くような)お客様でも、こちらがマナーを良くしていれば、おかしくならない」

といったようなことをおっしゃっていました。

 

 確かに、クレーマーは、マナーの瑕疵を取り上げてケチ(因縁)をつけることが多いですね。裏返して言えば、マナーがしっかりしていると付け入ることができない、ということなのかもしれません。

 

 

 筆者が社会人になりたてで新人研修の時に、ある先輩社員が、挨拶の大切さを伝える例として、
「よく、TVで何か犯罪を犯した人について近所の人のインタビューがありますが、『いつも挨拶してくれて、良い人そうだったのにねえ』というのを耳にするでしょう?」

「本当にいい人かはわからないし、実際に犯罪を犯しているのに、挨拶をしているだけでそれだけ「良い人そうだった」なんて好印象を持ってもらえる(だから挨拶はとても強い力がある)」

 と教えていただいたのを印象深く覚えています。

 

 人に対して勝手に「あの人は~だ」とネガティブな感情を持つのは、まさに解離している、ということですが、「挨拶」という行為によって公的環境を作り出すことで相手が私的環境に陥って解離することを防止している、と考えられます。

 

 

 
 これだけ、効果が高い「礼儀」と「マナー」ですが、筆者もそうなのですが、トラウマを負った人の中には、そうしたものをどこか毛嫌いしてしまう心性があります。

 効果が高いのだからうまく利用すればいいし、使えばいいのにと思うのですが、なんだかウソっぽくて嫌だな、納得いかないな、という感覚です。
 

 

 それはどうしてか、というと、
 一つには、「礼儀」や「マナー」をローカルルール化してしまっている人たちがいて、その人たちからのストレスにやられてしまっている、ということがあります。

 例えば、マナーにうるさすぎたり、独善的に礼儀を押し付けたりという人たち。

 そうした人は、自分の不全感(「I’m NOT OK」)を癒すために、相手の些細なミスをつこうとしています(「You’r NOT OK」)。

(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。

 
 本来の礼儀やマナーというのは、相互に相手への「リスペクト」が背後にあるものですが、自信の支配欲や不全感をいやすための道具なので、相手への「攻撃(怒り)」や「侮り」がある。

 礼儀やマナーを盾に取っている間は、自分は絶対的な善でいることができる。
 その盾に隠れて、相手を支配して、自分を保とうとしている。

 礼儀やマナーを、ローカルルールとしてまさに悪用しているのです。

 

 

 別の例では、親が子供を支配する道具として、礼儀やマナーにうるさすぎる、という場合もあります。
 本当に子供のことを思っているのではなく、単に支配したいだけ。

 自分の私的情動から発した行為であることを繕うために、礼儀やマナーという建前を持ち出していることも多い。
 実態は、自分の気まぐれでしかないので一貫性がありません。そのため、人に対して厳しく、自分に対しては甘い、ということがあります。

 本当のマナーとは、強迫的なものではなく、相手へのリスペクトやユーモアがあります。
 なぜかというと、世の中は多元的であり、人それぞれ、であるからです。
 本来は世の中の多元性、多様性への橋渡しとしてマナーが存在しているものです。

 

 そのため、本当の礼儀やマナーは、相手を包摂するところがあります。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 反対に、悪用された礼儀やマナーとは、相手を侮り、攻撃するところがあります。 
 そうした環境に長く置かれると、「礼儀やマナー」というものにうんざりするようになる。
  
 相手の仕掛けてきたの呪縛を解くことにエネルギーを取られたりして、「礼儀やマナー」を肯定的にとらえて、気持ちよく使うことができなくなってしまう。

 

 

 

 二つ目は、過剰適応という問題。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 慢性的なストレス環境に置かれると、安心安全が奪われます。
 その結果、自分を守るために、過剰に環境に適応しようとしてしまう。

 結果として、適切に他者に合わせることができなくなってしまう。
  

 他人に気をつかったり、合わせたりすることに過剰になって、あるいはくたびれて過少になってしまうために、礼儀やマナーということに意識を向けることができなくなってしまう。
 「これ以上気をつかうのはもううんざり」という感覚になって、結果、うまくつかえなくなってしまうのです。

 

 

 三つ目には、
 これまでに挙げたようなことに加えて、「形式よりも心が大切」といった理想主義的心性も影響します。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 これは、機能不全な環境に長く置かれた結果、ストレスフルな現実というものへの反感、嫌悪から理想主義的になってしまい、そのため、人間関係においては「形式よりも、心が大切」という理想を求めるようになります。 
 (理想によって、つらい現実から自分を一気に超越させようとする、という面もあります。)
 

 
 ただ、実際には人間は形式が伴わなければ相互に理解しあえないため、自分が思う「心」は相手に通じることはなく、ただ形式を欠いて相手と通じ合えない、というつらい経験に直面することにもなります。

 そして、理想が敗れてニヒリズムに陥ることになり、結果、礼儀やマナーがうまく使えなくなってしまいます。

 

 

 このように、礼儀やマナーとは、世の中を生きていくための必須のプロトコル(手順)ですが、ローカルルールやトラウマティックな環境というものが、それらを自分のものとして生き生きと活用することを奪ってしまうのです。

 

 社会に出てから公的環境を維持するための最強のツールとしての「礼儀やマナー」をうまく使うことができず、理不尽な目に遭ったり、モンスター化した人にやられたりするようになってしまいます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 物事には、前提となるステップや要素というものがある。

 いきなり実現することが難しいことでも、前提が整えば、それを組み合わせれば宇宙にまで行くことができる。

 宇宙に行く技術も、物理学の研究と、工業化された製品の組み合わせ。

 極端に言えば、子どもでも、要件さえあれば、ロケットを飛ばすことだってできるようになる。
 

 

 目の間にあるパソコンも汎用品の組み合わせ。
 アポロ計画などの時代ではオーダーメイドで何千億円もした機能の何倍もの物が格安で手に入るし、誰でも組み立てられる。

 さらにそれで組み立てたものでプログラムを打てば、大きな資本がなくても新しいサービスを作ることもできる。

 

 でも、もし、パソコンが手に入らなければ、それも不可能になる。それ以前に、そもそも文字が読めなければ、計算ができなければ、チャンスさえつかめない。

 だから、人類は、教育などを通じて、社会全体で補助をしたりして「足場」を作ろうとしてきた。

 人間は環境の影響を強く受ける生き物で、そこからはだれも逃れられない。
 
 だから、前提(土台)を整えるために補助が必要になる。

 

 器械体操も、もし、安全対策や補助マットがなければ、上達することは難しい。

 補助輪(コマ)というものがこの世になければ、自転車に乗れる人はもっと少ないかもしれない。

 安全装置があるから、何百キロで走る車や電車、飛行機をたくさんの人が利用できる。

 スマホも、要件が積み重ねられて、誰でも使えるインターフェースがそなえられ、全世界の人が利用できるようになっている。

 

 

 「要件」が整うと人間は大きなことができるようになる。 
 反対に、整わないと、とてつもないハンデキャップを背負うようにもなります。
 

 人間も同様に、様々な要件を整えながら発達していきます。基礎(要件)が整っていると、その後の発達もスムーズで、トラブルにも強い。

 要件に問題があると、のちの時期にはそれを取り戻すことにはとても苦労します。

 それを「発達課題」と呼び、先達たちが、様々な仮説を打ち出してきました。

 中でも最も大切なのは、生後半年~1歳半の時期です。
 この時期に、「愛着」と呼ばれるものが形成されていきます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着とは、安心安全を身体のレベルから感じられることであり、社会的な発達の要件の「パッケージ集」とでもいうべきものです。パソコンでいえばプリインストールされたOS(オペレーションシステム)にあたります。

 

 反対に、この時期に強いストレスを受けたり、身体的な愛護が十分ではないと、愛着が形成されず、その後の発達にも支障をきたすことがわかっています。

 パソコンで例えていえば、トラウマを負っているというのは、一からパソコンを組み立てて、動くために必要なソフトを自分で一からインストールしていかないといけない状態にあるということ。
 さらに、インストールも時間がかかったり、途中で不安定になったりして何度もやり直しをしないといけないということ。
 その間、パフォーマンスが上がらず低い評価に耐えないといけない、ということ。こうしたことが支障ということです。

 

 

 

 もちろん、1歳半~2歳以降の環境も大切です。

 家庭の中が安定しているか? 親や親族が機能しているか?といったことはとても大切。

 夫婦喧嘩などはもってのほか。現在では、「面前虐待」といい虐待と認定されてしまいます。一発レッドカードでトラウマになってしまいます。
 (参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード」 

 

 あと、よくあるのは、ストレスにはけ口に子どもに親族の愚痴を言ったり、など母親(父親)が悪口が止まらない、というケース。
 小さい頃は本人もあまり何とも思っていないように感じていますが、成長するにつれて蓄積されたダメージは計り知れないものになります。
 自信がなく、人間関係が億劫に感じられるようになります。

 

 ストレスを受けると身体の恒常性が低下しますから、外部からのストレスにも一層弱くなります。

 

 

 環境が不安定でも、人間関係がシンプルな小学校低学年まではまだよいのです。何とか乗り切れます。
 

 問題なのは、小学校高学年以降。多感で複雑な人間関係の測り方、乗り越え方を体得していくには、「安心安全」という土台が不可欠。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

  特に、
   ・人間とは解離しておかしくなる生き物であることや、ローカルルールの存在
   ・常識や社会への信頼感
   ・関係の作り方、コミュニケーションの作法
   ・公的環境の維持の仕方(礼儀やマナーといったプロトコル)
   ・常識とローカルルールの区別

  といったことを身に着けていきます。

 

 

 例えば、同級生や先輩が理不尽なことをしてきた。
 相手が急に不機嫌になった。その原因を自分にせいだとしてきた、といったようなことでも、安心安全という土台があれば、
 
 「あれ?自分のせいではないのにおかしい」
 「そうか!人間というのは、体調やストレスで、急におかしくなる生き物なのだ。」
 「相手が言っていることは理不尽だ(ローカルルールだ)」

 と直感して、理不尽さの背景を冷静にとらえて、ストレスをキャンセルすることができます。

 でも、安心安全がなければ、それができない。

 

 相手の理不尽さの原因は自分にあると勘違いして、傷ついて落ち込んでしまったりする。それどころか、相手の理不尽さに応えて、合わせてしまうようなことが起きる。

 極端な場合は、「理不尽なことは実は愛情なのだ」といった歪んだ理解をしてしまい、理不尽な行為や人に従ったり、執着したりしてしまうことにもなる。

 常識とローカルルールの区分けがうまくできなくなってしまう。

 

 常識とローカルルールとの区別化できるかどうかで、社会や人間が「信頼できる存在」と感じるか、「恐ろしいモンスター」と感じるか、大きくわかれる。
 
 

 
 本来の親や大人というのは、個人のパーソナリティを超えて、社会を流れる歴史や常識を代表する存在であり、それを公的人格として体現して、子どもを保護して伝達していくのが「機能」であると考えられる。

 ネガティブな私的情動が入ると機能不全になってしまう。
 

 

 特に、人間関係というのは、じゃれ合うようなコミュニケーションを通して、学び取る部分がある。

 そして、敬意やマナーや礼儀といった公的環境を整えるためのプロトコル(手順)を身に着けていく。
 私的環境に置かれると人間はすぐに発作を起こし、解離しておかしくなる。
 礼儀やマナーというのは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置である。

 

 礼儀というのは、固定されたものではなくて、学習され、更新されていく動的なもの。

 意味を理解して、時と場合に合わせてうまく使っていくもの。

 

 

 安定型の人であれば、こうしたことを、「安心安全」を基盤としながら、地域、学校といった場所で、身に着けていく。

 
 しかし、安心安全を奪われたり、養育環境が機能不全を起こしていると、それができなくなる。特に、相手と距離を詰めて、じゃれ合うようにコミュニケーションを学ぶことは安心安全なしにはできない。
 
 

 

 もちろん、本人のせいではありません。

 本人も知らず知らずに負った気質、体質が問題であるケースや(内的環境)、
 養育環境が問題であるために起きる(外的環境)。

 

 

 本人はむしろ、人よりも苦労をし、もがき、努力をしている。

 安心安全の足場がないために、本来であれば身に着けるはずのものが身につかない。学ぶ機会が奪われてきた。

 

 足場がなく、本来のものが身に着かない結果、他人の理不尽な言動に巻き込まれてしまい、2次的なトラウマを負ってしまったりする。

 礼儀やマナーといったプロトコルがわからず、公的環境を維持できず、
 その結果、相手が解離して、ローカルルールで呪縛してきたり、いじめられたりもする。(解離したとしても、相手が100%悪いのですが)
 

 やがて、自分にとっての社会や人間関係が「ローカルルール」そのものとなってしまう。困惑し何が問題かもわからず、自分はダメな人間だ、受け入れられない、と自分を責めてしまう。
 そして、人が恐ろしく、こわくなる。化け物のように感じるようになります。

 

 さながら、何のサポートもないまま異国の地に一人放り込まれたような状態。
 そして、誤解から差別され、土台がないから抜け出すこともできない、といった状況。さらに、社会への恐怖、対人恐怖を負ってしまい、その3次被害をケアするのにも四苦八苦で、しっちゃかめっちゃかになる。

 

 社会や人間関係は、ストレスをうまくガードしてキャンセルできれば、心地よい空間になりますが、ガードできなければ、途端にひどい所になってします。

 

 同じ国に旅行をしても、犯罪に遭えば「ひどい国」になるし、

 用心の結果、遭わずに過ごせれば「楽しかった」ともなる。

 日本のように比較的安全な国でも、ドアに鍵をかけることを知らなければ、泥棒にも入られて嫌な思いをします。防犯の対策ができていれば、「安全」と感じて安らかに過ごすことができる。

 

 環境を整備する機能が、関係構築するための手順であったり、礼儀やマナーといったプロトコルだったりする。
 基本的な、安心安全(愛着)が欠如すると、身に着ける機会を失ってとても苦労することになる。

 かつての時代であれば、「しごと」が媒介して、関係作りや公的環境を維持するためのプロトコルを身に着ける機会は多かった。
 でも消費社会である現代は、その媒介が少なく、新自由主義的な風潮もあって、個人のせいにされやすい。
 核家族化が進んだ結果、地域の様々な大人が親の機能を担ったりして、機能不全を補う共同体の支えも弱いこともあり、足場を失い、生きづらさを感じやすい。それがニートやひきこもり、といったことが目立つ原因であると考えられる。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 加えて、人間関係、とくに親との関係がさらにこじれたり、いじめに遭遇したりしていて、社会や人への恐怖が「恨み」や「不信感」となる「こじれ」を起こしてしまうと、問題はさらに難しくなります。

 身近な人のなんでもない言動まで、自分への非難として受け取ってしまう、
 「関係念慮」にさいなまれてしまう人も少なくありません。

 「関係念慮」とは、ちょっとしたことでも自分への非難や攻撃のサインとして捉えてしまうようなことです。
   何気ない表情で自分はつまらないと思われている、と感じてしまう。
   相手が少し笑顔を見せただけでバカにされた、と捉えてしまう。
   少し声が大きくなっただけで罵倒された、と受け取ってしまう。
   少し体が触れただけで暴力を振るわれた、と記憶してしまう。
  などなど、

 

 人間は、「関係」の中で守られ、回復していくのですが、「関係」が作れなくなって、さらに孤立させられてしまう。自尊心は傷つき、さらに自分を責めて追い込んでいくことになる。

 
 なぜ自分がそのようなことになっているのか訳が分からなくなるため、目に見える、「容姿」「学歴」「職歴」といったわかりやすい要因に問題の原因を帰属して考えるようにもなります。
 でも、それらは本当の原因ではないので、真の解決にはならない。
 

 さらに、サポートを受けるはずの、医師やカウンセラーといった人に対しても些細なことで不信感を持ったり、トラブルになるなどして、
 回復を支える足場さえなくなってしまいます。
 

 自分という成長の糸がもつれにもつれてしまっているような状態です。

 これも、本人に責任はなく、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶ場、足場を奪われてきたために起きていることです。

 
 安心安全という足場さえあれば、なんでもないことが、ないために身につかない。身に着ける機会が奪われ、
 それどころか、理不尽さに巻き込まれて「ローカルルール」を社会そのもののと思わされてしまうことも起きてしまうのです。

 
 「足場」がないつらさは計り知れず、
 「足場さえあれば、自分はもっと大丈夫な状態になれるはずなのに」というまっとうな直感と、でも、現実には「足場」がないために惨めな状態が続くギャップを誰も理解してもらえない。

 自分で「足場」を作ろうにも作れず、それどころか人間や世の中への不安や恐怖が襲ってきて動けなくなる。
 そんな自分の状態をうまく言葉にすることもできず、理解されず孤独を生きづらさにあえぐ、そんな状態にもがき苦しむ方は少なくありません。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールとは何か?

 最近、何年もかかってようやく自殺したお子さんの死の原因がいじめにあったことが認定された、というニュースを耳にしました。

 別のニュースでは、いじめの認定をされた後に学校側が不服を申し立てる、といったこともありました。

 一般の感覚からすると信じられない、と感じるような出来事ではないかと思います。

 

 

 ただ、実は、こうしたことは珍しくなく、実際にいじめがあっても教師、生徒、他の保護者たちが、いじめを強硬に認めない、ということはしばしば起こります。

 一般常識としては「いじめは絶対にいけない」と思っていながらも、教師や保護者たちもいじめられる側に問題があると疑いもなく思っていたりする。

 いじめ研究でしられる社会学者の内藤朝雄氏の著書にも、そうした教師の声が紹介されています。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 常識と、現場とのずれは、なぜ起こるのか?
 その秘密は、「ローカルルール」という存在にあります。

 

 

 ローカルルールとは、規模の小さな共同体のルール、ということを意味するのではありません。
 (かつては、ナチス、中国やカンボジアなどの共産党政権のように国や地域全体を覆うような規模の大きなものもありました。) 

 

 ローカルルールとは、「公的規範のフリをした私的情動」を差します。

 

 不全感を持った人たちが、自分の不全を埋めるために、自分たちのネガティブな私的情動を「これこそがルールだ」「常識だ」として、他人に強制することです。

 

 

 公的規範、常識のフリをしていますが、あくまで私的情動にすぎないので本当はもろく、穴だらけです。自らだけでは「I’m OK」を成立させることができない。  

 

 そのため、ローカルルールが「I’m OK」であるためには、生贄や敵が必要になります。それは他者を「You’r NOT OK」とすることで、「I’m OK」を成り立たようとするのことです。

 

 その”他者”とは、いじめの被害者であったり、被差別者であったり、資本家とか旧体制の社会層、といった人たちです。

 

 被害者とは被害者にされるに足る要素があるのだ(≒自業自得の部分がある)、というのはそれ自体がローカルルールの考え方で、被害者は誰でもなりえます。
 被害者と加害者が容易に反転する、というのはよく知られていることです。
 (例えば、藤子不二雄の「少年時代」という自伝的なマンガ(映画もあります)でも、いじめっ子が終盤では無視され、いじめられっ子になる、というものでした。)
 
 

 ローカルルールは、根拠が薄弱なため、巻き込まれる他者を必要とします。いじめであれば、いじめっ子の論理に感染する傍観者や教師、保護者(「いじめられる子にはいじめられる理由がある」といったこと)。依存症やパーソナリティ障害の当事者が、感情を爆発させたり、対応の冷淡さや欠点を指摘して治療者や家族などを巻き込もうとするようなことです。

 あたかもローカルルール自体が生き物(独立した人格)であるかのように動き、自分を守るために他者や当事者自身をローカルルールのおかしな世界観に巻き込もうとします。※コンピュータウイルスが、まさに「ウイルス」と呼ばれあたかも生き物のように動作するのと似ています。

 

 ローカルルールの感染力はすさまじく、例えば、いじめの事件では教師や保護者、教育委員会レベルまで感染し、事件がなかったことにさせられたり、いじめっ子の論理が正しいとして、「学校を守れ!」と請願が起こったり、といったことも珍しくありません。まともなはずの大人たちもおかしくなってしまうのです。(社会学者の内藤朝雄氏はローカルルールを「群生秩序」と呼んでいます。)

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 ローカルルールは、家庭や学校、会社など常識から隔絶されやすい閉鎖的なコミュニティや、歪な人間関係あるいは伝統が揺らいだ不安定な社会、時代では生じやすいとされます。

 いじめというのは伝染していきますが、いじめを行う子供には、やはり家庭などにストレスがある、という指摘があります。
 家庭へのストレスは父が会社から持ち込んだものであったり、夫婦の不和であったり、といったもので、そうしたストレスに晒され、不全感を持つことで、解消先として私情を学校で発散し、それを「常識だ」としてコーティングして、ローカルルールが生まれるのです。

 

 ローカルルールとは、加害者側が、自分の不全感を癒すための行為(未熟な自己治療)ともいえます。

 

 

 職場では、経営者や上司がある種の自己愛の不全を抱えていて、それを解消するために、私情をもっともらしい形に変えて従業員や同僚に対してぶつけ、おかしな文化が形成される。
 例えば、自身がコンプレックスを感じるような人物を「仕事ができない」として攻撃したり、人それぞれの仕事の仕方を価値がないとしたり。
 (愚痴を言わない、口応えしないことを美德して、休みなく働かせる、といったようなこと)

 

 家庭でも、夫が自分の不全感を解消するために、家事や育児にケチを付けたり、自分の価値観からおかしなルールを家庭内で敷いたり。
 妻が自身の不安を解消するために子どもを縛り「あなたのためよ」と過度に干渉したり。

 これらも、私情を「常識だ」とすり替えたローカルルールです。
 
 

 ローカルルールとは、ローカルなルールであることが問題なのではなく、私的情動を公的規範と偽ることが問題なのです。

 

 ローカルルールが起きるコミュニティでは、必ず機能不全が生じています。
 

 「機能」とは、公的な役割を代表することを言います。
 さまざまな役職には、本来期待されている役割というものがあります。

 校長なら校長の、社長なら社長の、父親・母親なら親としての。
 コミュニティによってその内容はさまざまであっても、要素は共通するものがあります。

(参考)→「夫婦、恋愛の悩みも「機能」として捉えれば、役に立つ

 

 

 本来は「機能」を通じて「公的な環境」が現場でも実現することになります。
 各役割とは公的な環境の「代表」であり、「窓」とでもいうべきものです。

 しかし、本来行うべき機能が果たされずにいたり、おかしな理屈で機能が曲げられていたりすると、機能不全となり、公的な環境の光が届かず、ローカルルールを牽制することができなくなります。

 湿気が多いところにカビがはえるように、ローカルルールもはびこりやすくなります。

 
 
 ローカルルールと、常識や社会通念と呼ばれるものとの違いは何か?

 それは、

 ・常識が多元的であるのに対して、ローカルルールは一元的であること
  (善悪が変にはっきりしている、“人それぞれ”ということが受け入れられない)。

 ・常識が奥行きが豊かなのに対して、ローカルルールは根拠が薄弱。巻き込まれた人たちの同調圧力でかろうじて維持される。

  (ローカルルールは伝染する)

 ・常識は諧謔(ユーモアが)があるのに対して、ローカルルールにはそうした余裕がない。ユーモアとは、謙虚と敬意のブレンド。
  (妙にまじめで、堅苦しい)

 ・常識は有限であり、学習、更新されるのにたいして、ローカルルールは代謝がなく無限のもの。
  (「あなたみたいな人はどこにいっても通用しない。いじめられ続けるのよ」といったセリフに代表される)

 ・常識が身体感覚的であるのに対して、ローカルルールは頭が中心。
 
 といったところにあります。

 

 

 ローカルルールと常識との区別はさほど難しくありません。
 普通であれば、感覚としてわかります。

 

 ただし、ローカルルールは、感染力があり、それを内面化してしまうと、
 そのコミュニティ内では、そのおかしさを感じることが難しくなります。

 

 

 実際に、いじめが起きている現場では、冒頭で紹介しましたように、教師や、他の生徒や保護者までが頑なにいじめを否定したり、学校を守ろうとして署名活動までしたりする、といったようなおかしな現象がしばしば起きます。

 

 

 人間というのは、一般的にヒューリスティック(いくつかの情報に代表させて)に判断を行う。例えば、おかしいと身体感覚で感じても、「あの人が賛成しているなら、大丈夫だろう」とか、「これだけたくさんの人が賛成しているなら、私のほうがおかしいのかも」といったように、権威や量で判断する性質がある。

 ローカルルールとは、こうしたヒューリスティックな判断という習性に悪く乗りかかり広まっていきます。

 

 詐欺やねずみ講なども、そうした性質があって、実は信頼できる人(知人、名士など)からもたらされることが多い、といわれます。
 (直感的にはおかしいような気がしても、それを打ち消すような信頼感、“実績”や雰囲気があるので騙される)

 

 学校や職場や家庭などは、価値観が一元的になりやすいために、ローカルルールが生じると感染しやすく、判断も混乱させられやすい。

 

 

 一方で、警察が介入したり、法律的に処断されると(公的な環境が入ると)、ローカルルールは沈静化していきます。
 (自尊心も絡んで判断基準を何重にも狂わされたりしている場合、影響力は強く残り続けますが)
 

 

 

 また、心身のコンディションが低下していると感染しやすい。
 心身のコンディションとは、安心安全の確保のことで、睡眠、食事(栄養)、運動を指します。
 マインドコントロールや取り調べなどにおいて、眠らせない、食事や運動を制限する、のはなぜかといえば、そのためです。
 

 

 

 

 通常の人間関係、1対1でもローカルルールというものは生じることがあります。心身のコンディションが良ければ、影響されることは少なく、常識的な直感によって避けることができます。ある種の「ユーモア、ツッコミ」でキャンセルすることができます。

 
 しかし、ローカルルールによって支配される側に、
  「この関係を壊したくない」
  「見捨てられたくない」
  あるいは、
  「自分はおかしいと思われたくない」
  「認められたい」
  といった感情があると、関係を壊したくない、離れたくないことが優先され、ローカルルールが維持・強化されてしまうことになります。
 
 そうした心情をうまく利用されてはびこることになります。
 

 

 では、ローカルルールの影響から逃れたり、ローカルルールが活性化させないためにはどうすればよいのでしょうか?

 ここでのポイントは2点(追記もあわせれば3点※別の記事を参考にしてください)
 1.「安心安全の確保」

 2.「関係(常識、公的環境とつながる)」ということです。

  +

 (追記)3.「人格(モジュール)単位でとらえる

 

 

 1.「安心安全の確保」とは、まずは睡眠、食事、運動をしっかり確保ことです。 これらを欠くと、対応がとても難しくなります。

 相手をはねのける力が身体のどこからくるかといえば、一つは副腎から分泌されるストレスホルモンです。
 その力が弱っていてはローカルルールをはねのけることは難しくなります。
 睡眠、食事、運動が制限されると途端に身体がストレスをはねのける力は下がり、解離しやすくなったり、判断力が低下したり、
 極端な場合は過労死といったような自体にも至ります。

 そして、あまりにストレスフルな環境からは距離を置く。

(参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 

 次に、2.「関係(常識、公的環境とつながる)」とは、問題となるコミュニティ以外の人たちとたくさん、薄くつながることです。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである」

 「間違った選択を同調圧力によって正しいと信じ込ませようとする」心理学の実験においてもローカルルールに対抗できた人は、頭の中で、友人・知人を思い浮かべていたと言います。つまり、外の関係とつながることができていたわけです。

 いじめにおいても、学校以外の趣味の世界がある子は抵抗しやすかったりします。
 

 

 職場のストレスで苦しんでいても、外の空気に触れて、気楽な人との何気ない会話に救われたり、といったことは私たちも経験することがあります。
 
 そうした外の関係とつながることで、「公的な環境」の光、空気が差し込んできて、それがローカルルールによって人格を全否定された自分の気持ちを“我に返してくれる”効果があるのです。

 
 本当の意味での常識というのは、私たちに抵抗する拠点を与えてくれるものです。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 

 その際に注意しないといけないのは、「家族や親」に相談したりすることです。機能している家族は抵抗のための基地になりますが、機能していない「家族や親」は、常識の参照元にはなりえない。

 もし、ご自身がローカルルールに影響されやすい場合は、ストレス障害(≒トラウマ)を抱えているケースがあります。
 そのトラウマの原因というのが、家族であったりすることがあるのです。

 

 家族は味方のフリをしているだけで、実は暴言、悪口というストレスを浴びせられていたり、過干渉によって「あなたは何もできない」というメッセージを投げ続けられていたり、といったことはよくあります。
 なぜか妙に自信がない、自分がない、という状態にさせられてしまいます。

 外での悩みを家族や親に相談しても、「あなたにも問題がある」といったような余計なアドバイスで苦しめられます。
 これも結局は、親の私情を常識のように騙って“アドバイス”としているローカルルールでしかない。

 

 

 このように、家族(場合によっては友人なども)が真に味方ではないことはとても多い。彼らも、不安定な自己愛、恨み、嫉妬、支配欲といった不全感を抱えていたりするからです。

 家族など身近な人がもたらすストレスによって内的、外的な「安心安全」を奪われてきたために、外で遭遇するローカルルールに抵抗する力が低下ししてしまっているのです。

 

 

 もう一つ注意が必要なのは、ローカルルールに、ローカルルールで対抗しないこと。
 具体的には、例えば、自己啓発やスピリチュアルなものに気を付けることです。それは、(もちろん、本当に良いものもあるかもしれませんが)、それ自身も単なるローカルルールでしかないことも多く、ローカルルールから抜け出すために、別のローカルルールに移る、といったことにしかなりません。
 そこには、やさしそうだけど実は支配欲のあるグルが待ち構えているといったケースや、メンバー同士が競争的な場所だった、なんてことは珍しくないことです。

(参考)→「ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 

 別のローカルルールに頼ってしまうケースで多いのは、ローカルルールと常識との違いに気が付いていない場合や対人恐怖や社会恐怖を植え付けられてしまっている場合。

 
 ローカルルール=社会と捉えてしまっているので、社会というものへの恨みを持ってしまって、戻るべき場所がなくなってしまっているのです。

 社会という足場を奪われて、反対に恨みを向けさせられているのもローカルルールの恐ろしさとも言えます。

 でも、ローカルルールと、社会とは全く違う、ということ。ローカルルールと常識とは全く別物であると知れば、恐怖からも自由になれる。

 ローカルルールから抜け出すためには、常識の力、公的な環境が必要。
 造花と生花が全く異なるように、その深さ、多様性は比べ物になりません。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

(参考)→「「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 

 
 私たちがローカルルールを活性化せないということは、自然の環境保全とも似ています。
 

 水や栄養を確保したり(安心安全)、
 光が差し込んだり、よい空気が循環している(公的な環境)。

 そして、多様な植物、生物、微生物が存在していてバランスが取れている(関係)。 何か特定のものに偏ると、変化に弱くなります。

 

 代謝があって、循環している。それぞれが機能を発揮することで、住みやすい環境が作られていきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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